さあ、さあ、血生臭くなってきました。あ、安政の大獄あたりからとっくにでしたかね。いや〜しかし、当時の武士たちは銃ではなく刀を使うからスリリングで面白い(不謹慎)。暗殺するなら遠くから銃で撃てば良いものを、わざわざ刀で襲いかかるから無駄に死傷者を出す。おまけに未遂の時もあったりで。殺すのが目的なら、複数の銃で狙ってターゲットを確実に殺しなさいよって思うのだが、それじゃ武士の名折れってやつになるし出来ないと。なんなんよそれは。じゃあ弓でも良いよ。昔は敵の大将を弓で討ち取ってたじゃん。なのに、なぜ弓も使わんのか?
そのへんが謎と言うか、単に己の剣の腕を奮いたいって欲に、目的意識が負けてんのかーい!という突っ込み待ちなのか、よう分かりませんが、ともかく剣の勝負の世界なだけに、あちらこちらで剣豪たちがワラワラ集まって何やら良からぬことを企んでおりますぞ。こりゃまだまだ一悶着も二悶着も起きそうな予感。。
⚫︎ 土佐の参政「吉田東洋」暗殺
左、那須 信吾(なす しんご) 右、那須俊平(しゅんぺい)
那須信吾は、武勇に優れた怪力の持ち主で、身長は六尺(約180cm)近くあり「天狗様」と称されたという。 走ることにおいては馬より速いとまで噂されたらしく、片道2日かかる高知城下まで25里の道程を1日で駆けたとの逸話があるとか。なお、那須俊平はその信吾を娘婿に迎えた養父である。2人は土佐藩の郷士であり、自宅の横に道場を開いて槍術を教えていたそうな。
文久元年(1861年)、武市半平太が土佐に帰り、勤王党員を募った際、信吾はこれに応じて血盟を交わす。この頃、武市半平太は再三にわたり、土佐一国挙げて勤王運動を起こすべく、進言をしていたが、参政「吉田東洋」は「土佐は関ヶ原以来、徳川家に300年の恩願がある」と主張して、武市の言葉に耳を貸そうとしなかった。おかげで勤王党員は、動くに動けずウズウズしていた。
翌年、同郷の「吉村虎太郎」が辛抱できず脱藩して長州へと走る。また、越後の浪士「本間精一郎」が、YOUも脱藩しないか!と勧誘に来る(けど断る)。その直後の3月25日、那須家に「坂本龍馬」と「沢村惣之丞」が訪れ、一泊。酒を飲み交わしながら時局を語り「オレらも脱藩するぜよ」と告げた。これが信吾に重大な決心をさせることになったと考えられる。翌日の早朝、伊予の道を熟知する養父俊平が、龍馬と惣之丞の道案内をし、信吾も同行。現在「脱藩の道」と呼ばれている山道を抜け、2人を見送った。
翌月、ついに武市は、吉田東洋を殺すことを決意。その決行者となったのが「那須信吾」そして「大石団三」「安岡嘉助」の3人であった。(この3人の名が土佐勤王党の名簿にないのは、東洋暗殺の累を避けんが為であると言われてるらしい)
その夜、吉田東洋は藩主の「山内豊範」に本能寺の変について講義を行い、酒肴にあずかってから、いささか酩酊して城を出た。折から小雨が降っていた。城下の帯屋町で待ち伏せしていた信吾らは、「元吉殿(東洋のこと)国のためまいる」と斬りつけ、その首を取った。
目的を果たした信吾らは、その足で脱藩。京都の「久坂玄瑞」をたより、長州藩、薩摩藩邸に潜伏。後に「天誅組」に加わる。やがては、養父俊平までもが脱藩し、長州の「忠勇隊」に入る。それぞれ得意の長槍をふるって縦横に戦うが、敵方の銃弾により命を散らすことになる。勤王の志士の名は数多くあるが、親子でその名が残るのはめずらしい。
http://www.dappannomichi.com/jiten/jiten-005.html
⚫︎ 第二次東禅寺事件(↑ 画像は第一次の様子)
第一次東禅寺事件の後、イギリス公使のオールコックは幕府による警護が期待できないとして、公使館を横浜に移した。しかし、オールコックが帰国中に代理公使となったジョン・ニールは、再び東禅寺に公使館を戻し、大垣藩、岸和田藩、松本藩が警護にあたることとなった。東禅寺警備兵の一人、松本藩士「伊藤軍兵衛」は、東禅寺警備により自藩が多くの出費を強いられていることや、外国人のために日本人同士が殺しあうことを憂い、公使を殺害し自藩の東禅寺警備の任を解こうと考えた。伊藤は夜中にニールの寝室に侵入しようとしたが、警備のイギリス兵2人に発見され戦闘になり、彼らを倒したものの自分も負傷し、番小屋に逃れて自刃した。
なお、第一次の事件後、オールコックは江戸幕府に対し厳重に抗議し、イギリス水兵の公使館駐屯の承認、日本側警備兵の増強、賠償金1万ドルの支払いという条件で事件は解決をみた。しかし、この交渉に基づき品川御殿山に建設中であった公使館は、翌年12月に「高杉晋作」らによって放火されるのであった。(英国公使館焼き討ち事件)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/東禅寺事件
⚫︎ 人斬り田中新兵衛から「天誅」が始まる
幕末期に最初の人斬りとして名をあげたのは、薩摩藩の「田中新兵衛」である。武士階級の出身ではなかったが、幼少期より武芸に励み、剣術に優れていたらしい。文久2年、尊王攘夷思想を抱いて京都に上り、7月20日夜、かつて安政の大獄で尊攘派を弾圧した九条家家士「島田左近」を木屋町の妾宅に襲い、斬殺した。
島田の首は青竹に突き刺され、四条河原にさらされたが、そこには「天誅を加え梟首せしむ者なり」と記した斬奸状が添えられた。これが、幕末の天誅事件の第一号であり、いわゆる人斬りの端緒だったのである。島田を憎む者は多かったため、それまで無名の存在だった新兵衛の名声は一気に高まった。新兵衛自身も、自分の剣によって尊王攘夷が実現できると、錯覚することになる。
8月7日、土佐勤王党の首領武市半平太と対面し、義兄弟の契りを結ぶほど親交を深めた。以後、武市の指示で天誅を実行するようになり、岡田以蔵と協力して数々のターゲットを斬殺。斬奸状を添えて四条河原に梟首したと言われている。
https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8566?p=1
⚫︎ 8月、岡田以蔵は暗殺で忙しい
井上佐市郎 暗殺(文久2年8月2日)
井上佐市郎は土佐藩の下横目(下級警官)で、同年4月8日の吉田東洋暗殺事件を捜査していた。これを危険と見た勤王党では、まず井上を料亭「大与」に呼び出して泥酔させ、心斎橋上にて、岡田以蔵・久松喜代馬・岡本八之助・森田金三郎の4人で、身柄拘束のうえ手拭いで絞殺、遺体は橋上から道頓堀川へと投げ棄てた。
本間精一郎 暗殺(文久2年閏8月20日)
本間精一郎は越後国出身の勤皇の志士の1人であったが、特定の藩に属しない論客であったため、その態度を浮薄と見た各藩の志士から疎まれ始めており、勤王党の間で対立が起きたとも、本間が幕府と通じているのではないかと疑われたとも言われる。『伊藤家文書』によると当日、本間は料亭から酔って退出したところを数人の男に取り囲まれて両腕を押さえつけられ、刀と脇差を取り上げられながらも激しく抵抗して格闘し数名を怯ませたものの、わずかな隙にわき腹を刺され、瀕死のところに止めをさされて斬首された。死体は、高瀬川へと投げ込まれた。実行犯は岡田以蔵、そして薩摩の人斬りこと田中新兵衛らであった。
宇郷重国 殺害(文久2年閏8月22日)
宇郷重国は前関白九条家の諸大夫であった。安政の大獄の際、同じ九条家の侍臣島田左近と共に志士弾圧を行い、また和宮降嫁推進にも関わったため、攘夷派志士からの遺恨を買っていた。島田暗殺以来、身の危険を感じた宇郷は居所を転々としていたが、九条家河原町御殿に潜伏しているのを見つかり、寝所を岡田以蔵らに急襲された。飛び起きて逃げようとしたところを以蔵に斬り倒され、子息も殺害された。宇郷の首は鴨川河岸に槍に刺し捨札と共に晒された。
猿の文吉 殺害(文久2年閏8月30日)
猿の文吉(ましらのぶんきち)は、安政の大獄時に島田左近の手先として多くの志士を摘発した目明しであった。また、島田の高利貸しの手伝いをして金子を法外に得ていた事も、志士達から強い恨みを買っていた。そのため天誅に参加を希望する者が相次ぎ、籤引きによる人選をしたという話が伝えられる。選ばれた岡田以蔵、清岡治之介、阿部多司馬の3人は、8月30日の夜に文吉を自宅から拉致して三条河原へ連行し、裸にして河原の杭に縛り付けた上で「斬るのは刀の穢れになる」として細引(細い紐)で絞殺、竹の棒を肛門から体内を貫通させて頭まで通され、さらに亀頭に釘を打たれて晒された(かつて文吉が御所の女官を犯して罰せられたことに対する仕打ちとされる)。文吉は高利貸しの厳しい取り立てを行なっていたことから民衆にも嫌われており、遺体に投石する者もあったという。なお、この際捨札に「いぬ」と書いたため、ここから権力者の手先となって動く者を指す「○○の犬」という慣用が生まれたという説がある。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/岡田以蔵
ぜんぜんニ悶着どころじゃなかったw
同時多発的にむっちゃ暗殺が流行っとる。やっぱ井伊直弼が殺されたことや、島津久光が率兵上京したことや、安藤信正が斬りつけられたことが、バリバリ影響してるようで、なんかもう止まらない勢い。#脱藩 と #天誅 のハッシュタグで「斬ってみた動画」を競ってアップしてるかのよう。中でも岡田以蔵さんは脅威の投稿頻度で、さすが暗殺インフルエンサー。そんな猛者たちを影で操るプロデューサー武市半平太も、恐ろしか〜。
つか「斬るのは刀の穢れになる」ってんなら、だから銃か弓を使えってーの。
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