vol.92 「文久の改革」について


遣欧使節のサムライ団が、パリの街で悪目立ちし、おフランス人達からジロジロ見ぃされていた頃、薩摩の「国父」島津久光っちゃんが兵を率いて京に上る。


兄・斉彬の遺志を継ぎ、兄の果たせなかった率兵上京を敢行し、朝廷から勅使を出させることで幕政改革を推し進めようと図ったのだ。つーか、自分を幕府の政に口出せるポジションに押し上げたかったのが真の目的なんだろーけども。


一方、京都で勢力を高めつつあった尊王攘夷派の志士らや、過激な下級武士、浪士たちは、久光っちゃんの率兵上京を朝廷主導による武力での尊王攘夷実現、幕府打倒の先兵であると誤解していた。ところが、久光っちゃんの真意は、あくまで幕政の改革、公武合体であったため、これら志士たちとの間に摩擦を生じ、自藩の急進派・有馬新七らの粛清を命じた寺田屋騒動、4月23日)。


ついでに「あんたは地ごろで斉彬様には遠く及ばんし失敗するからやめとけ」とか超絶無礼なこと言う西郷隆盛が目障りなので、再び島流しの刑に。よし、ウザったいやつらは排除したし、こっからが改革の本番でごわす!




⚫︎ 自信満々で、いざ江戸へ!


久光っちゃんは、権大納言「近衛忠房」や、議奏「中山忠能」「正親町三条実愛」ら公家に働きかけて、建白書を提出。その内容は、安政の大獄の処分者の赦免および復権、前越前藩主「松平春嶽」の大老就任、御三卿一橋家当主「徳川慶喜」を将軍後見とする、過激派尊攘浪士を厳しく取り締まる、などからなっていた。


久光っちゃんの建白は「孝明天皇」に受け入れられ、5月9日、勅使として「大原重徳」を江戸へ派遣することが決定された。この勅書は久光っちゃんの意見が大幅に取り入れられたものとなった。


6月7日、久光っちゃんら薩摩兵1000人が随行して大原は江戸へ入り、幕府との交渉を開始する。それまで国政を全面委任されていた幕府に対し、朝廷から改革の指示が下るという前代未聞の事態に幕府内は混乱するが、結局その大部分を受け入れざるを得なかったのである。


なお、主な改革の内容は以下のとおり。



〈人事改革〉

若年の14th家モッチーを補佐する役として、一橋慶喜を将軍後見職に任命松平春嶽を新設の政事総裁職に任命。ここまでは勅書による改革の指示に沿ったものである。

これとは別に、京都における尊王攘夷過激派の擡頭によって悪化した治安の取り締まりのため、従来の京都所司代の上に京都守護職を新設し、会津藩主「松平容保(かたもり)」を任命。

ちなみに、松平容保は何度も「嫌そんなん無理」と断ったのだが、春嶽に「あれ〜会津は徳川家に絶対服従って保科正之様が家訓にしたんじゃなかったっけ?」と、鉄の掟を持ち出され、しぶしぶ引き受けたそうな。ここから会津藩における過酷な運命の歯車が回り出すのだが、、それはまた後に詳しく。


〈参勤交代の緩和〉

それまで隔年交代制であった大名の参勤交代を、3年に1度に改め、江戸在留期間も100日とした。また、人質として江戸に置かれていた大名の妻子についても帰国を許可することとなった(大名証人制度の緩和)。これは幕府制度確立以来の根本制度の変革であり、幕府権力の低下を意味し、国内外に大いに反響を呼んだ。


〈洋学研究の推進〉

それまでの蕃書調所を洋書調所と改め、洋学研究を梃入れするとともに、榎本武揚、西周らをオランダへ留学させた。


〈軍事改革〉

幕府陸軍の設置、西洋式兵制(三兵戦術)の導入、兵賦令(旗本から石高に応じて農兵もしくは金を徴収する)の発布などが行われた。


〈服制変革ノ令の発布〉

幕府初期以来礼服に用いられてきた長熨斗・長袴が廃止され、より実用的な服装による形式的な服装・儀礼の簡素化が行われた。


〈郡県制の設置〉

藩を廃止して郡県制にする幕政改革を小栗忠順が提案したが、反対した長州藩を潰すための第二次長州征伐で長州藩の近代化兵器と西洋式兵制によって幕府軍が敗退したため実現しなかった。




⚫︎ 改革の影響や、いかに?


安政の大獄以来、逼塞に追い込まれていた徳川慶喜、松平春嶽らが表舞台に復帰したことにより、幕府の改革は進むかに見えた。が、やがて久光っちゃんとの意見の相違が明らかとなり、対立する。また、改革の必要があったとはいえ、外様大名の父の圧力、および、それまで政治的実権を有していなかった朝廷の圧力により改革を強要されたことは、幕府の権威に著しいダメージを与えた


それとともに、朝廷の権威は相対的に上昇し、幕府は翌年の14th家モッチーに対する上洛要求の勅命にも屈する。そして、将軍上洛を契機に、幕府の権力も江戸と京都に分裂し、幕府崩壊に至るまで分裂状態は完全に回復されないまま、その寿命を縮めてゆく。


一方、京都でも、久光っちゃんの行動と寺田屋事件などの影響により、薩摩藩・会津藩などを中心とする公武合体(幕政改革)派と、長州藩や「真木和泉(やすおみ)」らの志士などを中心とする尊王攘夷派の間で、京都政界の主導権を巡る対立が激しさを増していく。


勅命の成功によって、それまで政治的発言を封じられていた少壮公卿もまた発言力を増大させ、中川宮朝彦親王・二条斉敬ら公武合体派と、三条実美姉小路公知はじめとする尊攘派公家が激しく対立。これらの動きが翌年の「八・一八政変」、翌々年の「禁門の変」などを招くことになった。


しかも、参勤交代の緩和を受けて、大名妻子が国もとへ帰省したため、江戸の活気が失われ、260年続いた繁栄は消え去ってしまった。そして京都と同じく危険な浪人が町をうろつくようになり、夜も迂闊に歩けないほどに。ヨーロッパから帰国した福沢諭吉は「文久2年から明治6年ごろまで江戸が一番危険で、物騒な世の中であった」とのちに回想している。



あははw 良いこと何も産んでねーw

幕府の政を改善させるつもりが、改悪になっちゃってて、幕府の寿命縮めちゃうという見事な逆効果。てなワケで、百害あって一利無しの「余計なお世話(と書いて文久の改革と読む)」により、こっから様々なことが加速度的に悪い方向へと進み出す。


さすが地ごろの久光っちゃん!と言いたいところであるが、なんのなんの、我らが久光っちゃんはこの程度のクスクス笑いで終わる器じゃごさーせん。もっと盛大なオチを付けてくれます。それが、かの有名な「生麦事件」なのですが、それは次回の記事にて詳しくまとめましょう。


いや〜しかし、かなりヤラカシてくれたね〜久光っちゃん。なのに何故か憎めないのは、西郷どんで久光を好演してくれた青木崇高さんのおかげに他ならない。もう大好き、久光っちゃんw

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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