vol.69「シーボルト」について(後編)


さて、知れば知るほど一体こいつは何者なのか分からなくなってくるシーボルト後編です。確かな医学知識と実力で評判を博し、日本の情報を大量ゲットしてゆく超一流スパイ、シーボルト。ついに最高峰の『伊能図』手に入れちゃったところで、予期せぬ事態が!




⚫︎ 発覚! シーボルト事件


1828年「シーボルト事件」が起こった。インドネシアに向けて出港しようとしていたオランダ商船が暴風雨にさらされ、座礁。彼が帰国する際、船に積まれた荷物の中から、国外への持ち出しが禁じられていた日本地図や江戸城の見取図、樺太計測地図の写しなどが発見された。シーボルトは江戸に参府した際、さまざまな手段でこれらを入手していた。中でも高橋景保からもらった樺太の詳細な地図の写しが問題となった


旧来の説では、禁制品を積んだ船が暴風雨(いわゆるシーボルト台風)に見舞われて座礁し、積み荷から地図などが発見されたという、この「蘭船積み荷発覚説」が知られていた。だが、1996年に旧来の説を否定する論文が出され、オランダ商館長の日記や、三井越後屋長崎代理店をしていた長崎商人の中野用助による報告書の写しから江戸で露見したとする「江戸露見説」が有力になっている。


長崎市鳴滝にあるシーボルト記念館の研究報告書である『鳴滝紀要』第六号(1996年)発表の梶輝行の論文「蘭船コルネリウス・ハウトマン号とシーボルト事件」で、これまで通説だった、暴風雨で座礁した船中から地図等のご禁制の品々が発見されたという説が、後日の創作であることが判明した


コルネリウス・デ・ハウトマン号は1828年10月に出航を予定していたが、同年9月17日夜半から18日未明に西日本を襲った猛烈な台風(いわゆるシーボルト台風)で座礁し、同年12月まで離礁できなかったのである。従来の説は、壊滅的な被害を受けて座礁した船の中から、禁制品の地図類や三つ葉葵の紋付帷子などが見つかっていたことになっていたが、座礁した船の臨検もなくそのままにされ、船に積み込まれていたのは、船体の安定を保つためのバラスト用の銅500ピコルだけだった。


2019年、中野用助が江戸に送った報告書を本店で写した資料が見つかった。中野の報告書によると、事件は江戸で露見し、飛脚で長崎に通報され、長崎奉行所がシーボルトを取り調べて様々な禁制品が見つかったと述べられており、オランダ側の資料とも一致する内容となっている。



余談COLUMN「シーボルト台風」
この台風がシーボルト事件の発覚に繋がった説により、1961年(昭和36年)から「シーボルト台風」と呼ばれるように。最低気圧は900ヘクトパスカル程、最大風速は50m/s程であったと推測されており、死者数は全体でおよそ20,000人(行方不明者も含む)、負傷者数も約20,000人だったとされています。日本の歴史上で最大級の被害を受けた大惨事がシーボルト台風です。




⚫︎ 関係者の取り調べと処分


当然、地図の管理者である「高橋景保(かげやす)」に、疑惑の目が及ぶ。シーボルトに日本地図を複写して贈った行為が、国禁に触れる大罪に当たると承知していたものの「それはわが国に利益を与える」とみていた。高橋が国禁を破ったのは確信犯に近かった。


江戸で高橋が逮捕され、これを受けてシーボルトへ高橋より送った手紙に「日本地図其の他、シーボルト所持致し居り候」とあったため、シーボルトの所持する日本地図を押収する内命が長崎奉行所にもたらされ、出島のシーボルトは訊問と家宅捜索をうけた。軟禁状態のシーボルトは研究と植物の乾燥や動物の剥製つくりをしてすごしたが、今までの収集品が無事オランダやバタヴィアに搬出できるかどうか心配でたまらなかった。


シーボルトは訊問で「科学的な目的のためだけに情報を求めた」と主張し、捕まった多くの日本人の友人を助けようと彼らに罪を負わせることを拒絶した自ら日本の民になり、残りの人生を日本に留まることで人質となることさえ申し出た。しかし、高橋景保は伝馬町牢屋敷に投獄され、数ヶ月後に獄死。享年45。獄死後、遺体は塩漬けにされて保存され、翌年に、改めて引き出されて罪状申し渡しの上斬首刑に処せられている。


高橋景保が獄死し、自分の身も危ぶまれたが、シーボルトの陳述は多くの友人と彼を手伝った人々を救ったと言われている。(事実、最上徳内は追及を免れている)だが、日本の地図を持ち出すことは禁制だとシーボルト自身も知っていたはずであり、日本近海の海底の深度測定など、スパイの疑惑が晴れたわけではなく、とうとう国外追放処分となった。




⚫︎ 帰国して日本学の祖となる


1830年にシーボルトは帰国、オランダ・ライデンに居住した。持ち帰った膨大な資料を基に、32年には大著『日本』を著す一方、日本の動植物に関する書籍もまとめた。『日本植物誌』にはアジサイが好きだったシーボルトが鳴滝塾周辺に咲く花を、妻の名前をとって学名「オタクサ」と命名したことが記されている。ヨーロッパでは既に化石動物と見られていた「オオサンショウウオ」が初めて紹介され、人気を博したと『日本動物誌』には記録されている。これらはシーボルト3部作として有名だ。その中で間宮海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記し、その名を世界に知らしめた。


また、日本の開国を促すために運動し、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草。1853年のアメリカの東インド艦隊を率いたマシュー・ペリー来日と、その目的は事前に察知しており、準備の段階で遠征艦隊への参加を申し出たものの、シーボルト事件で追放されていたことを理由に拒否された。また、早急な対処(軍事)を行わないように要請する書簡を送っている。


ペリーにとってシーボルトの日本情報は有意義だったものの、シーボルトの背後に控えたオランダに対する強い警戒感があった。そのためペリーは、オランダの助力を全て排し、自国の力だけで日本に開国を迫ろうと決意していた。


シーボルトは開国という点でペリーに排除され敗北したが、西洋に日本学を誕生させるという学術的な意味では、はるかに大きな歴史的功績を残した。1900年に開催されたパリの万国博覧会における日本紹介や、その後のジャポニズムによる日本趣味に先駆けて、日本博物館を設立した上で幅広く日本を紹介しようとし、日本の西洋学と西洋の日本学双方の発展に貢献したということは、決して忘れてはならない。




⚫︎ シーボルトのお抱え絵師、川原慶賀(けいが)


川原慶賀は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、『日本』という本の挿絵のために精細な動植物の写生図を描いた。文政8年(1825年)にはジャワ島バタヴィアからオランダ人の画家デ・フィレーネフェを招聘、彼から洋風画の画法を習得している。また、文政9年(1826年)のオランダ商館長の江戸参府にシーボルトに同行し道中の風景画、風俗画、人物画等も描いた。

シーボルト事件に際しては、多数の絵図を提供した慶賀も長崎奉行所で取り調べられ、叱責された。シーボルト追放後、シーボルトを慕う人々によって嗅ぎ煙草入れがシーボルトの元へ送られた。この嗅ぎ煙草入れの蓋には、慶賀が下絵を描いた楠本滝楠本イネの肖像画が表裏に螺鈿細工で表されている(「シーボルト妻子像 螺鈿合子」)。その後もシーボルトの後任となったハインリヒ・ビュルゲルの指示を受け、同様の動植物画、写生図を描いた。




⚫︎ 消えゆく日本文化を危惧


葛飾北斎ら同時代の有名な浮世絵師たちの画風とは全く異なり、慶賀の人物画は西洋画の影響を受けており写実的だ。その絵を見て、圧倒されるのは多様性にあふれる庶民の姿である。近年の日本史研究では、士農工商という固定された身分制度は否定されており、江戸時代が多様な身分や宗教が混在した社会だったことが分かっている。

全身白ギツネのような格好で歩く「キツネ面の男」は、多様性の典型例と言える。稲荷神社に参詣し、餌の少ない寒中に油揚げなどをやぶに置いて歩く「寒施行」の姿を描いたものだ。寒施行の風習は、京都や大阪を中心とした上方や西日本で広く見られたという。


紀州や土佐のほか、長崎や佐賀などで盛んに行われていた鯨取りの漁師の姿も残る。冬の海で巨大な鯨に飛び乗って直接、とどめを刺す「羽差」と呼ばれた花形漁師の姿だ。鯨に海中に引きずり込まれたり尾びれの強烈な一撃を受けたりする命がけの役目だった。特徴的な長いまげは、海中で力尽きた際に、仲間がつかんで引き上げやすいように伸ばしていたと伝えられている。


シーボルトがオランダ政府から研究費を支給されていたのは、動植物など自然科学分野だ。なのに、なぜ仕事目的以外の庶民の姿を描かせたのか―。シーボルトが家族に宛てた未出版の手紙には「この文明は早晩なくなるので記録しないといけない」との記述がある。産業革命を経て圧倒的となった西洋文明の流入が迫っていた当時。シーボルトは、日本独自の文化がなくなってしまうことを危惧し、慶賀に日本人のありのままの姿を描かせたとみられている。


当時の有名な浮世絵師たちは、江戸の歌舞伎役者や美人画は多く残したものの、さまざまななりわいの庶民にフォーカスを当てて描いたものはあまり見られない。鎖国下、西洋への唯一の窓口だった長崎・出島に自由に出入りでき、写実的な技法を習得していた慶賀がいなければ、普通の庶民の姿がこれほどビビッドな形で残ることはなかったと言えそうだ。


一介の町絵師だった慶賀の晩年は、不遇なものだった。妻と娘2人に先立たれ、そばにいた可能性があるのは画家の息子1人だったようだ。長崎奉行所による判決記録「犯科帳」に、国外に日本地図などを持ち出そうとしたシーボルト事件に連座した「罪人」としての慶賀の記録が残っている。

外国人スパイに協力した危険人物―。こんな冷ややかな目で見られながら、慶賀はひっそりとこの世を去った。




以上、ふえ〜と唸らされる映画のような物語でありました。スパイだけども日本に夢中になり、日本を愛してしまったのですね。素敵なお話ですこと。ちなみに30年後に国外追放が解かれて長崎に再訪でき、イネや昔の門人たちとも再開できたんですって。しかも幕府に招かれて江戸で講義もしたんだとか。スパイなれども日本を深く愛してくれたことが伝わったからこそでありましょうか。なんてええ話や( ; ; )


高橋景保くんは可哀想なことになりましたが、まあ彼も武士として覚悟の上だったでしょうし、シーボルトも心から哀悼の祈りを捧げ続けたんだろから、恨んではいないでしょう。たぶん。


獄中死ってことはつまり拷問死か、熱病死か、囚人にリンチされてからの陰嚢蹴り死の、いずれかと思われますが、景保くんも信念をもってやったことなのだから後悔はない、はず。たぶん。


たぶん。。(ええ話感即終了)




参考
https://news.yahoo.co.jp/articles/f0a551947b833b3476e9baca97785132bfa42c94https://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/828000/p009222.htmlhttps://www.at-nagasaki.jp/feature/Siebold_001_01https://www.nippon.com/ja/views/b06901/

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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