vol.73「音吉」と「モリソン号事件」について


モリソン号事件について調べていたら「音吉」という男と出会った。完全に初めましての男である。なんでも海で迷子になってしまった漂流民だそうで、おうちを聞いても「わからない」苗字を聞いても「わからない」と、謎だらけ。こちらも困ってしまってワンワンワワンと鳴きたくなる気持ちを抑えて、じっくり彼の話を聞いてみることにした。




⚫︎ 尾張 → アメリカ → マゼラン海峡 → イギリス


えっと、ボクは、1819年(文政2年)尾張国、知多郡小野浦(現・愛知県知多郡美浜町)に生まれ、江戸へ向かう商船で働いてました。 1832年(天保3年)10月、米や陶器を積んだ「宝順丸」に乗組員船頭以下13名で乗り込み、江戸に向けて出航しましたが、途中、遠州灘(静岡県沖)で暴風に遭い、難破・漂流してしまったんです。あの時ボクはまだ14歳で「炊(かしき)」とよばれる見習い船員でした。まったくツイてないですよ。マジあんな船、乗らなきゃ良かったっす。


船は完全に陸を見失いましてね、舵も壊れて太平洋の真ん中をただ漂うこと14ヶ月。積み荷は米でしたから食料は十分ありましたし、海水を蒸留して真水をとる「ランビキ」という方法も知っていたので、飢えと渇きは何とか凌げました。けど、長い海上生活で新鮮な野菜をとることができず「壊血病」という恐ろしい病気で、乗組員が1人倒れ、2人倒れ、とうとう、ボク音吉、久吉、岩吉の3人だけが生き残りました。3人とも「吉」がつくのは偶然ですけどね。やっぱ名前がラッキーだったんすかね?


やがて船は海岸にたどり着きました。そこはアメリカ太平洋岸のワシントン州ケープ・アラバ付近。そこでボクたちは、インディアンのマカ族に助けられました。と思ったら、いきなり奴隷にされました。何言ってるのか分からなかったけど、とりあえず縄で括られたまま、力仕事させられまくりました。あれはキツかったっすねー。みんな野蛮なマッチョばっかで逆らうと怖いのなんの。一難去ってまた一難、とはこのことですよ。


インディアンたちはボクらをこき使い、その後「珍しい奴隷」としてイギリスの商社・ハドソン湾会社に売り飛ばしました。それからイギリス船がやって来て、ボクら3人は、南方約200キロのコロンビア川をさかのぼった場所にある毛皮交易所「フォート・バンクーバー」に引き取られました。イギリス人は優しくて、ボクらに英語やキリスト教を教えてくれました。なんか知らんけど日本人に興味があったみたいっすね。やたら日本のこと聞かれましたわ


日本人を救助したって情報は、ただちにロンドンへ届けられたようで、ボクらを日本に帰すため、マカオ行きの「ゼネラル・パーマー号」に乗せてくれました。当時イギリスは、日本を開国させるべくアレコレやってたので「漂流民を届けてやれば、交渉の場くらいは作ってくれるだろう」という打算があったんでしょうね。途中、ロンドンに着いてテムズ川で10日の間、船上にとどまってましたが、許されて1日だけロンドン見学を行いました。後で聞いたら確実な記録に残っている中では、ボクらがイギリスの地に最初に上陸した日本人だったんですって。どおりでジロジロ珍しがられたわけですわ。



⚫︎ ロンドン → 希望岬 → マカオ → 琉球 → 三浦半島


1835年12月、ゼネラル・パーマー号はマカオに到着。イギリス貿易監督庁を通じ、ボクら3人はドイツ人宣教師でイギリス貿易監督庁通訳官の「チャールズ・ギュツラフ」に預けられました。そしてギュツラフさんに協力し、現存する世界初の日本語訳聖書を完成させました。てゆーか、半ば無理やり協力させられたんすけどね。これ手伝ったら日本に帰してくれる言うから、しぶしぶですよ。かなりダルかったです。


その後、1837年3月、九州出身の漂流民である庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松ら4人が、マニラからスペイン船でマカオに届けられ、ボクらと対面しました。同年7月4日、アメリカ商社の商船「モリソン号」に乗って、合流した4人を含むボクら7人はマカオを離れ、琉球を経由して、江戸へと向かいました。地球を一周してのようやくの帰国です。母ちゃん、ボク死んだと思ってんだろから驚くだろなーとか、帰国したら有名人になっちゃうなーとか、ウキウキでしたね、あん時は。


ところが、船が三浦半島の城ヶ島の南方に達したとき、予期せぬ砲撃にさらされました。日本がボンボン大砲撃ってくるんすよ。当時、日本にはイギリスを始めとする外国船が頻繁に来航してて、これらの中には無許可での上陸や暴行事件を引き起こすものもあり、特にフェートン号事件以降、江戸幕府は異国船打払令を発令して外国の船は問答無用でブチのめす」という強硬姿勢をとってたんですってね。だからモリソン号もイギリスの軍艦と誤認されて砲撃されたようです。モリソン号は軍艦ではなく非武装の商船で、わざわざボクら日本人漂流民を送り届けに来てくれたってのに。


だからボクら「江戸じゃなくて長崎の出島に先に行け」って助言したんすよ。なのにイギリスは「だって長崎はオランダがのさばってて、ウチらの新規貿易参入要求に協力するわけないから、スッ飛ばして江戸で幕府に直接交渉したいじゃん?」とか言って聞かなかったんすよ。まあ確かにロシアのレザノフさんが長崎で半年待ちぼうけさせられた前例あるから、気持ち分からんでもないすけども。



⚫︎ マカオ → アメリカ → 上海 → シンガポール


で、結局モリソン号は、鹿児島付近でも砲撃されて追い払われちゃって、通商はもとよりボクら漂流民たちの返還もできずにマカオに戻りました。あの帰り道はかなり気まずかったすね。琉球でいいから降ろしてくれよって思いましたけど、叶うわけもなく。そっから先はもうヤケクソですよ。


その後アメリカにもう一度渡ったり、上海に行ってイギリス兵となってアヘン戦争に参加したり、戦後はイギリスの商社に勤め、イギリス人女性と結婚して娘に恵まれたものの、妻にも娘にも先立たれたり。中国人と偽ってイギリスの軍艦・マリナー号で浦賀まで来たこともありましたし、スターリングが長崎で日英交渉を開始した時も通訳として来て、福沢諭吉さんにも会いましたっけ。なんかいろいろやりましたわ。


帰国しようと思えばできましたけど、なんとなくそうせずに、他の日本人漂流民が帰国する手助けとかしてました。自分でもあの頃のテンションはよく分かんないっす。そんで1862年(文久2年)にはシンガポールに移住しまして。その2年後には日本人として初めてイギリスに帰化して「ジョン・マシュー・オトソン」と今は名乗ってます。じつは音吉って名前嫌いだったんすよね。結局ぜんぜんラッキーじゃなかったし。てかオトソンって響きカッコ良くないすか? ワトソンみたいでw




といった話だった。

私は最初、この音吉クンが大袈裟なホラ話を繰り広げているのだとタカを括って聞いていたが、調べると、すべて事実だと判明し、驚愕した。なんなんだコイツは。。名字がない=庶民ということになるわけだが、彼は当時の武士や公家などのお偉いさんでも体験しないような、数奇かつ壮大な人生を送っているではないか。しかも、サラッと世界一周まで果たしている。世界最初の日本人タイトルも3つ獲得、いや下手したらもっと得ているかもしれない。(実際アメリカ上陸も音吉らが日本人初だったとか)


取り調べを終えて解放すると、彼は「バイなら〜」と手を振りながらシンガポールへと帰っていった。リアクションが取りづらい。。こいつは偉大なのか単なるアホなのか。運が悪いのか強運の持ち主なのか。なんとなく『フォレスト・ガンプ』を思い出した。しかしガンプはフィクション、音吉は実在の日本人。なんだろう、このとんでもない奴に接触してしまった気持ちは。。


モリソン号事件よりも、音吉の人生そのものの方が事件でなのではないだろうか、とさえ思う。なぜこれが世に知られていないのだろう。この調子ならば、他にもまだまだ知られざる変な奴がゴロゴロいるに違いない。

知らないことを知るって面白いなあ。


とりあえず、変な感動をありがとう音吉クン。


一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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