vol.60「火附盗賊改」について


火附盗賊改(ひつけとうぞくあらため)」という役職をご存知でしょうか? もちろん私はアイドンノウであります。では「火盗(かとう)」と言う言葉を聞いたことは? これもノーアイハブンット(加藤ならあるけど)ですよね。したらば「鬼平犯科帳」って知ってます? と来たら、オーイエスイエス!アイノウ、オニヘー!(観たことないけども)とはなりますが、まあその程度でござんす。


なので、ググってみますれば「鬼平」とは「長谷川平蔵」なる実在の人物のことで、田沼時代に起きた江戸の打ちこわしでめっちゃ活躍したことから火附盗賊改に抜擢され、その後の松平定信時代になっても手強かった大悪党を次々と逮捕し、盗賊らから「鬼の平蔵」と恐れられたヒーローだったそうです。だから小説とかドラマで大人気なわけでやんすね。


んで、この火附盗賊改って役職がまた特殊なようで。いわゆる公安の特捜部みたいなもんでしょうか。盗賊のアジトを見つけて大人数で乗り込んだ際は、当然チャンバラになるわけですから、犯人をその場で斬り殺しちゃっても良かったりするんですと。↑ の画像にあるように、まさに「泣く子も黙る殺しのライセンス」を持った武闘派警察ってわけ。そりゃカッコいいに決まってますな。


では、今回はそんな「007」のような役職にまつわる知識をまとめてみたいと思います。




⚫︎ 元祖「鬼」中山勘解由


5th綱吉の時代、盗賊が火附をして混乱のさなかに押込強盗をする事件が相次ぐため、火附改に任命された「中山勘解由(なかやま かげゆ)」は、火事場で見かけた不審者のみならず、江戸中で怪しい者と見れば片っ端から捕えるので、誤認逮捕だらけであった。しかも尋問(拷問)が厳しく、死ぬまで責めるので冤罪なのに処刑される者も多数。人々から「鬼勘解由」と恐れられたそうな。


普通、拷問をするには町奉行とか老中の許可が要るのだが、凶悪犯を相手にする火附改や盗賊改は独自の判断で拷問ができた。そこで鬼の勘解由は「海老責め」という拷問法を発明。捕まえた大盗賊「うずら権兵衛」の屈強な身体でこれを実験し、みごと権兵衛に前科を白状させ、後に正式な拷問法に採用を果たしている。なんてマッドなポリスであろうか。。


だが、かの有名な放火犯「八百屋お七」を捕らえた時ばかりは、何故か急に優しくなって「16歳って言っとけば許したる」とか助言するも、共犯の男に「なにそれズッル!!つか17歳の証拠あるし!」と論破され、結局お七も火炙りに処すというワケわからん鬼の目にも涙的な都市伝説を複数生んでしまう(笑)


とは言え、鬼勘解由の活躍ぶりはすごい。かぶき者と自称して江戸市中で乱暴、狼藉を働く荒くれ者どもを、片っ端からしょっぴくこと200人以上。同時代の儒者「荻生徂徠(おぎゅうそらい)」にも「恐怖弾圧を是とはしないが効果は確かにあるな」と勘解由の力を半ば認められていたとか。いやいやいや、儒教学者がそれを認めて良いんかいって話w




⚫︎ 「火炙り記録保持者」山川安左衛門


8th吉宗の時代になり、火附改と、盗賊改と、賭博改が統合されて、正式に火附盗賊改という役職が確立する。それに就任したのがこの山川安左衛門で、彼はなんと4ヶ月で102人を火炙りに処した。山川の取り締まりと火罪の執行には放火・強盗を未然に防ごうという気がなく、捕らえた者の裁判もお座なりで、ひたすら火罪のタイトルホルダーをめざし、吉宗の歓心を得ようとした観がある。


そんな死神のような山川のことを無宿者はもちろん町人までもがみな恐れ、夜泣きする子供ですら「山川が来るぞ」と言えば泣き止んだそうな(ナマハゲかよw)。また「山川白酒」という品を商う者も、この人の苗字を呼ぶことを恐れ、看板から山川の字を削ったのだとか(正しいコンプラw)



うーむ。。

この方向性で書き続けると、火附盗賊改の方が悪者になってしまいそうなので、ここから先は火附盗賊改によって捕らえられた悪党の方にスポットを当ててゆくことにしますね。



⚫︎ 日本左衛門 arrested by 徳山五兵衛


享保4年(1719年) - 延享4年3月11日(1747年4月20日))は、江戸時代中期の大盗賊の異名。本名は「濱島 庄兵衛」と言い、9th家重の時代に200人を超える手下を従え、東海道筋で押込強盗を働いていた。これの討伐を命じられた火附盗賊改の「徳山五兵衛」は、大人数で夜中にアジトへ討ち入るが、肝心の日本左衛門を取り逃してしまい、異例の全国指名手配の御触れを出す。しかし日本左衛門は捜査の網をかいくぐり三ヶ月もの間姿をくらましたのち、逃げきれないと悟り京都で自首。


江戸へ移され覚悟を決めていた日本左衛門は、取り調べにも素直に応じて罪状を認め、市中引き回しの上、小伝馬町牢屋敷で斬首されて晒し首となった。自首という形ではあったが前代未聞の大盗賊団を壊滅させたことにより、以後これほど大規模な盗賊団は生まれなくなる。その後、歌舞伎の白波五人男の一人である日本駄右衛門のモデルとなった。



⚫︎ 神道徳次郎 arrested by 長谷川平蔵


神道流の剣術の使い手であり、数十人の手下を率いて陸奥、常陸、上総、下総、下野、武州を荒らしまわった大盗賊。移動時は公儀の御用であるように偽装し、関所等の警戒網を潜り抜けて押込強盗を重ねていた。僧や百姓を惨殺したり、けがを負わせたりと、誠に傍若無人、凶悪至極、大胆不敵、神出鬼没の公儀を恐れぬ広域盗賊団だった


徳次郎一党は20歳前後の不良たちを中心とした犯罪集団で、大荒れの時代に現れたあだ花というべき存在。多感な時期に飢饉を生き抜き、江戸の打ち壊しや絹一揆などの民衆暴動を目の当たりにしてきたので、おのずからすさんだ生き方になってしまったのだろう。一説によると数十人の部下の他に関わりのあった手下は数百人いたとも言われ、まさに若いアウトローたちのカリスマ的存在だったのだ


だが、火付盗賊改方の「長谷川平蔵(鬼平)」により捕らえられ、大宮宿で手下と共に獄門にかけられた。享年28。大盗である彼が捕縛されたことは世間を驚かせ、捕り手である平蔵の勇名を世間に知らしめる端緒となった。



⚫︎ 葵小僧 arrested by 長谷川平蔵


寛政3年(1791年)の頃、徳川家の家紋である葵の御紋をつけた提灯を掲げて商家に押込強盗を行い、押込先の婦女を必ず強姦するという凶悪な手口をもって江戸市中を荒らしまわった。この盗賊が丸に三つ葵の御紋を身につけ犯行に及んだことは、江戸幕府と共に名声が高くなりつつあった火付盗賊改方の長谷川平蔵をあざ笑うかのような犯行だった。


幕府の治安を預かる御先手組は業を煮やし、寛政3年(1791)4月、全組を出動させ江戸中に厳戒態勢を敷いた。しかし、葵小僧の行列はその中を堂々と通ったという。捜査陣は、葵小僧の傍若無人な行動に翻弄され続けたのである。

そんな状況下、平蔵は持ち前の明晰な洞察力で丹念な捜査を辛抱強く続け、ついに板橋宿で葵小僧一味の捕縛に成功。当時の取調べの場合、被害者からも供述を取った上で刑罰を決定するのが通常の手順であったが、平蔵と老中ら幕閣の専断により、捕縛後10日ほどで獄門にかけられ、調書もすべて処分された。これは、強姦された被害者の苦痛を慮った判断であったと言われる。



⚫︎ 鼠小僧次郎吉 arrested by ??


時代劇の大岡越前などによく登場した「鼠小僧次郎吉」は実在の人物である。義賊として江戸時代から歌舞伎や狂言、近代に入ってからも大佛次郎や芥川龍之介をはじめとした大作家たちからも作品として描かれている。武家屋敷ばかりで盗みを働いていたことから市井の人たちから喝采を浴び、いつしか「金をまいた」「貧乏人からは盗まない」などといった風説が広まっていった。


が、実際はどうだったかと言えば「単に武家屋敷のほうが警備が甘かったから」と告白している。しかも彼の盗みの目的は“ばくち”のためで、その盗みの回数は、10年間で1000回超、5000両を超えていたとも言われている。ここまでくれば立派なロクデナシである。


結局、天保3(1832)年5月についに現行犯で捕まり、同年8月19日(9月13日)に市中引き回しの上、小塚原で獄門になる。捕まった時、ほとんど手元にお金を持っていなかったことから、ますます義賊説が流布するようになった。加えて、武士を困らせていたこと、一人で仕事をしていたことなどで一層人気は高まった。




ってことで、こうした大盗賊のみならず、子悪党から放火犯まで悪い奴がたくさんいるので、火附盗賊改という強い取締役が必要だったワケですね。それにしても、なかなかキャラの立った怪人達がいたんですねぇ。バットマンのヴィランみたいで、ちょっとカッコ良く思えちゃったりもしますが、実際に襲われたらたまったもんじゃないでしょうし、町民が安心して眠れるためにも火附盗賊改さんは強くて怖いに越したことはないですね。まあ、そうなんですけど、けど、、


冤罪で拷問されるのも、もっとたまらんす。。

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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