さて、ここで政局のゴタゴタから一度離れ、こんな幕末を江戸っ子たちがどのように過ごしていたか見てみよう。だって「江戸町人文化芸術研究所」ですからね。しばらく忘れてましたけど。
⚫︎ 麻疹の大流行
1862(文久2年)は、江戸市民にとって不穏な空気に包まれた年であった。その年は正月以来雨が少く、梅雨の季節になってようやく降雨がみられたが、6月に入ると旱天の日が続いたそうな。その頃から江戸の町々に「麻疹」がにわかに蔓延しはじめ、病人は日を追って激増した。患者は高熱に喘ぎ、赤い発疹が顔から全身にひろがり、体が痙攣し呼吸困難になって息絶え、死後、総身赤くなる者が多かった。
現代よりも寿命が短かった当時、20年から30年の長い間隔で流行する麻疹への治療経験を積んだ医師も少なく、子どもだけでなく30歳くらいまでの大人も感染し命を落とすこともあったため「命定め」とも呼ばれていたと言う。
ちなみに、こんな江戸川柳がある。「麻疹で知られる傾城の年」
「傾城(けいせい)」とは遊女のこと。当時から、麻疹も疱瘡も一度かかれば二度とかからないことはよく知られていた。今回の流行でこの遊女は麻疹にかからない、ということは前回の流行時には生まれていて麻疹にかかっていたということ。そのため年を誤魔化していたことがばれてしまったという句である。
川柳はクスッと笑えるが、事態は笑いごっちゃなく、特に、この年の流行はひどいものだった。「江戸洛中麻疹疫病死亡人調書」には江戸だけで7万5981人が死んだとある。江戸の各寺が報告した麻疹で死んだ人の墓の数は、それよりはるかに多い。なんと23万9862人だそうだ。
『徳川実紀』によれば、6月16日の触で、未感染の14th家モッチーの御座所へ、麻疹病人や看病人の出入りを制限したにもかかわらず、家モッチーと御台所である和宮ちゃんも罹患してしまったらしい。また、江戸の町名主斎藤月岑の『武江年表』では、いつもと様相を一変させた江戸の町の光景をこんな風に描いたと言う。↓
〜 例年は、藪入りの少年でにぎわう浅草寺に千日詣の参詣人の姿はまばらで、両国橋界隈は納涼客を当て込んで立ち並ぶはずの屋台の燈火も見えず、まさに火が消えたようなさびしさ。江戸っ子が毎日通うことを習慣にしている銭湯や、不夜城であるはずの吉原ですら客がいない。そして、普段は魚市場に行き来する人でごった返している日本橋の上を、多い日は二百近い棺桶が寺に向かって渡っていった。〜
(鈴木則子『江戸の流行り病』より)
なんてこったい。ほんの10年前までは栄えに栄えていた花のお江戸が、黒船の来航以来このかた厄災続きと物価高騰やらで、どんどん寂れてゆくばかり。いったいぜんたい何がどーなっちまってんだ? 何とかしてくれよ神様よぉ!
⚫︎ ってことで様々な麻疹絵が登場
「三日コロリ」の時と同様、疫病退散の魔除け札的な意味合いを持つ「麻疹絵」が世に出回り始める。この麻疹絵には、麻疹の予防・治療に良い食物や薬、流行時に損害を被った職業、さらにそれらが麻疹を打擲する様子などが擬人化されて描かれており、そのような図像の周辺には、麻疹除けのまじない方法なども文字情報として記されている。
まじない方法の中でも、かなり多く登場するのが「タラヨウ(多羅葉)」の葉っぱを使うものであった。(タラヨウの肉厚の葉は、裏側に傷をつけると墨で書いたように変色するので、当時は「まじない」を書くのに利用されてたんですって)
具体的な例としては、タラヨウの葉の右側に下記のような歌を書き、左側の余白には書いた人の年齢と名前を書いて、身体中を撫でてから川に流すと症状が軽くなる、とか何とか。
「むぎどのハ 生れたままに はしかして かせての後ハ わが身なりけり」
生涯に一度罹れば再び感染することはないと知られていたので、歌を強引に読み解くとすれば「麦殿様は既に麻疹に罹っているので麦殿様の化身である私(または我が子)は感染してもあまり症状は出ませんよ」という意味かと思われる。
まじない系以外の文字情報には、麻疹の予防・治療に関する食物の記述が非常に多い。作品によって差はあるものの、麻疹絵1点に挙げられる食物数は平均すると、良い食物が19.6品、良くない食物が13.6品となる。
このように特定の病に対して、予防・治療に良い、または良くない食物が複数規定されているのは、幕末の麻疹以前には存在しないそうだ。麻疹絵は図像と文字の両方を通して、多くの庶民に麻疹の情報を伝える重要な「情報伝達媒体」であったと言える。
⚫︎ 儲かる者、儲からなくなる者
また、麻疹絵には「やってはいけないことシリーズ」として、以下のことが挙げられている。
「房事七十五日、入浴七十五日、灸治七十五日、酒七十五日、そば七十五日、月代(さかやき)五十日」
最初に書かれている「房事」とは男女の交わりのことだ。いずれにせよ、こんな形で禁忌が書かれれば、遊郭、湯屋、あんま、酒屋、そば屋、床屋など、商売が上がったりになる職業も少なくなかったらしい。その一方、麻疹不況の中で儲かったのが薬屋と医者である。
そのため江戸の町のあちこちで、素人が突然麻疹の薬を売り始める。江戸時代の薬屋は免許制ではないから、誰でも薬屋になれた。また、宗教関係者は、このときとばかり競ってお札やお守りを売りさばいた。このような状況を反映した、商売あがったりの連中がよってたかって景気のいい医者や薬屋をたたきのめしている錦絵もある。
芳藤「麻疹退治」
麻疹流行によって被害にあった風呂屋などの職業の人々が麻疹神をこてんぱんにしている
芳員「麻疹養生集」
人間の姿の麻疹神と儲かった医者を、商売あがったりの湯屋、芸者、てんぷら屋、寿司屋、遊女などが取り囲んでいる
江戸時代の浮世絵師で最も大きな流派だった歌川派の門人の多くが麻疹絵を描いていたようで、麻疹関連の売り上げも相当なものだったろう。麻疹発生の4月に一斉に印刷されているにも関わらず、歌の内容や使い方に違いがあるのは版元(発行人)が話題性を持たせるために工夫を凝らしたのだろうと推測される。
安政江戸地震(1855年)の後、幕府に無届けで出版された「鯰(なまず)絵」とは違い、作者や版元が明確になっている。政治への「天罰」や「世直し」への期待が読み取れる鯰絵のようなメッセージ性はないため、規制対象にならなかった。
実際の効果のないまじないを売るのは、詐欺のようにも思えるが、絵にも「まじない」と書かれており、神様に願いが叶うよう祈る行為は現代の初詣や御守りと変わりないのかもしれない(初詣は鉄道会社の発案だとか)。
来年の文久3年は平和な年でありますように。と皆が願ったと思われるが、神様にも叶えられるタイミングと、叶えられないタイミングがあるようで。まあ、実際にご利益があったか無かったか、結果は、来年のお楽しみってことにしときやしょう。
参考
https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/8492321/
https://www.tokyo-np.co.jp/article/69030https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/bunkaweek/2021/chapter2/
https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/nichigen/issue/pdf/12/12-07.pdf
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