vol.91 「遣欧使節団」について

えーっと。「遣隋使」は知ってますよ、小野妹子でしょ。白紙に戻そう「遣唐使」だって分かります。その2つはアホみたいに暗記させられましたからね。だけど、何この「遣欧使(けんおうし)」って。初耳なんですけど。


ほら〜また習ってないこと出てきた〜。なんで授業でちゃんと教えないわけ? なんで勝手に端折っちゃうかな。正直言って遣隋使とか遣唐使ほど大昔の話は、そこまで重要じゃないと思うんですよね。特に、年号とか覚える必要なんてまったく無い。この頃にそんなことがありましたよ〜くらいで良いでしょーに。それより、こっちの遣欧使の方が、よっぽど知っておくべきことなんとちゃいまっかね。


てことで調べてみますれば、なんとまあ、サムライ達がスフィンクス前で撮った記念写真まであるではないか。私44歳にして、こんなん初めて見ましたよ。幕末の武士がエジプト行ってたとか聞いてないんですけど。こりゃ結構大事な話が抜け落ちてると知り、あわてて勉強しましてですね、今回はその要約を以下にまとめましたですよ。




⚫︎ 諸外国へ「泣き入れ行脚」しに行くことに


井伊直弼サマが、ハリス(米)との通商条約を締結した後、他国がオレもオレもと群がって来て、米・英・仏・蘭・露などなどに対して開港する約束しちゃった幕府であったが、国内では尊攘派のテロが頻発するありさま。とてもじゃないが、この状況で開港したら幕府が倒れちゃう。だから開港を延期させてくださいませませ〜と、ハリスに泣きつく。ハリスもハリスで、本国アメリカが南北戦争に突入しちゃってバタついてるので「しょうがねーな」と納得してくれる。


だが他の国々はそうもいかない。イギリス公使のオールコックは「そんならせめて自ら各国に出向いて詫び入れすんのが礼儀ってもんだろよ」と言うので、イギリスの力を借りてそうすることに。ついでに世界を見て来て知識を深める良いチャンスだし、聡明なやつらを団体で行かせよう。天皇や攘夷派には開港延期の交渉がんばってますよアピールになるし、帰ってくるまで1年くらい時間稼ぎできるし、ナイスアイデア!




⚫︎ 第一次 遣欧使節団、いざ出発!


1862年1月21日、福沢諭吉を含む、総勢38名の使節団はイギリス軍艦オーディン号に乗り込み、欧州に向かって品川港を出発。長崎、英領香港、英領シンガポール、英領セイロン、を経て、エジプト・スエズに上陸。そこから鉄道でカイロからアレクサンドリアに出て、船で地中海を渡り英領マルタを経て、マルセイユに入った。


世界旅行気分かよ、と思いがちだが、本を読んでみると船旅では不自由が多くて辛かったらしい。特に真水を貯めるタンクが鉄錆だらけで、その赤茶けた水で炊く米は相当マズかったそうな。


4月7日、パリに到着。ちょうどナポレオン3世による大規模な都市整備が行われた直後で、有名なオペラ座は折しも建設中。使節団一行が訪れた場所の多くは、現在でも建物がそのまま残されており、福澤諭吉が「西航手帳」を購入した「フォルタン文具店」の建物も現存するとか。福沢がヨーロッパ滞在時の見聞を書き記した「西航手帳」は、その後『西洋事情 』といった著書執筆のベースとなる重要な記録といえる。


さて、このパリ滞在中に、使節団の竹内下野守らは、開港・開市延期交渉に当たるため、ナポレオン3世に謁見した。随員だった福澤はその準備作業などに追われていたが、その合間を縫ってのパリ見聞を行っている。その際、良きガイド役となったのが、東洋語学者レオン・ド・ロニーである。フランス政府から通訳 兼 接伴委員として派遣されたロニーは、福澤より2歳年下の当時25歳。お互いの文化に関する知識を交換していくうちに、同世代の2人は次第に親交を深めていく。独学で日本語をマスターしたほど日本オタクなロニーに対して、福沢は以下のような記録を残している。


「フランス政府からロニーってヤツが来た。パリだけでなくオランダにもついてくるくらい熱心だったけど、母親が病気になったからってことで帰った。その後ベルリンへ追いかけてきたらしい。俺らがロシアに出発した後で、入れ違いになったけど。でもペテルブルクまで来やがったよコイツ。金も時間もかかるのに何やってんだ? ヨーロッパで一番の奇人に違いないな」(意訳)


ちなみに、例の件の交渉は失敗に終わり、フランスから開港延期の同意は得られなかった。ので、他の国を回った帰りにまた来て再交渉することに。


その後、カレーから英仏海峡を横断、4月30日には、イギリス・ロンドンに到着。ここで、日本の内情を知るオールコックが休暇帰国するのを待ち、オールコックの協力を得て、同年6月6日、日本国内の事情(すなわち攘夷熱の高まり)に鑑み、兵庫、新潟、江戸、大坂の開港・開市を5年延期とするロンドン覚」が調印された。


ロンドンでは、ロンドン万国博覧会に合わせて滞在し、何度も会場を訪ねて熱心に見学した。一行の姿は奇異な目で見られた一方、礼儀正しい態度振る舞いは感心されたそうな。ロンドン万博の日本コーナーには、オールコックが収集した品が展示され、日本の物品が展示された最初の万博となった。日本の展示品は現地では絶賛されたが、使節団は「骨董品のような雑具ばかりで粗物のみを出品している」と嘆いたんだとか。

(なお、5年後のパリ万国博覧会には、幕府と薩摩藩がそれぞれ参加することになる)


一行はロンドン逗留中、産業革命を経験したイギリスの鉄道や、国会議事堂、バッキンガム宮殿、大英博物館、電信局、海軍工廠、造船所、銃器工場などを訪れた。その中に、第二次アヘン戦争で活躍した「アームストロング砲」もあり、一行が製作過程を視察したその6年後には、戊辰戦争で使用されるに至るのである


その後、オランダ、プロイセン・ベルリンと、他国とも同様の覚書を締結。次のロシア・サンクトペテルブルクでは、樺太国境画定に関する交渉をしたが、合意に至らなかった


復路ではカウナス、プロイセン王国、フランス帝国(パリ覚書締結)を経て、ポルトガルを訪れた。帰路は英領ジブラルタルを経由、往路とほぼ同じ行路をたどり、1863年1月30日、約1年間の旅を終えて一行は帰国した。



ところが、その時の日本は幕府使節団が予想もしていない状況に一変していた。




● 彼らが留守の間に日本では、、


彼らの出発の6日前には「坂下門外の変」で、老中の安藤信正クンが背中を斬りつけられた。殺されなくて良かった良かったと思いきや、2年連続で幕臣がお城のすぐ近くで斬られたこと自体が大問題となり、やがて安藤クンは失脚。幕府の威信が再び著しく低下した。


4月には薩摩の島津久光が、率兵上京計画を実行に映して京都へ到着。それを「薩摩が倒幕に動いたぞ!」と勘違いした志士たちが大興奮して、続々と脱藩して京都に集結。ところが久光の目的が倒幕にあらずと分かり、寺田屋では薩摩藩の武士同士が斬り合うことに


しかし、火のついた暴走志士たちはもう止まらない。土佐での「吉田東洋の暗殺」を皮切りに、武市半平太の息のかかった人斬り暗殺者らによる「天誅ラッシュ」が京都の町で夜な夜な繰り広げられた。こうなってしまっては、開港が5年先送りになったくらいじゃ「よし、じゃあこんくらいで勘弁してやる」とは、ならない。使節団の持ち帰った成果は、幕府の権威回復に役に立つどころか、注目すらしてもらえない状況だった。


さらに、まったくもって間の悪いことに、使節団とオールコックが努力して何とか「ロンドン覚書」でイギリスとの合意を引き出した、その直後、高輪の東禅寺にてイギリス兵2名が殺される第二次東禅寺事件」が発生。さらに、さらに、島津久光が江戸で幕府に「文久の改革」をさせた帰り道には、かの有名な「生麦事件」を起こしてしまう。


そして極め付けに、使節団が品川に到着した翌日には、高杉晋作久坂玄瑞らの手によって「英国公使館焼き討ち事件」まで起き、オールコックが完成を楽しみにしていた建物が全焼。これにはオールコックも「What the hell is this !?(なんなんだよこれはよぉ!)」と、叫んだ。うん、たぶん本当に叫んだ。なんならもっと汚い言葉も出たと思う。




なかなか皮肉が効いてて面白いオチである。ここでスッと終わりたいところだが、遣欧使節団は翌年もまた派遣されるようで。しかも、その第二次遣欧使節団の外交が、さらに大きな事件のトリガーとなるらしい。さすが幕末、ぐっちゃぐちゃですなあw こりゃ確かに、授業で教えるのも大変だし、スルーしたくなるのも分からんでもない。


(ちなみに冒頭のスフィンクス写真は、第二次遣欧使節団の時のものですた)

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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