vol.82『江戸名所百景』について


誰もが一度は見たこと聞いたことのある「歌川広重」による有名な浮世絵である。であるが、現代の景色にその面影が無いせいか、あまりこれらの風景画に魅力を感じないのは、きっと私だけではないはず。きっとそう。そうに決まってる。


ところが有識者の方々からは、やけに評価が高く、この『江戸名所百景』は、まさに歌川広重の集大成と呼ぶに相応しい作品なのだそうだ。なんでや。何がそんなに素晴らしいのか解せぬ。解せぬなら教えてもらえホトトギス(他力本願)ってことで読んだのが ↑ こちら。


例の如く、この本から要約させていただきますので、以下を読む方は是非ほーりーさんの著書をご購入いただくか、彼女のyoutubeをチャンネル登録してくださいませ。どっちもヤダって人は読んじゃダメです。だって何度も言うけど、これ私用のメモなんだもんっ!





⚫︎ いろんな意図が隠されているらしい


一見、ただの名所絵に見えるが、当時の江戸っ子たちには伝わるメッセージが随所に散りばめられているのが、歌川広重の特徴なのだとか。水野忠邦の「天保の改革」以来、浮世絵にも規制や検閲が強められ、大っぴらな主張や風刺は罪に問われ兼ねない。そこで、じっくり考察すれば分かるように、かつ、分かったとしても意図的だと責められない程度に、メッセージを潜ませる方法が流行ったらしい。


なるほど、だから現代っ子で不勉強な私には伝わらないのね。ではでは、素人が勝手に考察したって仕方がないので、ほーりーさんのフカヨミ解説から、謎解きの答え合わせをしてゆきませう。



⚫︎ 謎解き『騒動橋駿河台』


端午の節句に、吹き流しを立てるのは武家の風習。それを町人が真似して立てたのが、鯉のぼりである。だが、この絵の構図内は武家屋敷エリアであり、この土地で堂々と鯉のぼりを上げるような町人の家は存在しないはず。当時の江戸っ子たちは、この絵に強烈な違和感を覚えたことだろう。今で言えば、霞ヶ関の官庁街に巨大フィギアが描かれているようなものなのだから。だいたい、鯉のぼりが異常にデカい。デカ過ぎる。あり得ない大きさだ。


端午の節句だと言うのに、画面右下に描かれた人々は傘をさしている。空もグレーで天気は雨らしい。せっかくのハレの日の絵なのに、なぜ雨を降らしたのか? しかも、この絵では、確かに水道橋と駿河台が描かれているが、鯉のぼりが「く」の字に曲がって窪んだ部分に見える景色は、駿河台と言うより「三崎町」である。タイトルのわりに視点がやや西にズレとるぞ?


三崎町と言えば、この絵が描かれた2年前に安政の大地震で、大きな被害を受けた場所だ。多くの武家屋敷が倒壊し、火災により甚大な被害が出た。広重は絵師になる前「常火消同心」つまり「幕府の消防役人」だったので、この三崎町の悲劇に心を痛めたと想像できる。再び端午の節句を祝うまでに復興を遂げた街並みを見た広重の胸に去来するものは、何だったであろうか。画中の空模様が、その気持ちを暗示している。


広重は、端午の節句と言うハレの日にあえて雨を降らせ、あるはずのない場所に、あり得ないほど巨大な鯉のぼりをあげ、地震による火災被害で傷ついた三崎町に二度と悲劇が繰り返されぬよう、願いを込めた絵を描いたのではないか。


、、と、これが、ほーりーさんの見解である。正しいか間違ってるかは広重さんに聞くしかない。だが、こうした考察を経てから絵を見ると、確かに印象が変わってくるから面白い。




⚫︎ 謎解き『亀戸梅屋鋪』


配色のインパクトと、ゴッホが模写したことで世界的な知名度を誇る作品。8th吉宗も愛した有名な江戸の観光スポットである。この絵が描かれた頃の江戸はプチ氷河期で、江戸でも30cmの積雪はザラだったし、隅田川が凍結することすらあった時期だ。冬の厳しい寒さを乗り越え、暖かい春を迎えたいと願う人々の思いもひとしおだったろう。梅は百花のさきがけとも言うように、誰もが待ち侘びた春の到来を真っ先に告げる花だった。広重は、背景いっぱいに広がるピンク色で、梅の香りを表現している


しかし不思議なのは、この絵が11月に発行されていることだ。梅を題材にするのは変なタイミングである。何か理由があるはずだ。これには前年の「江戸大風災」が関係しているのではないか。安政3年8月に江戸を襲った台風は、前年の大地震からやっと復興の兆しを見せていた町を、再び壊滅させた。ほとんどの家が床上浸水となり、流された家の屋根に乗って何人もの人が夜通し漂流したのだという。おそらく、亀戸梅屋鋪も無傷では済まなかったろう。


そこで広重は、復旧の様子を見守り、安政4年の春にも例年並みに梅が開花するであろうと予測を付けてから、この絵を世に送り出した。そこには「亀戸梅屋敷、復活!」を江戸中に知らせ、翌年にはぜひ亀戸梅屋敷に行楽の足を向けさせようという意図があったに違いない。生涯に何度も描いてきた名所に対する、広重の温かい眼差しを感じさせる一枚だ。


、、ほえ〜、そうなんすか。そんなん解説されなきゃ絶対分からん話ですやん。そんならそうと、解説付きで最初っから教えてもらいたかったんですけど、誰も説明してくれませんでしたぜ。まあ、美術ってそーゆーもんですかね。




⚫︎ 謎解き『浅草田圃酉の町詣』


これは、吉原遊女屋の2階座敷から、鷲神社の方角を眺めた図だ。吉原遊女と言えば、豪華で高級なイメージがあるが、水野忠邦が「天保の改革」で幕府非公認の私娼街である「岡場所」を徹底的に取り潰したせいで、それまで岡場所で働いていた遊女たちが大量に吉原に流れ込んで来た。それ以来、吉原のウリであった品位は急速に下落。世の中が不況だったこともあり、遊女のデフレ現象が始まっていた。このような中で遊女たちは、男の欲望を満たすためだけに存在する「物」のように扱われ、吉原は、かつての優雅さを失った「苦界」となっていた。


さらに、事態を悪化させたのが「安政の大地震」である。建物の倒壊や、その後の火事などで1000人以上の死者を出し、壊滅した。地下の穴蔵に入って火事をやり過ごそうとして、崩れ落ちた家屋に出入り口を塞がれ、中で全員が蒸し焼きになった例もあったらしい。江戸随一の歓楽街は、一夜にして地獄と化した。しかし、遊女たちにとっての本当の地獄は、その先に待っていた。


地震の3ヶ月後から「仮宅」での営業が始まると、復興景気で羽振りの良くなった大工や職人たちが大挙して押し寄せて来た。普段、遊び慣れていない有象無象の相手をさせられ、遊女たちは心身をすり減らしてゆく。しかし、仮宅の好況の前に、彼女たちの人権はまったくもって無視され、過重労働を強いられ続けた。この仮宅での務めこそが、まさに生き地獄だったという


やがて、再建された吉原に遊女は戻る。猫が佇む格子窓の外には田んぼが広がり、あぜみちには浅草の鷲神社に向かう人々の行列が描かれている。酉の町詣は、11月の酉の日に行われる鷲神社の祭礼のことで、酉の市は江戸の秋の風物詩でもあり、多くの男たちがこちらへ流れてくるだろう。


夕日に赤く染まった空に巣に帰る雁(かり)の群れが見え、これから遊女の仕事も忙しくなる時間帯。窓の外を険しい表情でじっと見つめる猫は、遊女の気持ちを表しているのだろうか。見る人に様々な想像を抱かせる作品である。


、、なるほどね。艶やかな遊女を描くと規制に引っかかってしまうが、ここには猫しかいない。でも、その猫が遊女そのものに見える。しかも、哀愁すら感じる。風景画なのにドラマが見える仕掛けが施されてて、実に面白い。




と、ほーりーさんの解説のおかげで、広重作品の味わい方がやっと理解できた私なのでありました。せっかく東京に住んでいることですし、いつかこの『江戸名所百景』のスポット巡りをしてみたくなったですね。たぶん当時の面影はないのでしょうが。

それにしても安政という時代は、黒船は来るわ、大地震は来るわ、最強台風は来るわ、踏んだり蹴ったりですな。。そりゃ広重さんが復興応援の気持ちを絵に込めたくなったのも頷ける。




⚫︎ 安政の大風災

安政3年8月25日(1856年9月23日)巨大地震が残した爪痕が消え切らないままに、今度は巨大台風に江戸の町が襲われた。夕方頃から降り始めた雨はしだいに勢いを増し、夜になると猛烈な雨と風になったそう。江戸湾では高潮が発生し、深川や本所は水に浸かり海のような景色に……。高潮で多くの人や家屋が流される一方、倒壊した家屋から出火した火災により命を落とす人も多かったとか。とにかく地獄絵図です。


普段は多くの人々が行き交う永代橋や新大橋なども崩壊したというから異常な台風だったことが想像されます。その被害については死者1,000人とも10万人とも言われ定かではありませんが『安政風聞集』の記録によると前年の大地震の10倍もの被害があったのだとか。


木造建築が密集した江戸の町では、なかなか台風対策も難しく、巨大台風に弱かったであろうことは想像に難くありません。しかも、市中に多くの水路が行き交い、埋め立て地でもある江戸。氾濫した水路と高潮で、町は水没してしまったわけです。




一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。