vol.62「フェートン号事件」について


これまで「知っているようで実はよく知らない案件」を多く扱ってきたが、この件に関しては「知らないようで本当に全くなんにもじぇんじぇん知らない案件」であるがゆえ、細かいことは抜きにして、自分なりに分かりやすくまとめてみました。



⚫︎ ナポレオン戦争の余波


1793年にオランダはフランスに占領された。このため、世界各地にあったオランダの植民地はすべてフランス帝国の影響下に置かれることとなる。しかし、アジアの制海権は既にイギリスが握っていたため、日本の長崎と貿易を続けるオランダ船をイギリスは拿捕しようと躍起になっていた。


文化5年8月15日(1808年10月4日)、オランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲート艦フェートン号は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港した。これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館では、商館員ホウゼンルマンと、シキンムルの2名を小舟で派遣し、慣例に従って長崎奉行所のオランダ通詞らとともに出迎えのため船に乗り込もうとしたところ、武装ボートによって商館員2名が拉致され、船に連行された。それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めて武装ボートで長崎港内の捜索を行った。




⚫︎ 長崎奉行とカピタン


長崎奉行の松平康英は、オランダ商館長(カピタン)ヘンドリック・ドゥーフから報告を受け驚愕する。


「どしたどしたカピターン? 顔色変えちゃって」

「ブギョー大変デス! 実はかくかくしかじか〜泣」

「なぬう!? 人質を取るとは卑怯なっ! して、相手の要求は?」

「水と食料をくれなきゃ砲撃しちゃうぞ言うてマス〜泣」

「ハロウィンかよっ! そんな要求を丸呑みしたら国の恥だとオレが責任取らされんじゃんかよ! ええいっすぐ焼き払って何も無かったことにしようっ!」

「ノー! 人質殺されマース! それにイギリスと全面戦争になる恐れが〜泣」

「ぐむむ〜そっちの責任も怖い! ぬぉ〜平和に暮らしてたのになんなんだよも〜!」

「ブギョー、どうしまショ〜泣」

「だー! もうしゃーない! とりあえず人質のことは何とかすると約束すっから、とりあえず反撃準備は整えるっきゃねえべよっ!」


ところが、その年の長崎警衛当番であった鍋島藩が、太平に慣れ経費削減のため守備兵を無断で減らしており、長崎には本来の駐在兵力の10分の1ほどのわずか100名程度しか在番していないことが判明する


「え? 1000人いるはずが100人しかいないの? 経費削減で? ぶばば、ばっかも〜ん!!」

「ブギョー勝目ないデスて! 要求呑みまショ〜泣」

「うっさい! 泣くな役立たずっ! とりま急いで九州諸藩に応援出兵を頼め頼め!」

「デモ、到着まで時間かかりマスよ〜泣」

「くっそ〜、どぉすりゃいいんだよぉ! とりあえず人質と交換に水も食料もちょびっとだけ渡して、残りは明日ねーとか言って時間を稼ぐかっ!」


翌16日、長崎奉行所では食料や飲料水を準備して舟に積み込み、オランダ商館から提供された豚と牛とともにフェートン号に送った。これを受けてフェートン号艦長は人質を釈放し、出航の準備を始めた。


「人質無事デシタ〜! ありがとございマス! 笑」

「笑ってんじゃないよこのバカ! このままじゃ日本の面目丸潰れだわっ! もうじき応援が到着するから、そしたらあの船、海底に沈めてくれるっ! ザマーミロ〜わっはっは〜!」


17日未明、近隣の大村藩主が藩兵を率いて長崎に到着した。松平康英は大村藩主と共にフェートン号を抑留もしくは焼き討ちするための作戦を進めていたが、その間にフェートン号は碇を上げ長崎港外に去った。


「あれ? いない?」

「なんかもう帰っちゃったみたいデスね〜笑」

「、、、え? ってことは、これオレ切腹?」

「デスね〜笑」




⚫︎ 結果とその後


結果だけを見れば日本側に人的・物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されて事件は平穏に解決した。しかし、手持ちの兵力もなく、侵入船の要求にむざむざと応じざるを得なかった長崎奉行の松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹し、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹した。さらに幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、11月には鍋島藩主に100日の閉門を命じた。


事件ののち、オランダ商館長(カピタン)や、長崎奉行後任らが臨検体制の改革を行い、秘密信号旗を用いるなど外国船の入国手続きが強化された。その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は1825年に異国船打払令を発令することになる


この屈辱を味わった鍋島藩は、それから近代化に尽力し、明治維新の際に大きな力を持つに至る。


一方、イギリスは1811年になってインドからジャワ島に遠征軍を派遣し、東インド全島を支配下に置いた。イギリスから長崎のオランダ商館には何の連絡もなく、商館長(カピタン)ドゥーフらはナポレオン帝国没落後まで長崎出島に放置された。これによりカピタンたちは本国の支援もないまま、7年もの年月を日本で過ごしていくこととなる。


「どうなっちゃってんノ〜!泣」




ということで、分かりやすくするためにカピタン(ヘンドリック・ドゥーフ)をアホみたいに書いてしまいましたが、実際はそんなではなく。ロシアのレザノフが長崎に来た時も日本との仲介対応したり、なかなか実績ある人でして。


祖国オランダがナポレオンに占領されて一時消滅状態にある中でも、長崎出島商館で滅びたはずのオランダ国旗を掲げ続け、孤立無縁で頑張ったことから、オランダ再独立の2年後、ドゥーフは国の名誉を守ったとして、オランダより最高勲章を賜わり、17年ぶりに故国オランダへ帰国。他のカピタンが長くても数年で帰国している中、17年もの長期間、亡国の国民でありながら故国人としての誇りを失わずに、他国の責任官として勤め上げたドゥーフは、当時の日本人にも敬意を持たれたと伝わるんですと。


一方、長崎ブギョーだった松平康英は、本当は自らの威信に賭けてフェートン号を打ち払いたくて仕方なかった。だが今戦えばオランダ商館の職員らのみならず、長崎港で働く多くの人々が犠牲になる。しかし、かと言ってみすみす言うなりになれば自身の藩や家も咎を受けるであろう。その難しい選択を迫られ悩みに悩んだが、最終的に後者を取った。そして関係者への処分が最小限になるよう自ら切腹したのである。そんな彼にも敬意を表したい。


たいした被害もなかったからか、教科書でもサラッとしか触れられず、私的には「知らないようで本当に全くなんにもじぇんじぇん知らない案件」でしたけれども、詳しく調べると色んなドラマがあるもんですね。


「デスね〜笑」

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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