アフター8/18で「芹沢鴨」を暗殺して生まれ変わった新撰組。鬼の副長こと「土方歳三」の統率力で組織体制も盤石なものに。拾ってくれた会津藩の「松平容保」と連携して京の治安を守るべく、今日も警備に目を光らせていた。
と、そんな折。怪しい奴を捕まえて尋問してみたところ、8/18で追い払われた尊皇攘夷派が巻き返しをはかるために、京のあちらこちらへ潜伏し、密かに集結しつつあると自白した。中心となるのは長州藩、熊本藩、土佐藩などを脱藩した浪士達だとか。
こいつは何とも不穏な動き。一体何を企てているのか知らんが、それを未然に防ぐのが我ら新撰組の役目である。ってことで直ちに捜査を開始。そして、「枡屋喜右衛門(ますやきえもん)」という店に怪しい浪人たちが出入りしているとの情報を掴む。
⚫︎ 古高俊太郎というキーマンが握る極秘情報
「古高俊太郎(ふるたか しゅんたろう)」は、出身は近江、現在の滋賀県守山市。父親が京都の毘沙門堂門跡に仕えていていた関係か、洛中に住んでいて、儒学者で、尊王攘夷を訴えた「梅田雲浜(うんびん)」と交流がある尊王攘夷派の志士であった。
梅田雲浜が安政の大獄で逮捕され、獄死すると、古高俊太郎も身の危険を感じ、息子のいない枡屋を継ぎ「枡屋喜右衛門」と名乗るようになる。古道具、馬具を扱いながら早くから「宮部鼎蔵(ていぞう)」らと交流し、朝廷との間をつなぐなど、長州間者の大元締として諸大名や公家の屋敷に出入りしては、情報活動と武器調達にあたっていた。
新撰組が桝屋の家宅捜索に踏み切ると、なんと店舗の地下倉庫からおびただしい量の火薬と銃が発見される。また、隠された書状から、のちの池田屋事件のきっかけとなる連判状(れんぱんじょう:印を押した署名)も見付かり、枡屋喜右衛門の正体が古高俊太郎であることも、ついにバレる。
古高俊太郎が、筋金入りの尊王攘夷派であることと、地下倉庫に隠された火薬・武器の量から「これは只事ではない」と判断。古高俊太郎をひっ捕え、屯所前川邸の蔵で、局長「近藤勇」と副長「土方歳三」が直々に厳しい取調べを行うことに。もちろん、厳しい取り調べとは「拷問」である。
「古高俊太郎が新選組に捕まった!」という知らせを聞いて、慌てたのは長州藩の関係者。その一部は「古高を奪還せねば!」と新選組の拠点である壬生屯所を襲うことまで考えたとか。そこまでしてでも知られたくなかった情報を古高俊太郎は持っていたのだ。
なかなか口を割らない古高俊太郎であったが、鬼の副長・土方歳三によって2階から逆さ吊りにされ、足の甲から五寸釘を打たれ、貫通した足の裏の釘に百目蝋燭を立てられ火をつけられる等の過酷な拷問を受け、とうとう尊王攘夷派の大陰謀を自白する。
その内容は、8/18の政変後、京を追われた長州人らが6月下旬の強風の日を選んで御所に火を放ち、佐幕派公卿の「中川宮」を幽閉し、京都守護職の「松平容保」以下佐幕派大名を殺害、天皇を長州へ連れ去ろうとするものだった。すでに計画実行の志士が多数上洛、潜伏しており近々市中で同志の集会があることも明らかとなった。
とんでもない計画があるということを新選組は京都守護職会津松平家に報告。結果、当日夜の大捜索が決定する。
⚫︎ 限られた少人数で斬り込んだ池田屋事件
集合場所の祇園会所に集まった新撰組隊士は計34名。準備を整えて会津藩兵の到着を待ったが、午後8時近くになっても会津藩兵は祇園会所に姿を現さない。古高俊太郎の逮捕を知った尊王攘夷派浪士達に何らかの動きがあることが予想され「一刻の猶予もなし」と判断した近藤勇と土方歳三は、新撰組単独で動くことを決断。近藤勇が10名の隊士を率いて鴨川の西側へ、土方歳三が24名の隊士を率いて鴨川の東側で探索を開始する。
攘夷派が潜伏していそうなところを捜索しつつ北上。茶屋や商人の家を〝御用改め〟して行く。突然、刀を持った新選組隊士に「御用改めである!」と踏み込まれるのだから、来られた方はさぞかし仰天したことであろう。
そして、午後10時頃「池田屋」に到着したのが、近藤班。皆で「古高を奪還すべし!」と相談していたのかどうかは定かではないが、池田屋には長州、土佐、肥後などの志士20人ほどが2階に集合していた。近藤勇はためらうことなく斬り込みを発令。「沖田総司」「永倉新八」「藤堂平助」などの手練れとともに池田屋に踏み込み、近藤勇の「御用改めであるぞ! 手向かいいたすにおいては容赦なく切り捨てる!」の一声で戦闘が始まった。
池田屋は騒乱のるつぼとなった。襲撃を受けた「宮部鼎蔵」ら志士たちは応戦しつつ、現場からの脱出を図った。 数の上では尊攘派の方が優勢である。2階の屋内に踏み込んだ沖田は多数を相手に奮戦したが、戦闘中に肺結核の発作を起こし、血を吐いて戦線から離脱。また、1階の藤堂は油断して鉢金を取ったところで額を斬られ、血液が目に入り十分な視界が確保できず、後退を余儀なくされた。
やがて、裏口を守っていた「安藤早太郎」「奥沢栄助」「新田革左衛門」達のところに土佐藩脱藩「望月亀弥太」ら浪士が脱出しようと必死で斬りこみ、逃亡。これにより奥沢は死亡し、安藤・新田も1か月後に死亡した。
新選組側は一時、近藤・永倉の2人となるが、土方隊の到着により戦局は新選組に有利に傾き、方針を「斬り捨て」から「捕縛」に変更。9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げた。会津・桑名藩の応援は戦闘後に到着した。
この戦闘で数名の尊攘派は逃走したが、続く翌朝の市中掃討で会津・桑名藩らと連携し、20名あまりを捕縛した。この市中掃討も激戦となり、会津藩は5名、彦根藩は4名、桑名藩は2名の即死者を出した。
その後、新選組は、夜のうちに帰ると闇討ちの恐れがあるために夜が明けるまで待機し、翌日の正午、壬生村の屯所に帰還した。沿道は野次馬であふれていたという。血の付着していない隊士はひとりもおらず、なかには上半身が血で真っ赤という隊士までいた。
事件後、新撰組は陰謀を未然に防いだ功績により、朝廷から慰労金100両を下賜され、京都守護職からひとり当たり50両の報奨金を与えられる。この池田屋事件により、新撰組の名は一躍天下に鳴り響いたのであった。
⚫︎ 運良く生き延びた「逃げの小五郎」?
長州藩士「桂小五郎(のちの木戸孝允)」は、会合への到着が早すぎたため、一旦、池田屋を出て対馬藩邸で「大島友之允」と談話しており難を逃れた。談話中に外の騒ぎで異変に気づいた桂は、現場に駆けつけようとしたが、大島に制止されたため思い留まったと、桂の回想録『桂小五郎京都変動ノ際動静』には記されている。
ただし、鳥取藩士「安達清風」の日記によれば、大島は事件前の5月28日(7月1日)に京都を離れ、6月5日(7月8日)の当日には江戸におり、6月13日(7月16日)になって事件のことを知ったとされており、大島が桂を止めたというのは事実でない可能性がある。
それとは別に、京都留守居役であった「乃美織江」は、手記に「桂小五郎義は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由…」と書き残しているが、それに先立って「桂小五郎が殺された」との誤報を藩に伝え藩内をさらに混乱させたこともあり、また池田屋から対馬藩邸まで逃げられるような屋根が池田屋に無いなどの点から、乃美の記述は信用できないという指摘もある。
なお、拷問を受けた古高俊太郎はその後、六角獄舎に収容されたが、7月20日(8月21日)の禁門の変の際に生じたどんどん焼けで獄舎近辺まで延焼、火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、判決が出ていない状態のまま他の囚人とともに斬首された。享年36。
また、事件後には尊攘派志士をかくまっていたとして、池田屋主人の池田屋惣兵衛が捕縛され、獄死。池田屋も7か月間の営業停止となった。その後、親類により近在で営業を再開したが、のちに廃業し、現存しない。
池田屋事件では、吉田松陰に学んだ「吉田稔麿」や、京都の志士たちのリーダー格だった「宮部鼎蔵」も命を落とした。こうした人材を失ったことで、明治維新が数年遅くなってしまったという人や、反対に、この大事件のせいで長州藩が奮い立ち、明治維新が早まったという人もいる。
はい。今回はめずらしく一切「茶化しナシ」で、真面目にまとめてみました。やればできるもんですね。前回、茶化しまくった天誅組に謝るべきか。いや、新撰組はカッコ良いけど、お前らは笑えるほどダサかったのだから仕方ない。持ってる奴と、持ってなかった奴で、これだけの差が出るとは恐ろしかね〜w
参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/池田屋事件https://www.touken-world.jp/tips/72615/https://ja.m.wikipedia.org/wiki/古高俊太郎
https://www.digistyle-kyoto.com/magazine/18461
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