世の中いろんな嘘がありますが、この清河八郎さんとやらの嘘は、揺れる幕末でなかなかの効果を発揮したようで。一個人のついた嘘が、一国の運命に影響を及ぼすたぁ、ある意味それは偉業なのかもしれない。普段つまらん嘘ばかりついてる私としては、そんな歴史に残るほどの嘘ならむしろ言ってみたい、と逆にちょい憧れてしまう。
⚫︎ けど、清河八郎って誰やねん?
現在の山形県である庄内藩の郷士。とにかく勤勉だったようで、18歳で江戸に上り習った塾でも才を認められ塾頭を命ぜられたり、幕府の学問所である「昌平黌(しょうへいこう)」でも学んだり、と秀才ぶりを発揮。さらに、剣の稽古にも熱心で、北辰一刀流の開祖「千葉周作」の玄武館で剣を磨き、免許皆伝を許されたほどの腕前と来てる。ほんでもってその後、25歳にして自ら「清河塾」を開設するが、当時の江戸市中で学問と剣術を一人で教える塾は清河塾だけであったそうな。
まさに文武兼備。武士の鏡ってやつじゃないすか。かつて「ぶんぶぶんぶ」と煩かった松平定信さんに見せてあげたい優等生である。しかも男前だし。
安政2年(1855年)3月から9月にかけて、母親を連れて、清川村を出発。善光寺、名古屋、伊勢、奈良、京都、近江、大坂、宮島、岩国、天橋立、鎌倉、江戸、日光などをめぐる大旅行をする。その記録『西遊草』は、幕末の旅行事情を知るうえでは貴重な資料である。内容は各国の名士との出会いなどを中心に書かれているが、その性格からか辛辣で手厳しい批評が多い。
ん? その性格から? あーはいはいアレか。自分に厳しいから他人にも厳しいタイプか。ほらやっぱりストイックモンスターの松平定信さんと気が合いそうじゃないのさ。
⚫︎ ところが尊王攘夷に目覚めてしまい
安政7年(1860年)に起こった桜田門外の変に強い衝撃を受け、倒幕・尊王攘夷の思想を強める。この事件を契機に、清河塾に憂国の士が集まりだす。同年、盟主として「虎尾の会」を結成。このネーミングは「国を守るためなら虎の尾を踏む危険も恐れない」という意味があり、メンバーは幕臣の「山岡鉄太郎(鉄舟)」をはじめとする15名。
同年、虎尾の会のメンバーらが、米国領事官・ハリスの通訳ヒュースケンを殺害。次は、横浜外国人居留地を焼き討ちし、尊王攘夷の精神を鼓舞し、倒幕の計画を立てたが、この密計が幕府の知るところとなる。しかも文久元年(1861年)には、罵詈雑言を浴びせてきた幕府の手先を斬り捨てたため、幕府に追われる立場となった。これにより虎尾の会同志・妻お蓮・弟熊三郎らが連坐して投獄され、虎尾の会は分散する。
早い! 熱血バカ真面目くんは、すぐ右から左にビュンッて走るし、行動も早い。そして転落も早い。あっと言う間にお尋ね者じゃないすか。あ〜あ、せっかくのキャリアが、、ってそんなん気にするタイプじゃないか、この手の輩は。てゆーか会員と妻と弟が可哀想すぎでしょ。。
⚫︎ なので九州で同志を集い始めるが、、
逃亡生活を余儀なくされた八郎は、潜伏期間中、京都で密かに封事を天皇に奉り、尊攘派の同士を集って勤皇のもとに挙兵する策を押し立て、九州遊説につく。その戦略は、薩摩藩の率兵上京に期待を寄せるものであり「薩摩が討幕に立つ!」と根拠もなしに勝手に触れ回った。『近世日本国民史』では、京都に参集した尊攘派は、清河の空想的政局論により集められた一面があるとしている。
はい出ました歴史に残る嘘。かの有名な「薩摩、幕府倒すってよ」ですね。ところが、誰も「それってあなたの願望ですよね」とは突っ込まず「うぉーこうしちゃおられん!」て脱藩して京に集まりまくっちゃうのだから、とんでもないデマ拡散野郎であります。
しかし、島津久光の率兵上京の目的は、倒幕ではなく公武合体であったため、意見の対立した薩摩藩士同士が斬リ合うことに。世に言う悲劇の「寺田屋の変」である。これにより清河の画策は挫折。清河の流した噂につられて京に集まった尊攘派の志士たちも、行き場をなくして逃げ隠れするハメになる。なにせ脱藩して来ちゃってるから、帰るわけにもいかないのである。
いやはやこれには薩摩も朝廷も幕府も志士たちも大迷惑。誰だ嘘ついて煽りやがった奴は! ついて良い嘘と悪い嘘があるだろが! 有馬新七さんなんか仲間同士で戦って死んじまったぞ、どーすんだこれ! どこ行ったあの嘘つき野郎!
⚫︎ 急務三策と浪士組結成
寺田屋の変後、しれっと江戸に戻った清河は、山岡鉄舟らを通して幕府政事総裁・松平春嶽に『急務三策』という建白書を提出。これは、①攘夷を断行する、②浪士組参加者は今まで犯した罪を免除される(大赦)、③文武に秀でたものを重用する、という内容のもの。 尊攘志士に手を焼いていた幕府は清河の建白書に飛びつき、将軍上洛の護衛として「浪士組」の編成が許可される。
これにより、獄中の「虎尾の会」志士・同志たちの大赦が出され、清河自身も自由の身となるが、妻・お蓮はすでに獄死しており、清河は深く悲しんだという(そうだお前のせいだぞ)。しかし、この浪士組結成は、またしても清河の方便であり、上手く幕府を出し抜いて、今度は佐幕派の剣豪たちをまんまと集め、やがて討幕のための駒として使おうとの目論みであった。
腕に覚えがある者であれば、犯罪者であろうと農民であろうと身分を問わず、年齢を問わず参加できるため、当時としては画期的な組織であった。が、しかし無制限に募った参加者は予想以上に膨れあがり、一番隊から七番隊までなる計234名もの大部隊が出来上がった。この中に、のちに「新撰組」となる「芹沢鴨」や「近藤勇」や「土方歳三」や「沖田総司」などが含まれていた。
ここまで来ると、よくそんな大それた嘘つけるもんだと逆に感心するが、騙された人らも、よくまあコロッと騙されてこれだけ集まるもんだと不思議に思う。何か怪しいと誰も思わなかったのだろうか。九州での前科ほやほやなのに。
⚫︎ 上洛、そして反旗をひるがえす
文久3年(1863年)2月8日、再び小石川伝通院に集まった浪士組は江戸を出立して中山道を上洛する。9日、本庄宿に到着。ここで、先番宿割を任されていた近藤勇が芹沢鴨の宿を取り忘れてしまい、怒った芹沢が路上で大篝火を焚くという騒動を起こすが、近藤が池田徳太郎と共に芹沢に謝罪して一応の解決を見たと言う。
浪士組一向が京都に到着し壬生村へ入ると、清河は浪士組を新徳寺の本堂へ集め、「われらの目的は将軍警護にあらず。本分は尊皇攘夷にある。 天皇のため、日本のために立ち上がるのだ! われらの真の目的は朝廷を擁立し、外国勢力を打ち払うことである。尊皇攘夷の魁となるが本分なり!」と尊皇攘夷論を演説した。
突然の話に浪士たちは困惑したが、清河は血判状に隊士の血判を集め、翌日、京都御所の学習院へ提出し、これが受理され、浪士組み宛てに勅諚(天皇のお言葉)を賜る。身分の低い浪士が、天皇から勅諚をもらうなど前代未聞の出来事であった。
しかし、浪士組の芹沢 鴨・近藤 勇・土方歳三ら13名は清河の企てに猛反対し、浪士組から離脱して、京に残ることに。京都守護職を務めていた会津藩預かりとなり「壬生浪士組」を名乗る(後の新選組である)。
清河らが率いる浪士組は、京都を出立して江戸へ向かう。清河は、江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、何百人という浪士たちが清河の手先として働くことを恐れた幕府に命を狙われており、幕府の刺客である佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名によって麻布赤羽橋(現麻布十番商店街そば)で首を討たれた。享年34歳。
清河の同志達も次々と捕縛されたため、残された浪士組は組織目的を失う。幕府は浪士組を新たに「新徴組」と名付けて江戸市中取締役の庄内藩預かりとした。京都守護職会津藩預かりとなっていた「壬生浪士組」は、八月十八日の政変後に「新選組」の名を賜り、名実ともに浪士組は消滅することとなった。
⚫︎ 清河八郎に対する知人らの評価
「その天性猛烈であって、正義の念強く、体格堂々、威風凛々。音声は鐘のようで、眼光人を射る。一見して凡人超越の俊傑であることを知る」
「平素はじつに淡泊なもので磊々落々たるもので文武の男でしたな。しかし議論をする時分には、だれでも自分の思うとおり、やっつけてしまいますので、私はよっぽど、それはいけないからよせと言って忠告しましたが、性質でしたから直りませんでしたな」
「人望はありましたな。あの頃の儒者が一歩譲っていた」
「清河さんは背が高く、色が白い気品のある方でした」
「八郎が一の英雄豪傑であった」
ほほう。世紀の嘘つきのわりに評価高いですな。それどころか、明治維新への気運の生みの親と称されてたり、記念館まで出来てたりして、まるでヒーローのような扱いである。けれど人望はあったようだし、その情熱と人間的魅力で人々を惹きつけ、革命のステージへ導いたのは事実っちゃ事実。その際には多少の嘘も必要だったのかもしれない。
そう考えると、なかなかのカリスマ指導者に見えてきた。ある意味、映画『JOCKER』のような、群衆を熱狂へ駆り立てる火付け役と言うか。最初に道を示す先導者と言うか。それゆえに一度心に火が付いた志士たちは、もう先導者がいなくても止まらないわけで。その意味で、清河八郎は自分の使命を見事に全うしたとも言えよう。
(清河八郎 退場)
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