vol.61「江戸三大火事」について


1806年「文化の大火」またの名を「車町火事」あるいは「丙寅火事」と呼ばれる火事が起こる。


江戸は火災が多い都市である。江戸時代270年余の間に大火だけでも49回、記録に残されている火事の合計は1800回弱に及ぶらしい。そのうち「明暦の大火」「明和の大火」「文化の大火」を江戸の三大火事と称する。もちろん三大に選ばれる基準はその規模と死者数によるものだ。


死者数の多さも並びの通り、1位が明暦の大火10万人超え、2位が明和の大火で推定1万4700人、3位が文化の大火の約1200人、である。いろいろ対策を講じて、だんだん死者数を減らしてきてはいるものの、それでも文化の大火での死者は1000人を超えたことで3位にランクインした久々の大火事と言える。


では、良い機会なので、ここで改めて過去の明暦、明和も含め、江戸の三大火事について、まとめておくことにしよう。おさらいを欠かさない私ってば偉い



⚫︎ No.1 明暦の大火(振袖火事)1657年


明暦3年(1657年)本郷丸山(現在の文京区)で、当時の江戸の大半を焼失するに至った日本最大最悪の大火災が発生。この火災により、外堀以内のほぼ全域、天守を含む江戸城や、多数の大名屋敷、市街地の大半が焼失した。死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている


火災後、身元不明の遺体は幕府の手により本所牛島新田へ船で運ばれて埋葬され、供養のために現在の回向院が建立される。この時、焼失した江戸城の天守の再建計画が立てられたが、4th家綱と、保科正之松平伊豆守信綱(知恵伊豆)らの英断により「城下の復興を優先」し、天守閣の再建は行わなかった。(このあたりは、vol.3『江戸一新』を読んでにて詳しくに書きましたな)


出火原因は、放火・失火の両説あるが、俗説では恋の病でこの世を去った娘の「振袖」が原因だったとされているので、今回はそこを詳しく。


娘たちに不幸を招く呪われた振袖


それは春のことだった。浅草諏訪町の大増屋十右兵衛の一人娘、お菊は上野の花見へ行った帰りに、寺小姓の美少年にひとめぼれをしてしまった。それからというもの、お菊は食事ものどを通らず、寝ても覚めても寺小姓を想う日々。

ある日、お菊はせめてもの慰めにと、かの美少年が着ていたのと同じ模様の振袖を作ることにした。それでも想いはつのるばかりで、ついには病に臥せ、恋しい相手に会うこともできず、明暦元年1月16日16歳の若さでこの世を去ってしまうのだった。


娘の気持ちを憐れんだ両親は、お菊の棺に振袖をかけて、本郷丸山の本妙寺に葬った。35日の法事が済むと、住職はお菊の振袖を古着屋に売ってしまった。こうして振袖は持ち主を変えながら次々と不幸を運んでいくことになる。


死んだお菊の振袖を最初に手に入れたのは、本郷元町の麹屋吉兵衛の娘、お花だった。お花は、古着屋で見つけたこの振袖に心を引かれて両親に買ってもらったのだ。しかし翌年、お菊と同じ1月16日16歳で病死する。


お花の葬式は本妙寺で執り行われ、これまた振袖が寺に納められた。法事が終わり、振袖は再び古着屋の手を経て、今度は中橋の質屋伊勢谷五兵衛の娘にわたるのだが、彼女も2人の娘と同じく翌年の1月16日16歳で亡くなってしまう。


どうもこの振袖はおかしい。振袖によってもたらされる不思議な因縁に恐ろしくなった住職は、供養をして振袖を焼き払うことにした。

明暦3(1657)年1月18日。和尚が読経しながら振袖を火に投じると、突如として一陣の強風が吹き荒れた。すると、火のついた振袖は火の粉を散らしながら舞い上がり、本堂はあっという間に火柱になってしまったという。火はどんどん広がっていき、江戸の市内をも燃やしつくしたのだ。


3年続けて同じ月日に、同じ年齢の娘の命を奪ったとされるいわくつきの振袖にまつわる奇怪な「振袖火事」。出火の原因は恋の病でこの世を去った娘の哀しき祟りだったのだろうか? 真相はすでに燃え尽きて、灰の中である。。


明暦の大火を契機に、江戸の都市改造が行われ、御三家の屋敷が江戸城外に転出するとともに、それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。今の人形町にあった吉原遊廓も、浅草へ移転して新吉原として再興することになる。

また、市区改正が行われるとともに、防衛のため千住大橋だけであった隅田川の架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など市街地が拡大されるとともに、吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進んだ。

さらに防災への取り組みも行われ、火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された。現在でも上野広小路などの地名が残っている。




⚫︎ No.2 明和の大火(目黒行人坂火事)1772年


明和9年2月29日(1772年4月1日)、江戸三大大火の一つと言われる明和の大火が発生した。火元は現在のJR目黒駅近くの行人坂にある大円寺で、強風にあおられ3日間にわたり江戸市中に類焼した。この火災による被害は、焼失町数934町、死者14,700人と伝えられている。

焼失面積において明暦の大火には及ばないものの、目黒から千住まで細長く燃え広がり、延焼距離としては、江戸時代から現代までで最も長い火災となった


出火原因は、坊主くずれの「長五郎」が、大円寺の和尚に破門されたことを根にもって、庫裡(くり)に火を付けたもの。長五郎が怪しいとにらんだのが、火附盗賊改である鬼平こと長谷川平蔵の父親で、持前の鋭い勘と執拗な追跡によって、みごと長五郎を捕らえることに成功した。


長五郎の余罪は甚だしく、14歳のときに、奉公先の主人に叱られた腹いせに屋敷に火を付け、どさくさにまぎれて衣類を持ち逃げしたのをはじめ、親から勘当されると金子を盗んで逐電し、大円寺の修行僧として住み込んだときにはお布施をちょろまかし、破門されれば無宿者と馴れ合って、町屋に忍んで盗みを働くなど、悪行の限りをつくす極悪人であった。


長五郎は火付けの科(とが)人として、はだか馬に縛り上げられ江戸市中を引き回された後、明和9(1772)年6月21日、浅草の仕置場で火焙りの刑に処せられた。処刑されるとき長五郎は、「御当世は、御倹約(ごけんやく)ばやりであるから、自分も五軒焼く(ごけんやく)つもりでやったが、大きな火事になってしまった」と、うそぶいたと伝えられている。


火災があまりに大きかったため、物価は高騰し、庶民生活に大きな打撃を与えた。このため幕府は世直しのひとつとして、その年の11月16日に年号を「安永」と改元したが、明和9年の年号に引っ掛けて「年号は安く永しと変われども、諸色高直いまにめいわく(明和9)」という狂歌が詠まれるなど、火災後の市民生活は大変だったようだ。




⚫︎ No.3 文化の大火(車町火事)1806年


出火元は芝・車町(現在の港区高輪2丁目)の材木座付近。午前10時頃に発生した火は、薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)・増上寺五重塔を全焼。折しも西南の強風にあおられて木挽町・数寄屋橋に飛び火し、そこから京橋・日本橋の殆どを焼失。更に火勢は止むことなく、神田、浅草方面まで燃え広がった。


翌5日の降雨によって鎮火したものの、延焼面積は下町を中心に530町に及び、焼失家屋は12万6000戸、死者は1200人を超えたと言われる。このため町奉行所では、被災者のために江戸8か所に御救小屋を建て炊き出しを始め、11万人以上の被災者に御救米銭(支援金)を与えた。この大火のため、大相撲の文化3年2月場所は5日目で中断に追い込まれている。


この大火の直後から、庶民情報が急激に活性化してきたことが注目すべき点だ。寛政改革以来、江戸の民衆たちは 言論や風俗など、さまざまな面から規制を受けていたが、これを跳ね返すような情報エネルギーの噴出がみられるのである。


鎮火の翌日、早くも焼場絵図(瓦版)が作成され、売り出されている。さらに、筆や墨を持たない者のために、手紙文を刷った瓦版も作成された。この瓦版を買った者は、月日と通信を書き込めば絵図とともに全国に送ることができるという、商魂たくましい営業であった。


このような瓦版の盛行と同時に、火災にまつわる落首や落書も多数つくられている。中でも、寛政の改革を行った松平定信、その子の定永、あるいは松平越前守(福井藩主)らへの告発が、落首や落書によって行われた。彼らは屋敷が類焼の危機にあったため避難しようとして、逃げ惑う民衆が邪魔だと殺傷したのである。


「 越中が 抜見で逃る 其跡へ かは(皮)をかぶって 逃る越前 」

これは「越中ふんどし」を文字って両大名を茶化した作品である。


「 越中の 御蕎麦手打と 評判し 」

これは「手打ち蕎麦」と手討ちに遭った人々をかけて皮肉っている。


文化・文政の時代は、民衆の文化行動エネルギ ーが発散されていく時期に当たっていた。庶民たちは、大火という災害に乗じて情報を共有するために、さまざまな手段を用いて情報を活性化させたのであった。 



⚫︎ 江戸の大火 急速に発達する低気圧が影響か


江戸の三大大火とされる「明暦の大火」「明和の大火」「文化の大火」が起きたのは、いずれも今でいうと春先の三~四月に当たる。現代では、これら大火はこの時期に見られる「急速に発達する低気圧」が原因と考えられているらしい。内閣府が設置した「災害教訓の継承に関する専門調査会」は、2004年、被害が広がった原因として「日本海に発生した低気圧が急速に発達」との見解を挙げている。


暖かい空気と冷たい空気が日本の上空でせめぎ合うこの時期、日本海付近で低気圧が急速に発達することがあり、風も急速に強まるため、火事になると一気に火が燃え広がるのだとか。


ああ、あれか、春一番か。

あの風の勢いに火が乗っていったことを想像すると、なんだか納得である。そりゃ消せないわ。


納得できたので、終わりましょうか。

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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