池田屋事件で、天下にその名を轟かせた新撰組でありましたが、京の人々からの評判はイマイチだったようで。そりゃまぁ、急に刀持って踏み込まれる側は大迷惑でしかないのだから、当然っちゃ当然か。
しかも当時、新撰組組と同様に京の警備にあたる小役人らが「点数稼ぎ」に無実の町人をひっ捕えて、浪士らを援助したとして獄につなぐこともしばしばあったとか。そんな冤罪に苦しんだ人たちが少なからずいたことで、京都の民心は幕府から離れていったそうな。
それに、池田屋事件で新選組は浪士らを捕らえて吟味する手順を踏まず、その場で斬殺するという厳しい手段を選んだわけで。少数で踏み込まず、応援の到着を待てば生け捕りにできたはずなのに、池田屋に居合わせた多数の攘夷派が斬殺された結果になった。恨みを買わないわけがない。
さあ、こうなると過激攘夷派が黙っちゃいませんぜ。
⚫︎ キレてますよ! 木島又兵衛さん
「8/18の政変」の後、長州藩と長州派の公家たちは京都から追放され、藩主の「毛利慶親(たかちか)」と子の「毛利定広」は謹慎となった。政治の主導権を失った長州は「木島又兵衛」をはじめとする過激派が、京都に乗り込んで武力を背景に立場の回復を訴えようとする「進発論」を唱え始める。が、それはさすがにマズいだろと「周布政之助(すふまさのすけ)」「桂小五郎」「久坂玄瑞」「高杉晋作」などの藩の実力者たちが、何とか抑えていた。
と言うのも、過激派が唱える攘夷とは、その先の明確なビジョンも展望もなく、ただ外国を排除したいだけのヒステリックな宗教のようなものだったからだ。久坂玄瑞や高杉晋作の師、吉田松陰でさえ鎖国を続けることに拘ってはいない。むしろ開国して西洋に学び、同等の力を付けて自国を守れるステージへの飛躍を描いていた。
そもそも長州藩だって、文久元年(1861)頃は「航海遠略策」を提唱し、開国と貿易を容認して国力を養い、将来は欧米列強と対峙できる国を目指そう!という大攘夷論を説いていた。しかし、威勢の良いことを言う方が支持を集めるもので。やがて、過激派を中心に「外国勢力との戦争も辞さない」という「破約攘夷論」に傾斜していった。
「破約攘夷論」とは、通商条約は不平等だから、いったん破棄して、改めて対等な条約を結ぼうという考え方である。条約を破棄するために武力を用いてでも外国人を日本から排除しようというアブナイ意見であるのだが、貿易から生じた生活苦により冷静さを失った民衆にとって、破約攘夷論は痛快に思えたらしく、みるみるカルト的な破約攘夷論に染まっていった。
そこへ「池田屋事件」の報が長州にもたらされると、有能な志士を何人も失って激高した長州藩内の空気は武闘路線に一変。桂小五郎らの慎重論は吹っ飛んでしまう。過激派が、長州藩の復権に加え会津藩への報復を叫んで軍勢を上京させる勢いは、もうだれにも止められなかった。
ついに「福原元僴(ふくばらもとたけ)」「益田親施(ますだちかのぶ)」「国司親相(くにしちかすけ)」の三家老が兵を率いて京都に向かうことになる。もはや「攘夷とは理屈じゃない」のだ。犠牲になっていった志士達の大願を果たすための戦いなのだ!
だからもう、天皇に煙たがれようが拒絶されようが関係ない! 我らの義を理解できぬなら武力で叩きのめして解らせてやるっ! こんなマインドな奴ら、止められるはずがない。諌めようとしたら、こっちが斬り殺されてまう。。
⚫︎ しかし、一橋慶喜が立ち塞がる
元治元年6月24日(1864年7月27日)、長州藩重臣の福原越後、国司信濃、益田右衛門らは、京都の南に位置する伏見や山崎、八幡などに数百名ずつ分屯した。総兵力は「千数百名」といわれるが、周到に準備された動員ではないため、何人が従ったのか、はっきりとは分からない。
迎える幕府側の兵数は、紙の上では長州藩の兵力の数倍に及ぶが、応援の諸藩兵などは生命を賭してまで戦うかどうか、やってみるまで分からない状況。そんな中、長州勢は「哀訴状」を朝廷に奉り、藩主父子および三條実美らの罪を赦して、入京を許可するよう嘆願する。
公卿や堂上(御殿にあがれる公家)の中には、長州に加担する者も少なからずおり「毛利慶親父子に罪過はなく、家臣らが暴挙を謀ったせいで勅勘(天皇の勘気)を蒙つたのだから、父子の入京を許すのは当然」と、公卿たち三十余名が連署して奏請したので、27日の朝議で寛大な処置が申し渡されることに決まりかけた。
ところが、ここで一橋慶喜が「長州は表向き哀訴歎願を装っているが、すでに兵を率い武器を携えているのは、朝廷を脅迫するのも同然! もし、このまま歎願を許したのでは、どうして朝廷の権威を維持できるでしょう」と、熱弁を揮い「哀訴状は受理されたのだから、いったん退却の上、改めて沙汰を待つべきではないか」と言うのである。
そのうえで朝命を奉じない=退却しないならば、追討すべきだと主張。そして、朝議が、この意見を用いないなら、臣(慶喜)は京都守護職松平容保、京都所司代松平定敬と共に、職を辞して京を去るほかはありません!と、一座を睥睨した態度は、実に堂々たるものだったそう。
反論は一言もなく、朝議は慶喜の説に決した。しかし、実のところ幕府側にはアテに出来る兵力は乏しく、確たる勝算はなかった。なぜならば、例の参与会議で薩摩ら雄藩とケンカ別れしちゃっていたからである。長州の過激派も先を見てないバカばっかりだが、慶喜もなかなかの短絡的ヒステリー野郎である。
おかげで、京都南郊に布陣した長州勢と、京都守護職の会津勢との対峙は半月あまりも続いた。その間には様々なデマが飛び交い、流言に踊らされた者(人斬り河上彦斎)が松代藩の「佐久間象山」を暗殺している。とんだトバッチリで退場の象山先生であった(笑)←笑うな(象)
御所警備の一部を担っていた薩摩藩などは、もし戦争になっても長州と会津の私闘だから戦わないスタンスであったが、慶喜のプレッシャーにより長州勢の討伐が朝議で決定。朝議が討伐を決めたとあれば、もはや私闘ではないため、薩摩藩もしぶしぶながら参戦を決めるに至る。
⚫︎ ついに衝突! 禁門の変
7月17日、男山八幡宮の本営で長州藩最後の大会議が開かれ、大幹部およそ20人ほどが集まった。久坂玄瑞は、朝廷からの退去命令に背くべきではないとして兵を引き上げる案を出したが、来島又兵衛は「進軍を躊躇するのは何たる事だ」と詰め寄った。玄瑞は「今回の件は元々、君主の無実の罪をはらすために、嘆願を重ねてみようということであったはずで、我が方から手を出して戦闘を開始するのは我々の本来の志ではない。今、軍を進めたところで援軍もなく、進撃準備も十分ではない。必勝の見込みの立つまで暫く戦機の熟するのを待つに如かずと思うが」と述べ、来島と対立した。
来島は「卑怯者」と怒鳴り、「医者坊主などに戦争のことがわかるか。もし身命を惜しんで躊躇するならば、勝手にここにとどまっているがよい。余は我が一手をもって、悪人を退治する」と座を去ったとされている。最年長で参謀格の真木和泉が「来島君に同意を表す」と述べたことにより、進撃と決定した。玄瑞はその後一言も発することなくその場を立ち去り、天王山の陣に戻った。
諸藩は増援の兵を京都に送り込んでおり、その数2万とも3万ともされる。対して長州藩は2,000に満たない数の兵力で戦いを挑むこととなった。そして19日の夜明け頃、御所の西辺である京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突。ここに戦闘が勃発した。
一時、福原隊と国司信濃・来島隊は、筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に侵入するも、乾門を守っていた西郷隆盛の率いる薩摩藩兵が援軍に駆けつけると、形勢が逆転。薩摩兵の狙撃により胸を撃ちぬかれた木島又兵衛は、助からないと悟って介錯を命じ、自ら槍で喉を突いた後、首を刎ねられて壮絶に自決。大将を失った長州軍は総崩れとなった。
(木島又兵衛 退場)
真木・久坂隊は開戦に遅れ、到着時点で来島の戦死および戦線の壊滅の報を知ったが、それでも御所南方の堺町御門を攻めた。しかし、守る越前藩兵を破れず、久坂玄瑞、寺島忠三郎らは朝廷への嘆願を要請するため鷹司邸へ侵入し「鷹司輔煕」に朝廷への参内に付随し、嘆願をさせて欲しいと要請したが、輔煕はこれを拒絶、玄瑞を振り切り邸から脱出した。
越前藩隊の攻撃により鷹司邸は既に炎上し始めていたため、最後に残った玄瑞は、寺島忠三郎と共に、鷹司邸内で互いに刺し違えて、自害した。享年25。
(久坂玄瑞 退場)
帰趨が決した後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。戦闘そのものは一日で終わったものの、この二箇所から上がった火を火元とする大火「どんどん焼け」により、京都市街は21日朝にかけて延焼し、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。
(この時、六角獄舎にまで火の手が迫ったため、収容されていた「平野国臣」や「古高俊太郎」らが急遽、処刑された)
生き残った兵らはめいめいに落ち延び、主戦派であった真木保臣は、敗残兵と共に天王山に辿り着いたが、益田らその他の勢は既に離脱しており、合流に失敗。真木らは兵を逃がし、宮部春蔵ら17名で天王山に立て籠もった。20日に大和郡山藩の降伏勧告を無視し、21日に会津藩と新撰組に攻め立てられると、皆で小屋に立て籠もり、火薬に火を放って自爆死した。
(真木和泉 退場)
こうして禁門の変は長州藩の大敗に終わり、尊王攘夷派はその勢力を一気に削がれることになった。しかし、そんなことより町を焼かれたことの方が庶民にとっては大問題で。「どんどん焼け」と呼ばれるこの大火災は鎮火まで3日もの時間を要し、京の市中にあった全世帯の半数ともされる28,000もの世帯が焼失、負傷者を含む犠牲者は1,000人を超えるほどの大惨事となった。
いやマジでこれ以上に迷惑な話って他にある?ってくらい迷惑だったでしょうね京都の人には。もう幕府も長州も薩摩も会津も全員嫌い!ってなりますわね。
あーだから京都の人は京都以外の人を、、
いえ、何でもないです。終わります。
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