黒船来航からのドタバタと呼応するかのように、安政の大地震が日本各地を襲う。開国か、攘夷か、も気になるが、庶民としては地震が来たら、もうそれどころじゃないわけで。外国問題はひとまず置いといて、地震に揺れる町人たちの様子に目を向けてみよう。
奇しくも先日、南海トラフ地震臨時情報なるものに脅かされたばかりである。なんでも、近いうちに大地震が来る可能性が高いのだとか。↓
100~150年の周期で大規模な地震が発生
南海トラフ地震は、駿河湾から日向灘沖にかけてのプレート境界を震源域として、過去に大きな被害をもたらしてきた大規模地震です。過去の事例を見てみると、これまで100~150年の周期で、大規模な地震が発生しており、1707年の宝永地震のように、駿河湾から四国沖の広い領域で同時に地震が発生したり、マグニチュード8クラスの大規模地震が隣接する領域で、時間差をおいて発生したりするなど、その発生過程に多様性があることがわかります。地震調査研究推進本部の長期評価によると、マグニチュード8~9クラスの地震が今後30年以内に発生する確率は70~80%(令和4年1月1日現在)とされています。
だ、そうだ。確かにこれを見ると周期があるらしい。豊臣秀吉の徳川成敗を中止にさせた慶長地震、富士山の噴火を伴った宝永地震、と来て、今回の安政の大地震の登場である。「ごめーん、ピッタリ100年周期の方が分かりやすかったろうけど、50年ほど遅れちゃったー、てへ」ってな感じだろうか。うん、確かに定期的に来るなら、そこはちゃんとリズム守って欲しかったかな。
⚫︎ 安政江戸地震 でもめげない江戸っ子たち
安政2年10月2日(1855年11月11日)午後10時ごろ、関東地方南部で発生したM7クラスの地震。世にいう「安政の大地震」は、本地震を指すことが多い。江戸市中の約30ヶ所で出火、被害は現在の東京駅あたりから東側の地域の被害が大きく、犠牲者は1万人近くに及んだという。当時の江戸の人口が約100万人だったので100人に一人という計算になる。
安政期の一連の地震は、多くの書籍や文書にも記録されており、そのひとつである『安政見聞録』には、安政江戸地震の際のエピソードが集められている。中心的な話題は、地震発生後の庶民のさまざまな行動で、親よりも先に避難しようとして落下物に当たり死んでしまった娘の話、衣類や荷物よりも夫の死骸を守ろうとした妻の話、年老いた親を守った息子の話などなど。
だが、甚大な被害を被ったにも関わらず、江戸っ子たちは案外落ち着いていた。江戸の町人たちには「火事と喧嘩は江戸の華」という日頃からの火事への備えと意識があったため、チャッチャと復興活動を始めている。会所には炊き出しに使う米が大量に備蓄されており、また、大店の商人などの裕福な町人は積極的に寄付金を拠出した。今回に限ったことではなく、災害時に罹災した者へ施行するのは、金持ちの義務だと受け止められていたからだ。町奉行所は、寄付をした町人の名前を金額と共に自身番に張り出し、大商人たちは面子にかけて競って寄付をしたのである。
もちろん、大商人たちも被害を受けている。店が倒壊したり、焼失したりもしたが、財産を全て失う者はそんなにはいなかった。彼らは頑丈な土蔵を持っており、千両箱や家宝、大事な証文の他に、米、味噌、醤油などを保全していた。分限者と呼ばれた大商人たちは、財産を持たない庶民たちとは、別世界の住人なのである。
逆に、江戸の庶民が、めげる暇もなく復興への気力を湧き立たせることができたのは「宵越しの金は持たない」という価値観のためだろう。焼け出されても、失う財産と呼べるお宝、大金はそもそも持ってないんだから、喪失感が薄かった、と想像できる。命が助かれば儲けもの、またやり直せば良いこった、と気持ちの切り替えも早かったのだろう。
⚫︎ 鯰絵の流行と変化、込められた意味
興味深いのは、震災後に「鯰絵」なるものが流行したことだ。安政江戸地震後の大混乱下では、名所絵や役者絵・美人絵などの商品が売れるはずもない。地本問屋にとって業界存亡の危機である。そこで、いくつかの版元は「地下深くには鹿島大明神の『要石(かなめいし)』の力で抑えられた地震鯰がいて、時に地震鯰が暴れると地震が起こる」という伝説をもとに、地震で混乱する江戸の世相を巧みに風刺した錦絵=「鯰絵」を企画したのである。
当時、錦絵の出版には事前検閲の通過、絵師・版元名の明記、巷間の噂を取り上げないことなど、様々な約束事があった。しかし版元たちは、地震後の混乱に乗じて鯰絵を素早く売り抜いてしまうために、検閲を通さず違反出版を承知で鯰絵を出版した。このために鯰絵は、版元・絵師を記さない匿名出版物とならざるを得なかった。迅速に出版するため、版の彫刻や摺りも簡略化されていたとか。
鯰絵は大当たりし、現在160点以上が確認されている。絵柄を見ると、地震鯰が鹿島大明神に叱責され「もう地震は起こしません」と詫びているもの、地震で大被害を被った江戸庶民たちが大勢で地震鯰を打ちのめし、それを地震後に仕事の増えた建築三職(鳶・大工・左官)が止めているものが目を引く。安政江戸地震の発生後、しばらくは余震が頻発したため、鹿島大明神が「悪者」に描かれた地震鯰を威圧している絵柄で、絵自体が「地震よけの守り」となっている鯰絵が好まれたのである。実際、地震よけのまじない文字の書かれた作品もあるらしい。
やがて復興が進むと、大工や左官、鳶職などの手間賃はみるみる高騰、諸物価も上がり出した。職人たちは引く手数多で、彼らは普段では得られなかった金を手にする。となると「宵越しの金は持たない」のが江戸っ子。寄席や仮営業を始めた吉原に押しかけ、散財した。江戸っ子たちも逞しいが、大火災に見舞われながら営業を再開した吉原の遊女たちには、逞しさと共に不憫さを感じずにはいられない。
また、景気の良い大工や左官、職人たちに便乗しようと、にわか大工、左官、職人が現われ、鋸や金槌など持ったこともない連中が見よう見まねで大工仕事をやり始めた。それでも、猫の手も借りたい再建作業とあって、誰でも仕事にありつけたそうだ。
こうした復興景気の恩恵を受ける人々たちが現われると、鯰が彼らに小判を与える絵柄が流行り出す。中には、大工、左官、職人たちから鯰が接待されている絵まで描かれるようになり、地震は富の集中が一部の金持ちに進んだ江戸社会への鉄槌、一部の大商人ばかりが良い思いをしている世の中が地震によって是正される、世直しが始まる、という期待が込められていった。
世直し鯰の情
この鯰絵の詞書には、地震の時に人々を助けたのは伊勢神宮の神馬ではなく鯰たちであり、鯰を悪く言わない人々だけを助けたことが書かれています。下方には人間の姿をした鯰が、潰れた家の下敷きになった人々を助ける様子が描かれています。この鯰絵からは、地震を起こす張本人としてではなく、社会悪や病魔を取り除く救済者として、鯰が崇拝され賞賛されていたことがわかります。
鯰と職人たち/鯰大尽の遊び
この鯰絵には、地震後の復興景気によって手間賃が高騰し、にわかに儲けた大工や左官などの職人たちが、鯰大尽のおごりで宴を催している様子が描かれています。鯰は職人たちに「何か面白い芸をやってくれ」と言っていますが、職人たちは「ちょっと気が重くてやれない」と言っています。地震と火災で潤った職人たちは、他人の災難に乗じて儲けたことに、後ろめたさを感じていた様子がうかがえます。
治る御代 ひやかし鯰
この鯰絵には、地震後の復興景気で賑わう仮宅へ、冷やかし半分に見物に来た鯰や職人たちが、女郎に恨み辛みを言われている様子が描かれています。仮宅とは、新吉原が地震や火災で営業ができなくなった時に、江戸市中の家屋を借りて設けられた臨時の営業所のことです。仮宅は、地震後の十月二十日に営業の申請がなされ、十一月四日に許可を得て十二月から翌年春にかけて営業されました。
持丸たからの出船
右上の持丸(金持ち)が鯰によって金銀を吐かされ、その下には金銀を奪い合う職人を描く。持丸はこんな事になるのであれば使ってしまえばよかったと後悔し、鯰は下々を難儀させるからこうなるのだと窘めている。
その後も、大風水害、コレラ・麻疹の流行、アヘンの蔓延、欧米諸国の侵攻、尊王攘夷運動、貿易による物価高騰などが待ち受けており、混迷と流血の歳月を経て、江戸地震から12年後、江戸幕府は倒れることになる。この地震は、まるでそんな激動の幕末の始まりを告げる、合図だったのかもしれない。
1605年の慶長地震の際には、豊臣の総攻撃から徳川を守る役割を果たしてくれたが、今回は徳川から権力を奪う方向に作用していることが、とても興味深い。まさに運命の悪戯でもあるし、それが天の意思とも受け取れる。「このまま開国できずにいると外国にやられちゃうから目覚めよ日本」ってことだったのかしらん。
そう言えば『すずめの戸締り』って映画も「要石」を題材にしてたけど、もっとちゃんと地震の歴史になぞらえたストーリーにして欲しかったな。要石伝説に触れておきながら、鯰でも龍でもなくて、急にミミズって言われても。。でしたね。
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