vol.89 「寺田屋騒動」について


さあ「坂下門外の変」から始まり、激動の文久2年がいよいよ幕を開ける。中でも、特に際立つのが、薩摩同士で斬り合いなった「寺田屋騒動」である。ないごて、ないごて、こげなこつになったんか、、その経緯ばまとめてみよらんせ。




⚫︎ 斉彬の死後、実権は再び「斉興」の手に


井伊直弼の「安政の大獄」により、一橋派は一掃され、夢敗れた。「斉彬」に残された最後の手段は、かねてから夢見ていた「率兵上京計画」のみであったが、斉彬の急な死により頓挫。次なる藩主は「久光の息子」になるものの、実権は再び「斉興」が握り、幕府に歯向かわない方針になる


これにより、水戸浪士たちと進めていた「大老襲撃&率兵上京プラン」にも参加できなくなる薩摩藩士たち。脱藩した有村兄弟のみがこれに参加する形になり、弟の「有村次左衛門」は、井伊の首級をあげた後に絶命。兄の「有村雄介」は、変後の幕府の追及を受けた薩摩藩に捕らえられ、切腹させらた。また、西郷隆盛も、月照と共に入水自殺を図ったのち、奄美大島でしばらく身を隠すハメに。。


水戸を裏切ったあげく、攘夷運動を禁止された薩摩藩士たちのウズウズは募る。中には暴走して外国人を襲撃する者も。大久保利通は、血の気の多い藩士たちを必死になだめ抑えつつ、やがて来る「久光」の舵取りに期待して参謀の位置へと取り入ってゆく。



⚫︎ 斉興が死に、ようやく久光の時代が到来


大久保がじわじわ焚き付けた甲斐あって、本人も「国父」と名乗って率兵上京にもノリノリ。西郷どんも島から呼び戻し、時は来た!って矢先に、西郷が「アンタは人徳ないから無理じゃね」とか言って、空気むっちゃ悪くなる。けれど、史実ではグッと堪える久光。わりと大人。イメージ悪く描かれがちであるが、大久保や「精忠組」が信を置く人材を、一時の感情で失うほど愚かではなかった。むしろ、西郷の方が敵意剥き出しで意地が悪い。まあ、久光の母「お由良」に斉彬やその子らまでも毒殺されたんじゃないかと恨んでるから仕方ない。西郷は自ら、先発と過激な藩士を諌める「浪士鎮撫」の役目をくれと頼み、下関へと向かう。


久光の上京計画は、倒幕を目的とはしていない。久光は、微妙に利害の異なる三勢力に「皇国復古」の実現を約束しながら、将軍への体制委任を否定はせず、徳川一門はじめ薩摩など雄藩大名による合議制の確立を目指していた。つまりは、外様である自分が老中の地位に就くことが目的なのであって、幕府そのものを潰すつもりなどないのである。その証拠に、謹慎中の一橋慶喜は将軍後継人に、松平春嶽は大老職に就かせる意見書を幕府に送っている。


故に、久光は統治者の立場から、藩主に従わずに体制の秩序を乱すような急進的行動を、決して良しとはしなかった。そもそも過激な尊王派の考え方は、藩や幕府や将軍の支配体制よりも天皇に忠誠心を捧げてしまうため、コントロールが利かない。そんなんは家臣と呼べない。攘夷の理念は否定しないが、それじゃ困るのである。そのへんも理解できずに尊王ハイになってる品も学もない下級武士たちのことを、久光は大嫌いだった。うん、久光が正しい。



⚫︎ 過激派と慎重派に分裂する「精忠組」


西郷と大久保が中心となって結成した「精忠組」は、みんな幼馴染で初期こそ仲良しだったが、西郷が島で暮らす間に、だんだん「有馬新七」をはじめとする過激派が暴走ぎみになり、まとまらなくなっていた。慎重派の大久保が再三説得しても「もう何度も待ってやったろう」と聞く耳持たず、西郷が復帰しても「久光の率兵上京を機に一気に討幕を果たすでごわす!」とブレーキが利かなくなっていた。


他藩の志士たちも同様で、薩摩の率兵上京は=討幕スタートの狼煙だと解釈し、ぞろぞろと大阪や京に集まってゆく。下関にて、そんな不穏な動きを察知した西郷は、彼らの暴走を抑えるために「下関で待て」という久光の命令を無視して大阪へと向かう。各地で過激な攘夷派と面会し「も少し後で一緒に討幕しよ!」と説得して回る。西郷なりに今にも死に急ぐ奴らを救いたかったのだ


その頃、久光は下関に到着し、西郷がいなくてビックリ。聞けば、大阪で攘夷派たちに討幕の勧誘をしてるとか。「ななな何だと! ひっ捕えよ!」ということで、西郷逮捕。今度は徳之島に島流し決定。それから久光は、京で天皇より「浮浪鎮撫の宣旨」を受ける。つまりは(アンタのせいで)物騒な志士たちが京の町に火を付けようとしてるらしいから、アンタが始末してや、つー話。朝廷から命令を下されたとあっては、久光にしても他に選択肢はない。「つーか、あいつら、日頃は尊王と言いながら、朝廷を困らせて何なんだよっ!」てなもんである。


一方、薩摩から脱藩した「有馬新七」らは、佐幕派の関白と京都所司代を暗殺する計画のため、伏見の「寺田屋」に集結していた。久光は、このとき公武合体を推進する立場で、自らの入京を機に、勝手に挙兵討幕を企てる有馬新七らを快く思わず、志士らの暴発を防止しようと「奈良原繁」「大山格之助」ら、腕の立つ薩摩藩士9名を「鎮撫使」として伏見に送って、対処を命じた。従わぬ場合は「斬り捨てでも制圧して来い」と


彼らの鎮撫・説得に向かった藩士の多くが精忠組、そして、その相手も同じ薩摩藩の精忠組。もし有馬らが藩命に従わねば、同じように議論を戦わせ、未来を語り合っていたであろう仲間同士が、敵と味方に分かれて斬り合うことになる。お互い命を懸けた話し合いが始まった。。




⚫︎ 悲惨な結末になった「寺田屋騒動」

「無謀な計画をあきらめて藩邸に同行せよ」

「これこそが真の攘夷、我々が討幕の旗手となる」


、、ダメでした。

話がぜんぜん噛み合わないまま時間だけが過ぎ、次第に険悪な空気に支配され、、双方の緊張がピークに達した時、とうとう鎮撫側の「道島五郎兵衛」が抜刀し「田中謙助」の頭部に斬りかかった。これを合図に薩摩藩士同士の斬り合いが始まってしまう


頭を斬られた田中は昏倒、これに激高した新七が道島に斬りかかる。しかし、刀が折れてしまったため、新七は道島に組みかかって壁に押し付けると、すぐ近くにいた「橋口吉之丞」に向かって、「おいごと刺せ!おいごと刺せ!」と叫んだ。


橋口は、新七の背中越しに道島めがけて刀を突き刺し、道島はもちろん、新七も命を落とした。鎮撫側の死者はこの道島1人、過激派側では、新七以外に橋口壮介・橋口伝蔵・柴山愛次郎・西田直五郎・弟子丸龍助の6人が死亡。重傷を負った田中謙助と森山新五左衛門も、のちに切腹させられた。この策に加わるはずだったが病気のために寺田屋にいなかった山本史郎は、帰藩ののち謹慎するよう命じられたが、従わなかったために切腹させられている。

合計9人もの若い命が散ったのである


死亡した彼ら以外の薩摩藩士は、ほとんどが投降し薩摩へ返されて処分を受けた。この企てには、薩摩藩以外の浪士や藩士も加わっていたが、彼らも投降、もしくは逃亡している。久坂玄瑞清河八郎、平野国臣、真木和泉、品川弥次郎、吉村寅太郎など、そうそうたるメンバーは、それぞれの藩に返されて処分を受けた。彼らのほとんどは、明治維新を見ることなく命を落としている。過激な思想と行動が彼らを死に急がせたのかもしれない。


受け入れ先の無い浪士は、薩摩に保護されたのだが、それは表向きのこと。浪士たちは「日向送り」と言われる処分を受けていた。西郷隆盛と月照が日向へ送られる途中、ともに入水自殺(西郷は助かっている)をしたように、これは途中で処刑されることを意味する。「日向送り」にされたのは、田中河内之介以下6名。それぞれが船内で斬殺され、遺体を海に投げ捨てられたという。



⚫︎ 冷徹な判断が裏にはあった?


精忠組の幼馴染同士の斬り合いは、西郷どんを筆頭に、何かと目立ち気に障る精忠組を押さえ込みたい島津久光の思惑通りだったのであろう。久光の側近に成り上がった大久保も、もちろん鎮撫隊派遣については知っており、むしろ、黒幕だったのではないかと言う説があるらしい


久光を激怒させた有馬と西郷。どちらも失うなら、せめて西郷だけでも助けられないか、と緻密な大久保が冷酷に判断したかもしれないのだ。寺田屋で激しい同士討ちが行なわれている最中、大久保は、知恩院の茶屋でお茶をしていた事を、大久保自ら日記に書いているとか。大河ドラマ『西郷どん』では、事件後に駆けつけた大久保に、大山が血のついた懐紙を無言で渡している。


維新前夜の幕末期は、多くの若者が国の未来を憂い、自らの思想を全うしようと命を落とした。有馬新七もそんな若者のひとりだろう。自分のやり方が最も正しい、正しいはずだという思いと、自らが道を開くという誇りだけで、行動し、短い生涯を終えた。
無駄死にのようにも思えるはかない最期だが、そんな彼らのエネルギーがあったからこそ、明治維新があり今があるのかもしれない。明治維新が起こったことの良し悪しは、私にはわからない。しかし、幕末の世に、命を懸けて国の未来を憂いた多くの若者がいたことを忘れてはならない。
https://sengoku-his.com/1599



うん。それはそうなんだけど。

ないごて、こげなこつになったんか言うとさ、過激派が尊王ハイになり過ぎたからじゃない? その結果、天皇そのものから嫌がられてんじゃん。だからでしょフーリガン達がスタジアムの外で騒ぎ起こして選手が試合できなくなるようなもんだし、、

って、そうゆう目で見ちゃうと全部アホらしくなっちゃうからダメかw 



参考
https://bakerhouse221b.blog.fc2.com/blog-entry-3947.html?sp

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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