vol.72「大塩平八郎の乱」について


祝! ブログ継続1周年!

おかげさまで、なんとか5日に1記事アップのペースを維持して2年目に突入いたしました〜、って言っても、どこにも宣伝しておらず読者はいても数人の友人だけなので、誰のおかげさまでもなく100%自分の力ですけどねっ!

そんな自分の自分による自分のための独り言ブログですけれども、まあ1年続けたのは我ながら偉い!ってことで、2年目もこのまま独りで張り切っていきまっしょい! おー!(二重人格)


ではでは大塩平八郎さん、記念すべき2年目1発目なんで、いっちょ華々しくドカーンといっちゃってくださいなっ!




⚫︎ 曲がったことが大嫌い! 大阪に大塩あり!


大塩平八郎は1793年、与力の「大塩敬高(おおしおよしたか)」のもとに生まれた。大塩家は代々、大阪東町奉行組与力や旗本を務める家柄。旗本とは、徳川将軍に直接仕える幕臣であり、将軍に謁見できる御目見得以上の人物を指すのに対して、与力とは、現在で言う裁判官と警察官を合わせたような役職である。大塩平八郎は25歳で8代目与力になるがいやな、同僚の西町奉行与力の汚職事件では内部告発によって不正を摘発。清廉潔白で「不正は絶対に許さない」という正義感の強い男であった。


この思想の根底にあったものが陽明学である。大塩は幼い頃に両親を亡くしており、祖父に育てられ、そして13歳の頃には奉行所で見習いとして働き始め、儒学者の「頼山陽(らいさんよう)」と交流。このとき学問に励み、陽明学と出会っている。この陽明学の教えでは、「心即理」や「知行合一」という、当時の日本の儒教では異端とされている教えを説いており、心即理とは「心こそ理である」とする教えで「人間は心と体が一体であり、正しいことは心が教えてくれる」という意味を持つ。そして知行合一は「知識と行為は一体であり、本当の知識とは、実践が伴わなければならない」ということを指している。


そんな陽明学を学んだ大塩は、与力として汚職や戒律を破った僧に関する、普通ならば手を出しにくい事件を臆することなく次々に処理していった。当時、江戸幕府の役人の間では証人から賄賂を受け取ることが横行しており、不正や腐敗の温床となっていた。そのため、大塩のもとにも賄賂がしばしば送られることがあったが、決して受け取ることはなかったという。


さらに受け取らないだけではなく、同僚の与力たちに対して「不正や腐敗を見逃しているから事件の調査が進まないのだ!」と強く訴えるほど。このように、大塩は正義感が強いだけではなく、実際に行動に移す「知行合一」を体現していたのである。かくして、与力としていくつもの汚職や腐敗を解決し、活躍を見せたことで、「大阪に大塩あり」と言わしめるに至ったのである。


要するに「バカ真面目」「正義漢ヤロー」であるが、ここまで突き抜けて熱く体現されてしまうと逆にカッコ良すぎて民衆が味方についてしまう。グレーな連中には、さぞかし煙たい目障りな存在だったことだろう。




⚫︎ 私塾「洗心洞」で陽明学を教える


さらに、与力として活躍するだけではなく、与力を辞めた後の1824年(文政7年)に天満(現在の大阪市北区の南東部)に、私塾「洗心洞」を開設して同僚の与力や部下、近くの村里の医者や豪農などに陽明学を教えるようになる。


しかしなぜ、大塩は活躍していた与力を辞めたのであろうか?  それは、幕府の高官が関わる規模の大きい汚職事件の際に、幕府の介入によって3人の役人が処罰されただけで事件がうやむやにされてしまったことが原因であった。


当時「無尽(むじん)」とか「頼母子講(たのもしこう)」と呼ばれる共同出資型の金融システムを逆手に悪用した、いわゆる「不正無尽」が横行していた。本来、無尽とは公正公平なルールの元で行われる資金運用であるべきはずが、金を持てる者たち同士が私腹を肥やすためだけの社交賭博と化していたのである


具体的には、例えばある実力者が1人月1両ずつ参加料を払う無尽を開催したとする。声をかけられた者は実力者との付き合いもあるので、年に12両なら安いものだと参加する。これが50人も集まれば年に600両が開催者のもとに集まる。そこで開催者はその資金を使って年に一度、参加者だけの懇親会を開き、大くじ引き抽選会を取り行う。その抽選くじの内訳としては、、


1等に100両が1人 2等に50両が4人

3等に10両が5人 4等に5両40人


と、参加者全員が当たる仕組み。1等2等に当たれば参加者としては儲かって嬉しい上に、3等4等だったてしても金持ちには大した損にはならないわけだし、多少の損でも有力者同士の交流は深まるから確かに有意義ではある。しかも、計算すると開催者の手元には50両が残ることになり、誰もがwinwinな構図が出来ているのである。


こうした「富くじ」まがいの不正賭博を、幕府の役人が豪商らと結託して夜な夜な行い、富める者だけがますます富み、貧しい者は貧しいままの世界がそこにはあった。これを大塩は摘発しようとしたのだが、幕府要人までもが不正無尽に毒されていたために結局は揉み消されてしまった。これにより、与力という職や自分一人だけの力に限界を感じた大塩は、38歳で与力を辞職したのだ。




⚫︎ 天保の大飢饉の発生


1833年(天保4年)に、「天保の大飢饉」が発生。日本中の人々が飢えに苦しみ、餓死する人が続出し、その人数は30万人以上だとされている。それ以前から江戸時代では、金融市場の発達により米の先物取引や投機取引が行われ、幕府は乱高下する米価を調整できずに飢饉が続いていた。そこに異常気象も加わって生じた「天保の大飢饉」は、およそ50年前に生じた「天明の大飢饉」よりも餓死者は少ないとは言え、5年間で人口が125万人も減ったとされている


天保の大飢饉では1833年(天保4年)と、1836年(天保7年)がもっとも被害が酷かったとされている。1度目の危機は大阪日町奉行であった「矢部定謙(さだのり)」の手腕によってなんとか危機を乗り越えることができた。

しかし、2度目の危機の際、矢部定謙は転勤していたため、大阪東町奉行であった「跡部良弼(あとべよしすけ)」が対応する事になる。飢饉で食料が不足することで食料の価格が高騰し、それに乗じて商人達は儲けのためにさらに値段をつり上げるという悪循環が生じていたが、大坂町奉行所の役人達はそのような商人達の行為を容認していた


それどころか、跡部良弼は飢餓で苦しむ人々を顧みることなく、第12代将軍「徳川家慶(いえよし)」の就任宣下の儀式に必要な費用を賄うために、大坂が購入した米を江戸へ回送した。さらに豪商たちによる米の買い占めにより、米は庶民には手の届かないものになってしまい、飢饉はますます深刻化してゆく。




⚫︎ 大塩平八郎の乱


大塩は多くの民衆が飢餓で苦しむ様子、それを見て見ぬふりをする奉行所、ここぞとばかりに私腹を肥やそうとする豪商達を見て心を痛めた。もともと正義感の強い大塩は、大坂東町奉行の跡部良弼にこの状況を打開するための救済策を求めるが、ことごとく却下されてしまう。


当初は天災が原因ではじまった飢餓であったが、次第に天災から人災へとその様相を変えていった。民衆の救済策を拒否された大塩は、約50,000冊に及ぶ自らの蔵書をすべて売り払い、その資金を用いて民衆の救済にあたるものの事態は好転せず、大坂東町奉行はこれを「売名行為」と批判した。


こうした経緯から大塩は、民衆の窮状を解決するためには奉行所や豪商共々焼き討ちにするしかないと判断。奉行諸役人と特権豪商らを誅伐するべく門弟の与力や同心、富農らと共に反乱を起こす計画を立案する。この反乱を起こすにあたって家財を売却し、火薬や武器などを購入。家族とも離縁をするなどして武装蜂起に備えた。


大塩の最終的な狙いは、大量に米が眠っている「大阪城の米蔵」であった。しかし、直前になって2人の弟子に裏切られ、反乱計画が奉行所に密告されてしまう。奉行所に計画が知られてしまったことを受けて予定を早めることにし、準備不足のなか1837年(天保8年)3月25日早朝に、自らの屋敷に火を付けて決起した。


彼の呼びかけに応えた民衆は総勢300人にも及んだと言われている。反乱軍は「救民」の旗を先頭に掲げ豪商達を襲い金品や穀物を奪い、奪取した物を貧しい人々に配りながら大砲や火矢を放って進軍。大坂市中の5分の1を焼き尽くし、市内にある家屋の多くが焼失したと言われるほどの大きな被害を出した。




⚫︎ 告発文のゆくえと大塩平八郎の最後


しかし、しばらくすると大阪城からおよそ2,000人もの幕府軍が到着し、猛烈な総攻撃を受けて、あっという間に鎮圧されてしまう。大塩は、養子「格之助」と共に混乱している大阪市内から命からがら脱出する。


大塩は、武力だけではなく言葉の力でも政治の改革を訴えるべく、乱を起こす2日前、幕府の老中あてに密書を送っていた。その内容は、下級役人から老中までもが関わる不正を訴えるものであった。これが明るみに出れば、事件に関与した人物は一掃され、少しでも清く正しい政治が行われるようになるのではないか。密書は大塩が幕府につきつけた内部告発であり、腐敗を正す最後の希望であった。


しかし、期待とは裏腹に告発文は大坂町奉行所の差し戻し命令により幕府老中のもとへ届けられることは叶わなかった。そして逃亡から40日。ついに居場所をつきとめられ潜伏先を包囲されてしまった大塩は、持っていた火薬に火をつけて潜伏していた小屋ごと自爆。こうして大塩平八郎は、1837年5月1日(天保8年3月27日)、44歳で死亡した。壮絶な最期を遂げた遺体は、本人と判別することができないほどの姿だったと言われている


幕府は、爆死して黒焦げになった大塩の遺体を塩漬け保存して、のちに門弟20人と共に磔に処した。大塩平八郎の乱によって処罰された人物は750人にも上ったと言う。しかし、大塩の遺体は本人とはわからないほど激しいダメージを受けていたため、幕府は大塩が本当に死んだのか確信が持てず、民衆の間でも「本当は逃げていて、生きているのではないか?」という生存説がまことしやかに囁かれるようになる。


大塩平八郎の乱は幕府軍にすぐに鎮圧されてしまい、大塩が目指していた政治の改革や米の配布などの、最終的な目標を達成することはできなかった。しかし、高い評価を受けていた元与力が反乱を起こしたことは、幕府だけではなく社会に大きな影響を残した。


大塩の死後、越後の柏崎では国学者である「生田万(いくたよろず)」が、天保の飢饉のさなか貧民救済のため蜂起した事件である「生田万の乱」を起こす。さらに、その後も各地で反乱や一揆が頻発。その多くが「大塩残党」や「大塩門弟」と名乗ったため、幕府は大塩平八郎生存説に大きく翻弄された。かくして、大塩平八郎の乱により、江戸幕府の腐敗した政治に対する不満が高まり、やがて、幕府を倒そうという運動へと高まっていく


民衆のために立ち上がった大塩平八郎は称賛され、大塩平八郎の乱による火事で家を失った人でさえ大塩を悪く言う人はいなかったとされている。苦難に喘ぐ民衆にとって、大塩平八郎の在り方はまさに英雄そのもの。幕府のためではなく、民衆のために立ち上がったと言う経緯もあり、彼の行いが現在までも語り継がれることとなった。


なお、この反乱を受けて幕府は、緩み切った世を再び引き締める「天保の改革」に取り組み始めた。大塩平八郎の乱が功を奏したと言えよう。彼の「知行合一」が日本を変えたのである。



以上、いや〜大塩さんカッケーっす! 冒頭に「いっちょ華々しくドカーンといっちゃってください」とは言いましたけど、まさか本当にドカーンと自爆して逝っちゃうとは。不謹慎ですけど思わず拍手もんの最後でしたわ。1周年1発目にふさわしい正統派ヒーローエピソード、ごっつぁんです! 合掌



参考
https://www.touken-world.jp/tips/11116/
https://souken.shikigaku.jp/18382/

https://www2.nhk.or.jp/school/watch/outline/?das_id=D0005120242_00000

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。