vol.98 「松平容保の奮闘」について


文久3年は、実に様々なことが同時進行で絡み合うから本当にややこしや〜。いっそもう純然たるカオスならば、ぐちゃぐちゃしてても「あーそうゆうチャンプルーなのね」で飲み込めるのだが、江戸風なんだか京風なんだかどっちつかずの出汁の中に、薩摩芋と、長州の海産物と、土佐の文旦が入り乱れてて、味も料理の方向性も定まってないからワケわからん。


しかも、ちょっと目を離すと人斬り達がウェイターらを斬って、その耳や手や首を脅迫文と一緒に投げ込んで妨害してくるんだから、たまらない。なのにVIP席で待ってるイギリス人は「今すぐ美味い日本料理を持って来ないと店を砲撃するゾ!」とか怒ってるし。この鍋の現状で、何をどーすりゃ一応食えたものになるのか見当もつかず、厨房はもうパニックですよ。


そんな中、ひとり冷静な料理人が会津から派遣されて来ましてな。どうにか味を整えようと頑張ってくれるのです。その男の名は「松平容保(かたもり)」。当ブログvol.12にて、私が心から惚れた「保科正之(ほしな まさゆき)」の子孫であります。(以下、保科正之のカッコ良さを忘れぎみの場合は、vol.12『名君の碑 保科正之の生涯』をおさらいしてから読むべし!)




⚫︎ 「言路洞開」と「策を用いるな」


久光っちゃんの「余計なお世話(文久の改革)」の影響で、今いちばん物騒な京都にて、過激な浪士たちを取り締まる京都守護職に任命されてもうた会津藩主の容保(かたもり)さん。もちろん家来らは「このころの情勢、幕府の形勢が非であり、いまこの至難の局に当たるのは、まるで薪を背負って火を救おうとするようなもの。おそらく労多くして功少なし」と大反対。そりゃごもっとも。


が、容保さんは「私も最初はそう思って再三固辞したのだが、我家には宗家と盛衰存亡を共にすべしという藩祖公(保科正之様)の遺訓がある。もう引き受けるしかあるまい」と、言うので「この上は義の重きにつくばかり、君臣共に京師の地を死に場所としよう」と腹を決め、君臣、肩を抱いて涙したという。だよな、泣くほどヤダよな。


そして文久2年12月24日、クリスマスイブに会津藩兵を率いて上洛した容保サンタ。京市中の治安維持にとりかかる。京都守護職は夜中巡邏の制度を作り、暴徒の警戒を行った。その頃の京は、過激な攘夷派浪士が横行する巷と化しており、日に2、3度は暗殺が行われ、その首や耳や手が脅迫文書と共に公卿の屋敷に投げ込まれるといった事態であった。これは攘夷派による過激な手段の幕府批判であり、邪魔となる者への殺戮と脅迫であった。なんてナイトメア・ビフォア・クリスマス!


しかし、容保サンタはすぐには鎮圧にはあたらず、「言路洞開(げんろどうかい)」の方針を打ち出した。浪士が騒ぐのは意見が上に通らないため、話せばわかると考えた容保サンタは「国事に関することならば内外大小を問わず申し出よ。手紙でも面談でも一向に構わない。その内容は関白を通じて天皇へ奉じる」と布告を出して発令し、幕府へも建議した。うむ、優しい。さすがサンタ。


ちなみにこの時、一橋慶喜は「全て聞いていてはきりがない。やるならば勝手にせよ」とあしらったという。うむ、冷たい。


ところが、浪士たちの運動にテロという異常の習慣がついてしまった以上、かれら自身の自制力によってその狂気を停止せしめることはできないものらしい。言路洞開を布告しているにも関わらず、暗殺事件が後を断たないことから、さすがの容保サンタも怒って方針を転換。特に2月に起きた「足利三代木像梟首事件」で、遂に堪忍袋の尾がブチギレる。


足利三代木像梟首事件とは、攘夷派浪士により等持院にある足利将軍3代の木像の首が引き抜かれ、三条大橋に晒された事件。立てられた板札は公然とこの首を徳川に擬していた。江戸幕府の立場からすれば、従来の「天誅」が開国派や公武合体派であった個人を狙ってのものが大半であったのに対し、この事件では足利将軍の木像を梟首することで暗に「倒幕」の意味を持つものとして警戒された。


また、事件は江戸で公募された浪士組の上洛直前にあたり、挑発的行為とも考えられた。容保サンタは「尊氏には世論が様々あるが、いやしくも朝廷から官位を賜り政権を預かった者、このような尊貴の者を辱めることは、そのまま朝廷を侮辱すると同じである。もし彼らに尊王の心があるならば、先に言路洞開にて進言を許しているにも関わらず、その令を奉さずこのような凶暴をなすはずがない。これは実に、上は朝憲をあなどり下は臣子の本分を忘れたもの。ことにその暴行は屍に鞭打つに等しい残虐の行い。暴行ここに至れば許すべからず!」と、この事件に激怒。町奉行に追捕を厳命した。


過激浪士は、京にいるだけでも500人はあるという噂が立ち、恐れた町奉行や三条実美から逮捕の中止を求める声が上がったが、容保サンタは「たとえ浮浪の徒が幾百いようとも、国家の典型は正さねばならない。しかし策は用いるな。最後には必ず一途な誠忠が勝つ!」と家臣を叱った。


以後、治安維持は警戒を強めていく。容保サンタは家臣の勤めが至らぬ時も、民から凶暴の訴えがあった時も、それらは全て自分の不肖として一言も家臣を責めなかったという。やがて家臣もこれにならい、職の責任を重んじ尽くした。テロは結局、そのテロを封じるためのテロによってしか終息しないということに気づいたのだ。


それからも、孝明天皇から呼びつけられて家モッチーが上洛する際、過激浪士たちは妨害のために伊勢奉幣使派遣を画策するが、容保サンタがこれを事前に察知。未然に防いだ。


また、清河八郎が連れてきた浪士組のうち、京壬生村に残留していた者達の差配を幕府より命じられ、芹沢鴨ら17名の浪士達を「会津藩お預かり」とし「壬生浪士組(後の新撰組)」を配下に置く。


3月11日、過激派の企画により加茂社行幸が行われるが、容保サンタの厳重な警戒により事なきを得る。家モッチーも行列に参加し、孝明天皇は将軍の頼もしさを語ったと聞き、公武一和の成果に喜んだ。




てなワケで、容保サンタが京都守護職をきっちりやってくれたおかげさまさまで、ひとまずここまでは何とか睨みが効きました。しかしながら、ここにこれからイギリスという名のジャイアンが指をボキボキ鳴らしながら生麦事件の落とし前を迫ってくるもんだから、過激攘夷派の動きもまた活発に。。


よって、容保サンタはこの先も京の政局において、オロオロ狼狽え決められない幕府と、ガンガン動く過激な攘夷派とに困らされ、悩まされ続けていくことになる。のちに家臣「山川浩」は、当時のことを「わが公の多忙なことは、一つ処理すればすでに数件の難事件が双肩にかかるありさまで、禁中・二条城・各屋敷を奔走し、その苦心は筆舌にあらわし得ないほどであった」と書いている。


なんともご苦労様なことで。しかし危険な浪士が500人もいるとは、清河八郎マジック恐るべし。ほんと何てことしてくれたんだよ八郎さんはよ。でもま、代わりに新撰組をこっち側にもたらしてくれたから許すか、って許さんわ! ぜんぜん人数が釣り合わないもん。



芹沢 鴨 せりざわ かも(新撰組 初代局長)

清河八郎の呼びかけにより、14th家茂の上洛警護を目的として集められた浪士組に参加。しかし、浪士組の本当の目的が尊王攘夷運動の決行にあることが分かると、浪士組は分裂。近藤勇らの一派と共に京都に留まり「壬生浪士組(のちの新撰組)」の初代局長となる。剣の腕は相当だったが、酒乱や自制心の欠如など、致命的とも言える短所のある荒くれ者で「近藤勇」や「土方歳三」らによって「こいつヤバすぎるだろ」と暗殺される。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/芹沢鴨



近藤勇 こんどう いさみ(新撰組 局長)

筆頭局長の「芹沢鴨」を支える立場だったが、芹沢鴨のたび重なる蛮行を問題視した会津藩から、粛清の命が降りたことから「土方歳三」らと暗殺を決行し、新選組におけるただひとりの局長として、君臨することに。のちに「池田屋事件」で新選組と自身の名を天下に轟かせ、これを機に新選組の役割が広がり、京都の治安維持に加えて江戸幕府の諜報機関としての任務にも従事する。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/近藤勇



土方歳三 ひじかた としぞう(新撰組 副長)

少年時代から武人として名を上げたいという想いが強く「バラガキ」(乱暴者)と呼ばれるほどのヤンチャ坊主。新撰組を盤石な組織にするため、規律を破る者は容赦なく切腹させたため、今度は「鬼の副長」と呼ばれることに。新撰組の頂点は局長であるが、実際の指揮命令は副長の歳三から発したとされる。容姿が良く、京の女性達からたくさんの恋文をもらっていたが、歳三は「つまらぬもの」と破棄している硬派なやつ。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/土方歳三



沖田総司 おきた そうじ(新撰組 一番隊組長)

若くして新撰組最強の剣豪。鍛えられた足腰と素早い動きからなる「三段突き」は、あまりの速さで、3回が1回に見えるほどだったと伝えられる。「恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろう」とも。沖田の指導を受けた者によれば、「荒っぽくて、すぐ怒る」といい、稽古は相当厳しかったらしく、師範の近藤より恐れられていた。「刀で斬るな!体で斬れ!」と教えていたという言い伝えもある。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/沖田総司




参考

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/松平容保

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。