vol.68「シーボルト」について(前編)


本当は「シーボルト事件について」として、軽く調べて次に行こうと思っていたのだが、知れば知るほどシーボルトという人物の魅力にハマってしまい、前編後編に分けての2部作にすることに。シーボルト本人の魅力もさることながら、彼と関わる登場人物がなかなか個性溢れる顔ぶれなのが面白くて面白くて。さながら短編と短編が繋がってゆくオムニバス形式の映画を観ているかのよう。そうゆうの大好きだ!(←ハンス王子的に)




⚫︎ 表の顔と裏の顔


1823年、日本に着いたシーボルトは、27歳と若かった。オランダ領東インド政庁の商館付き医師として長崎・出島に赴任。滞在の約6年間、診療所兼私塾「鳴滝塾(なるたきじゅく)」で多くの蘭学者を育てる傍ら、日本の動植物の研究に没頭した。一方、日蘭貿易に役立つ市場調査を行い、オランダ政府から「日本の政治・軍事情報を収集せよ」との特命を受けた。表の顔は医師と博物学者、裏の顔は市場調査員だった


ドイツの名門貴族に生まれたシーボルトは医学の道を選んだ。ヴュルツブルク大学卒業後は開業医となったが、当時、政情不安定、経済低迷に陥っていた母国を離れ、外国で活躍したいと考える。その頃オランダ政府は、貿易会社設立のために新しい医者を探す一方、貿易を独占していた日本で、植物から生活、文化、国勢、軍事に関する情報を収集する調査も計画していたため、ドイツ連邦を構成するバイエルン王国のシーボルトが抜擢されることになった。27歳の彼は、数奇な運命に導かれ、出島オランダ商館付医師・自然調査官として、日本へ向かう特別な切符を手に入れたのである。


「長崎の町が近づくにしたがい、湾はいよいよ活気を帯びる。船の左右にはいろいろな景色が見える。風はなぎ、空には一片の雲もなく、おかげで、こよなく美しい光り輝く風光を眺めることができた。気持ちのよい住宅の建ち並んだ、たとえようもなくすばらしい岸辺が一行を歓迎してくれる。なんと豊かな丘か、なんと崇高な神社の森か。生き生きした緑したたる山の頂、それはまことに絵のように美しい」




⚫︎ オランダ人に成り済ます


日本はオランダ人以外の西洋人の入国を禁じていたため、シーボルトはオランダ人になりすまして入国を試みる。が、流暢なオランダ語を話せる日本の通詞が、シーボルトの不自然なオランダ語を怪しみ「彼はオランダ人ではないのでは?」と疑惑の目を向けた。この時、側にいたオランダ人商館長が機転を利かせて「彼は山オランダ人(山地のオランダ人)なので、方言でしゃべっている」と指摘し、入国審査をパスしたという。

実際はオランダは山のない平地国家であるが、日本人はそれを知らないため難を逃れた。かくして、27歳の若きシーボルトは、1823年8月、長崎出島に降り立った。




⚫︎ 日本と西洋を結ぶ唯一の国際交流拠点


出島は、1636年、西洋との貿易窓口として築造された人工島。鎖国で一時無人となった出島であったが、島原・天草一揆の際、幕府に加勢したオランダは、布教よりも貿易優先という信用を得たことで、1641年、出島オランダ商館が誕生。

それから約200年間、出島は日本と西洋を結ぶ唯一の国際交流拠点として日本の近代化に貢献する。南蛮船でやってきたシーボルトの壮大な夢は、この小さな箱庭からスタートするのである。


余談COLUMN「出島のごちそう」
江戸時代、日本では肉食を忌避していたが、出島オランダ商館に住む西洋人にとっては、牛肉は当たり前の食事。シーボルトお抱え絵師「川原慶賀(けいが)」が描いた絵図においても、出島の肉食文化が描かれており、当時の長崎人も興味津々だったとか。




⚫︎ 出島の特例! シーボルトの外出許可


商館医の仕事は、商館員の健康管理。出島のシーボルトの元には、最新料学を学ぼうとする医師などが足繁く訪れた。シーボルトは、天然痘の予防接種ワクチン、ベラドンナを用いた白内障手術などの先進医療を惜しげもなく披露し、次第に評判を博すことに。商館長の協力もあり、医学や諸科学に精通し、教授できる人材として長崎奉行へ紹介されたシーボルトは、ついに出島の外で一般人を診察し、薬草を採取する許可を得る。


シーボルトは、西洋医学を教える見返りとして、門弟を使って日本の様々な情報を手に入れた。植物の標本作成・論文執筆などに功労した者には、専門書や外科器具、頭微鏡、更に西洋医学修得の証明書なども贈る手の尽くしようで、門弟たちは協力を惜しまなかったという。シーボルトの本懐である日本研究の体制は、こうして着実に形成されていった。




⚫︎ 国際調査の拠点・鳴滝塾


1824年、シーボルトは、長崎郊外の鳴滝にあったオランダ通詞「山作三郎」所有の別荘を譲り受け、来日外国人として初めての医学私塾・診療所「鳴滝塾」を創設する。彼の名はすぐに全国の蘭学者の間に広まった。こうして、最新の西洋近代医学を学びたいという医師や蘭学者が長崎に集まり、彼の講義に熱心に耳を傾けた。鳴滝塾は木造2階建てで、庭園にはシーボルトや門人が日本各地で採集した薬草類を移植・栽培した。


鳴滝塾では、一番弟子の蘭学者「高野長英」、日本初の理学博士「伊藤圭介」、初の幕府蘭方医官の最高位となる「伊東玄朴」、後にシーボルトの娘「イネ」に蘭学を教授する「二宮敬作」、日本眼科学の父「高良斎」など、日本全国から150名を超える秀才が集まった。ここでは、ただ書物から学ぶのではなく、シーボルトの診断治療を目の当たりにする実践的なものであったため、弟子たちは、西洋医学の知識技術を存分に吸収し、日本における西洋近代医学や自然科学のパイオニアとなっていった。


同時に、鳴滝塾は、シーボルトの日本における情報収集活動の拠点でもあった。シーボルトは全国から集まった塾生を使ってさまざまな調査を行い、日本に関する膨大な資料を収集した。その方法はとても画期的なもので、塾生たちにそれぞれ研究テーマを与え、オランダ語のレポートを提出させるというもの。当時の日本では「勉強=先生の言葉や本の内容を丸暗記すること」だったため、自分なりの課題を見つけて疑問を解いてゆくレポート作成は塾生にとって非常にユニークで、やり甲斐のある作業だったことだろう。


特に高野長英は『鯨ならびに捕鯨について』『日本における茶樹の栽培と茶の製法』『活花の技法について』『日本婦人の礼儀および婦人の化粧ならびに結婚風習について』『日本およびシナの医薬について』などなど、10以上のレポートを熱心に提出した。こうしてシーボルトは塾生との連携プレーで日本の研究を進めていったのである。


また、シーボルトは治療に当たり一切金銭を受け取らなかったために、患者たちが感謝の気持ちを込めて美術品や工芸品などを置いていったので、シーボルトのコレクションは膨大な量になっていった。なお、オランダ国王は、日本の美術工芸品を収集する費用として、事前に1万2000ギルダー(現在の日本円に換算して約2億5000万円)をシーボルトに支払う約束をしていたという。彼は国王直属のバイヤーでもあったのだ。



余談COLUMN「楠本たき・イネ」
シーボルトは長崎の丸山遊女「楠本たき」と結ばれ、彼女を「オタクサ(おたきさん)」と呼んでいた。やがてシーボルトは、はじめて見る美しい花(アジサイ)に出会い、その花に愛する人の名をとり 「ヒドランゲア・オタクサ」と名づけ、『日本植物誌』に掲載した。二人の間には文政10年(1827)娘「イネ」が生まれる。イネは父と同じ医学の道を志し、石井宗謙・二宮敬作・ポンペらに医学を学び、日本初の女性産科医として活躍。明治時代には東京の築地に開業したのち、福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、明治天皇の若宮の出産に立ち会うなど、その医学技術を高く評価された




⚫︎ 江戸参府を利用して情報を入手


オランダ商館長が江戸城へ出向いて将軍に贈り物を差し出し、忠誠を誓う「江戸参府」はシーボルトにとって江戸を知る千載一遇のチャンスだった。当時の幕府は、外国人が国内を自由に旅することを禁じていた。1826年の商館長スチューレルの江戸参府に同行。日本人通詞のほか、シーボルトの私的な使用人として塾生の湊長安、高野長英、二宮敬作らも加わった。また、風景や風俗の記録係として絵師の川原慶賀も一緒だった。道中を利用して日本の自然を研究することに没頭。地理や植生、気候や天文などを調査しつつ、将軍徳川家斉に謁見した


江戸の定宿は日本橋本石町の長崎屋。ここでさまざまな人物と会ったが、中でも国情に詳しい「最上徳内」に会うことは重要だった。最上は北方探検家「間宮林蔵」の上司だったからだ。シーボルトは「あなたの作成した蝦夷(北海道)、樺太(サハリン)の地図をお譲りいただけないか」と聞いた。日本地図を異国人に与えることは国禁だったので、最上は低い声で言った。「お譲りするわけにはゆきませぬが、一度お貸ししましょう。ただし、このことは絶対に他言しませぬように…」


この宿にはシーボルトに会いたい人物も多数訪れた。幕府の御書物奉行「高橋景保」は、何度も長崎屋に出向いた。シーボルトの持つクルーゼンシュテルンの『世界周航記』に興味があったからだ。その本があれば世界の動きを知ることができる。世界の情勢を知ることは、自分の学問のためだけではない。幕府のためにもなることだ。異国船を打ち払っていては到底得られない知識が日本の未来のために必要不可欠なのだ。


高橋は「もし貴方が持つ『世界周航記』をお譲り下さるならばば、私の持つ日本地図を模写してお渡ししましょう」と交渉した。その地図は、北方は樺太、千島にまで及ぶ日本沿海の測量図『伊能図』だった。地図は禁制品扱いであったが、高橋はその写しをシーボルトに渡した。後のシーボルト事件はこの禁制の地図の写しを持ち出したことが最大の焦点となる。


シーボルトらは1826年7月に江戸参府から出島に帰還。この旅行で1000点以上の日本名・漢字名植物標本を蒐集できた。だが、あくなき探究心を持つシーボルトは、日本の北方の植物にも興味をもち、間宮林蔵が蝦夷地で採取した押し葉標本を手に入れたく、間宮宛に丁重な手紙と布地を送った。しかし、間宮は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え、開封せずに上司に提出した


高橋景保と間宮林蔵のあいだには確執があったといわれる。間宮がシーボルトから受け取った手紙の内容が発端で、のちに多くの日本人と高橋景保が捕らえられ取調べを受けることになり、シーボルト自身も処分の決定を待つことになってしまうのだが、まだ誰もそれを予想できていなかった。。




さあ、シーボルト事件前夜まで来ましたが、今回はここまで。色んな有名人がシーボルトと接点があって面白いですよね。世界一蝦夷地に精通しておりシーボルトが絶対の信頼を寄せていた「最上徳内」に、樺太が島だと判明させたのち幕府の隠密として働いていた「間宮林蔵」と、伊能図の完成度を確認したかった「高橋景保」の3者による地図をめぐる動きもさることながら、この後ハードボイルドな運命を迎える「高野長英」や、置き去りにされるハーフの「楠木イネ」からも目が離せません。


シーボルト、なっかなかのキーマンですな。

そもそもスパイだし。



余談COLUMN「決闘者シーボルト」
大学在学中のシーボルトは、貴族階級という強い誇りがありました。当時決闘は常識だったとはいえ、33 回もの決闘のほとんどに勝利するほどの絶対的強者。江戸参府のときも、学術調査に非協力的だった商館長ステュルレルにも、決闘を申し入れたと言われています。理知的イメージからは想像もつかない、シーボルトの豪快なバイタリティは、日本への大冒険にも一役買ったことでしょう。


決闘って。何で? 剣で?

フェンシング的な?




参考
https://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/828000/p009222.htmlhttps://www.at-nagasaki.jp/feature/Siebold_001_01https://www.nippon.com/ja/views/b06901/

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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