vol.63「江戸の食」について④


さて、このところ物騒なテーマが続きましたので、箸休め的に平和な「食」の話をしましょうか、ってでも食だけに箸は休まりませんけどね(笑)とか、くだらないオジサンジョークをつい口走ってしまう私もいよいよそんなお年頃か。


おおやだやだ、歳はとりたくないですね。けど、生きてる以上しかたないし、どうしたって腹も減ります。どうせ食べるならば美味いものを、と思うのは江戸時代でも同じことで。庶民もだんだん食に対して色んなこだわりを見せてきます。と言うわけで、江戸の食文化④ いってみよー、やってみよー。(←すっごい古いNHK教育番組)




⚫︎ エンタメ化する食文化

江戸も後半にさしかかる頃、1817(文化14)年に両国・柳橋にある万屋八郎兵衛の屋敷にて「大酒大食之会」なるものがもよおされた。競った食べ物は酒、菓子、飯、鰻、蕎麦などで、昨今のテレビ番組での大食い競争は、すでに江戸人がやっていたことでもあったようだ。

まず大酒のグループでは「三升入の盃を6杯半飲んで倒れ、長い休憩の後、水を茶碗に17杯飲んだのは芝口の鯉屋利兵衛三八歳であった」と記録されている。

(倒れて休んで水飲んでってw)

菓子のグループでは、饅頭を50個、ようかん7本、薄皮餅を30個一気に食べたうえに、茶を19杯飲んだ者がいたらしい。

(頭痛くなってる人おるw)

飯の部では飯50杯、唐辛子5把、あるいは飯53杯に醬油3合などの記録があり、茶碗の大きさは茶漬け茶碗をもちい、万年味噌をおかずに香の物つきで競っている。

(おいおい醤油は死ぬぞw)

蕎麦は中型の平(皿状の椀)に盛り上げたもので63杯。おもしろいのは鰻で、何匹という争いではなく、金に換算されているのでよくわからない。最後に真偽のほどが怪しい旨まで書かれているが、こういうことがおこなわれ、食を遊戯化していたことがわかる。




⚫︎ 料理茶屋の出現


天下泰平の化政時代、往来での立ち食いのような食べ物売りや、店を構えての「そば」とか「すし」「蒲焼」などといった単品ではなく、セット料理を出す店が、主だった繁華な街に出現する。そして、一膳飯屋などがついに第四形態である「料理茶屋」へと進化を遂げる。


座敷を構えての料理茶屋は、江戸留守居役の武士たちが政治談義をおこなうのにうってつけであった。はじめこそ、接待と称して屋敷に出入りしていたが、やがて外部で会う場所が必要となった。また、商人が経済力をバックに勢力をもち、そのさまざまな交渉などにも料理茶屋は格好の場所であり、それだからこそ発展したとも言える。


天災・飢饉や流行病や火事と、何が起こるか分からない社会ではあったが、戦がないということはやはり何といっても安心して暮らすことができた。こうした中で、近江商人伊勢商人といわれる人々が江戸をはじめとして勢力をのばし、物資が豊富に出まわり、町人たちの奢りもエスカレートしていった。


また、町人が教養としての趣味を持つことで文化面も栄え、豊かな人々の中に「文人墨客」という階層を育てることとなり、それらの人々もまた料理茶屋を訪れ、記録に余念がなかった。(そうしたものの中に山東京山『蜘蛛の糸巻』や『寛天見聞記』などがある)

< 高級料理茶屋の頂点「八百善」 >


八百善はもともと八百屋であったが、元禄時代に「八百善」という名で料亭に進化。四代目当主の「栗山善四郎」は、21歳、35歳のときにそれぞれ江戸から京都、江戸から四国まで各地の料理や食材などを研究するため数カ月に及ぶ長い旅に出るなど、食材選びから調理法、盛り付けなど一切の妥協を許さず、文化文政期には11代将軍家斉も立ち寄る江戸で最も名高い料亭へと八百善を押し上げた


先の話ではあるけれども、篤姫として知られる天正院も、勝海舟を伴って しばしば八百善を訪れたとか。また、幕末には、幕府に開国を求めたペリーの接待も仰せつかり、おびただしい料理と皿を並べ、その費用は千両にものぼったんですと。


そんな「八百善伝説」の中でも代表的なものが、江戸末期の書物『寛天見聞記』に書かれた「一両二分の茶漬け」にまつわるエピソードである。


ある時、美食に飽きた通人が数名、八百善を訪れ「極上の茶漬けを食べたい」と注文しました。しかし、いくら待っても、なかなか注文の品は出てきません。半日ほど経ってやっとありつけたのは、なるほど確かにこの上なく美味い極上の茶漬けと香の物でした。


しかし、勘定が一両二分と聞き、通人たちは驚きます。「こんなに待たせておいて、さすがに高すぎる」と言うと、主人はこう答えました。


「香の物は春には珍しい瓜と茄子を切り混ぜにしたもので、茶は玉露、米は越後の一粒選り、玉露に合わせる水はこの辺りのものはよくないので、早飛脚を仕立てて玉川上水の取水口まで水を汲みに行かせましたため時間を要しました」


それを聞いた通人たちは、「さすが八百善」と納得して帰ったといいます。当時の一両は、現在の貨幣価値で3~5万円と言われますので、いかに高価だったかがわかります。


もう一つ、有名な逸話が「ハリハリ漬」です。
喜田村香城が書いた『五月雨草紙』によると、ある人が、以前食べた八百善のハリハリ漬の味を思い出し、使いの者に小鉢を持たせて八百善へ送り出しました。すると、ほんの一口のハリハリ漬が三百疋(三分)もしました。


これはあまりに高いとかけあったところ「手前どものハリハリ漬けは、選び抜いた尾張産の大根一把から極細の一、二本を抜き出し、水を使わず味醂で洗って漬けるのでこの値段になるのです」と主人は答えました。大根を水で洗うと辛くなるため、当時、高価だった味醂を使って大根の泥を落としていると聞き、その人も納得したそうです。


八百善の料理の基礎となったのは、鎌倉時代から室町時代にかけて成立された、複数のお膳が出る料理形式「本膳料理」。一つ一つの膳に料理を出す、いわば日本料理の原型とも言えるこの「本膳料理」をベースにしながら、中国明時代風の精進料理である「普茶料理」や、オランダ料理を和食に取り込んだ「卓袱料理」に、「懐石料理」などを取り入れながら「会席料理」を確立。さまざまな工夫を凝らし、人手と手間暇をおしまない八百善の料理は、高級料亭の先駆けとして、江戸の食文化の形成に重要な役割を果たしたのである。



かくして、八百善を筆頭に、たくさんの料理茶屋が生まれ、日本料理というものが完成していったんですって。それから明治維新と開国によって西洋料理も入ってきて、すき焼きウマーとか、オムレツうまーとか、食べれるものも増えてくわけですが、その流れは当研究所の調査対象外なので、これにて「江戸の食」シリーズ完結であります。


とは言え、いろいろ取りこぼしてるでしょうから、いつかまた⑤を書く気になったらお会いしましょう。ごちそーさまでしーたっ!(←小学生風な大きな声で)

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。