これまで、たくさんの志士たちが発起しては散っていった事件を見て来た。そのどれもに各自の曲げられない信念があり、国や民を想う美学があったように思う。
だが、天狗党は何かが違う。
西日本の過激派よりもさらにブッ飛んじゃってると言うか、キマッちゃってると言うか。なんせ、始まりはあのバカ斉昭を擁立した一派で「一般の人々を軽蔑し、人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」という意味で「天狗」と呼ばれていた集団である。誕生のルーツからして既に美学がない。一体こやつらは何がしたくて、実際は何をやったのか、ちょっと気になるので調べてみた。
⚫︎ とにかく天狗党の激派はヤバい
井伊直弼サマがまだ健在でおられた頃、天皇からもらった「戊午の密勅」を返す、返さないで天狗党は、激派と鎮派に分裂。やがて激派は、脱藩して江戸にて薩摩浪士の「有村兼武・兼清兄弟」らと合流し、3月3日に江戸城桜田門外で直弼を襲撃して殺害した。バカ斉昭の病没後も激派の行動はやまず、さらに第一次東禅寺事件・坂下門外の変などを起こすなど、超アブナイ輩どもである。
ちなみに、新撰組の初代局長の「芹沢鴨」も、この天狗党の一派だったと言われている。なるほど芹沢鴨の傍若無人な振る舞いも、天狗党出身ならではのものと思えば、頷ける。やはり根本的に天狗党の奴らは何かが違う。水戸の水戸学なる変な教育が、彼らを狂わせていくのであろうか。
ともあれ、その後しばらくは、そのキングオブアブナイの座を人斬り暗殺団や、長州オールスターズに明け渡していた天狗党であったが、8/18で状況が一変。長州が睨まれたことで「じゃあ水戸だ」と尊攘派の浪士らが集まって来た。となると、ウズウズしちゃってじっとしていられないのが行動派の熱血脳筋アホ侍ども。
幕閣内の対立などから横浜鎖港が一向に実行されない事態に憤った「藤田小四郎(藤田東湖の四男)」は、幕府に即時鎖港を要求するため、非常手段をとることを決意。元治元年3月27日、筑波山に集結した62人の同志たちと共に挙兵した。「天誅組の変」「生野の変」から何も学ばず、何も足さない、何も引かない、ありのままで、レリゴーレリゴー。
発狂した国粋主義者ほど手に負えない物はない。感情が昂ぶると激昂し、悲憤慷慨。理性が通じないし、まともな会話は成立しない。イデオロギーが持つ恐ろしさである。
⚫︎ 一瞬で暴徒と化した天狗党の乱
挙兵の報を聞いた藩主「徳川慶篤」は、田丸の兄である「山国兵部」に説得を命じたが、山国も逆に諭されて一派に加わることになる。その後、各地から続々と浪士・農民らが集結し、数日後には150人、その後の最盛期には約1,400人という大集団へと膨れ上がった。
元治元年4月(池田屋の2ヶ月前)の時点で、天狗党は日光東照宮を拠点にしようとしたが、日光奉行が近隣諸藩に呼び掛け迎撃体制を万全にした事から、これを諦める。長州が御所に攻め入る前の数ヶ月間...天狗党は北関東をうろつき回るのだが、この時の評判が極めて悪い。
一味は約700人に達しており、軍資金の不足が課題となったため、攘夷を口実にして近隣の町村の役人や富農・商人らを恫喝して金品を徴発し、少しでも抵抗すれば放火して殺害した。とりわけ「田中愿蔵(げんぞう)」により組織された別働隊は、このとき資金供出を断った町で放火・略奪・殺戮を働き、天狗党が暴徒集団として明確に認識される原因を成した。
中でも惨劇が展開されたのが栃木宿であった。田中らはたまたま通りかかった町人らを殺害し、家々に押し入って町民を恫喝し金品を強奪。町に対し軍資金30,000両を要求し、町側が5,000両しか出せないと答えると田中は宿場に火を放たせ、さらに火を消そうと集まって来た町民らを殺害した。この火災により翌日までに宿場内に限っても237戸が焼失したという。
まさに、暴行、略奪、殺人のオンパレード。協力金の供出を断る村々を焼き捨て、天狗党は世論の反感を買いまくった。藤田小四郎の武将としての資質の限界が透けて見え、一軍を率いる器では無かったということである。天狗党は愚かにも、この愚行を繰り返し、関東中から害虫の様に嫌われ、味方を失い続けた。
⚫︎ そして、落ち武者の軍勢と化す
これらは、京で「禁門の変」が勃発する直前の段階で、この者達は義軍では無く【暴徒】であると認知されていた。そして禁門の変で長州が敗北するや、孝明天皇は長州を朝敵に指定。攘夷・開港問題に関しては長州征討の目処がつくまで不問に付すと朝廷が表明した為、天狗党は大義名分すら失ってしまった。
水戸城下では武田耕雲斎率いる「大発勢派」も加わり内戦に発展。内ゲバ同様の無様な戦いを演じ、水戸藩は大混乱に陥る。暴虐の限りを尽くした天狗党は地域住民に逆襲され、石もて各地を追われた。
7月25日には茨城郡鯉淵村など近隣四十数ケ村が幕府軍に呼応して挙兵。7月26日には「諸生党」が天狗党追討のため水戸周辺の村々へ足軽の動員をかけると領民が続々と参加を願い出た。どんだけ嫌われとんねん、って当たり前か。
天狗党の乱最大の激戦地となった那珂湊は、民家、社寺、その他大半を失う大打撃を被った。この結果、鉄製大砲を鋳造していた那珂湊反射炉の煙突が大破し、使用不能となった。那珂湊反射炉は「藤田東湖」の尽力で建設された経緯があり、父が造った反射炉を息子の藤田小四郎が破壊する結果となった。
当初は挙兵に反対していた武田耕雲斎の「大発勢派」も、結局は天狗党同様、暴徒であるとレッテルを貼られ、追い出されてしまう。この二派は合流し...二つともまとめて【落ち武者】扱いの様になって行く。追い詰められた彼等は一橋慶喜の救いを求めて西上を開始する。
⚫︎ ようやく反省したけど時すでに遅し
これが天狗党の進軍ルートだ。想像を絶する苦難の行程が良く分かる。北関東を追われた彼等は、この強烈な山岳地帯を抜け、列島を縦断する。戦いながら、そしてまた逃れながらだ。その流浪の旅は11月1日に始まり、12月23日の敦賀で終わる。その間、上野国下仁田で一度、信濃では下諏訪に近い和田峠で一度激しい戦闘に及んでいる。
武田耕雲斎らは、天狗党が度重なる兇行によって深く民衆の恨みを買い、そのため反撃に遭って大損害を被ったことを踏まえ、好意的に迎え入れる町に対しては放火・略奪・殺戮を禁じるなどの軍規を定めた。道中この軍規がほぼ守られたため通過地の領民は安堵し、好意的に迎え入れる町も少なくなかった。
二度の戦いを経て、彼等は東山道を進み美濃に到達したが、そこには既に彦根、大垣、桑名、尾張、犬山藩の藩兵が待ち構えていた。街道を閉鎖し、畿内への侵入を阻もうとしたため、天狗党は中山道を諦め、北方に迂回してから京を目指す事にした
だが...彼等の頼みの綱であった一橋慶喜が朝廷に願い出て、加賀、会津、桑名の兵と共に討伐に向かった事を知らされる。その数実に4,000。彼らの絶望感は凄まじいものであったろう。越前に入った天狗党は、最も好戦的であった鯖江藩の追撃を受け、敦賀方面に逃走する。彼等はここに至るまでずっと諸藩から害虫同様に叩かれ続けて来た。敦賀に到着した時には、落ち武者以下の風体であった。
12月11日、新保宿に入った彼らはこれ以上の抵抗は無理と判断。加賀藩の軍監に嘆願書と始末書を差し出し、投降した。慶喜への取次を願い出たが、幕府はこれを認めなかった。天狗党の人々は、自分たちと「同じ」水戸藩出身の慶喜を身内だと信じて疑わなかったが、慶喜は、自分にとって都合の悪いことを行う人間には、血も涙もない男だった。
天狗党員全員を「鰊倉(にしんぐら)」の中に放り込んで監禁し、一般の兵卒には手枷足枷をはめ、衣服は下帯一本のみ。家畜同様に扱われ、魚と糞尿にまみれながら、極寒の季節に大人数で押し込められる...。当然、衛生環境は劣悪である。瞬く間に20人以上が病死した。
この時、捕らえられた天狗党員828名のうち352名が斬首により処刑された。芋か野菜のように首をバサバサと斬り落とされ、天狗党の時代は終結した。天狗党の処刑の際には、彦根藩士が志願して首斬り役を務め、桜田門外の変で殺された主君・直弼の無念を晴らしたという。
首級は塩漬けにされた後、水戸へ送られ、3月25日(新暦4月20日)から3日間、水戸城下を引き回された。更に那珂湊にて晒され、野捨とされた。
(藤田小四郎、武田耕雲斎ら天狗党 退場)
天狗党降伏の情報が水戸に伝わると、水戸藩では「諸生党」が中心となって女児・幼児を含む天狗党の家族らをことごとく処刑した。那珂湊反射炉の関係者は、直接戦闘に参加したわけではないが、尊王攘夷派であるという理由で、自刃や獄死に追い込まれる者が多かった。
なーして、こんな悲惨な顛末にならなきゃいけないのか、こんなことになる必要が本当にあったのか、どこでどう間違ったらここまで酷いことになるか、説明してほしい。ノリでテンション上がってレリゴーした結果がこれ、ってんなら罪深過ぎる。
まったくもって「攘夷」とは「死を招く呪いの言葉」である。
⚫︎ 一橋慶喜の人間性に疑問が生まれる
そして、慶喜。お前もたいがいだぞ。彼を頼ろうと列島を彷徨い続けて来た人々を、彼は遂に助けなかった。救おうと思えば、彼の立場なら...本気になれば救えた筈だ。だが、そこまでの努力をしていない。上司にしたくないタイプ NO.1である。
この事実を、冷静に見極めていた者達がいた。西郷隆盛である。禁門の変を共に戦い、共に名を上げた西郷と慶喜であったが、薩摩は禁裏で見せつけられた一橋慶喜の手腕に脅威を覚えた。そして、この禁裏御守衛総督の実像をリサーチし始める。特に注視したのは、この天狗騒乱に対する慶喜の仕置だ。彼は天狗党の顛末を見届けさせる為に、トップエージェントを派遣する。
「中村半次郎(後の桐野利秋)」である。人斬り半次郎と言った方が分かりやすいだろうか。伝説的人斬りとして有名な中村だが、薩摩の対外工作員としても凄腕で知られていた。対長州工作においては、長州領内に中村の親派が大勢居た事から重宝がられたが、この期間彼は天狗党に関する報告を各地から西郷のもとへ送り届けている。おそらく、その処刑の凄まじさに、薩摩は一橋慶喜に嫌悪を覚え、見切りを付けたのだろう。
(こん男に舵取りを任せてはならん。こげん情の無か男に、日本の未来を委ねるこっは危険じゃ。殲滅すべし。)
慶喜と言う男の冷酷さ、怜悧さ、ずる賢さを看破し、敵として殲滅するストーリーを描き始めた。幕府のタカ派が調子良く吹聴する独裁体制など言語道断。だが、慶喜をその連中に担ぎ上げさせた上で、この非情なる人物ごと徳川幕府を叩き潰せないか...。慶喜にはフラッグシップ...ダシになって貰い、その上で全部を攻め滅ぼす...。
(長州を使って、こん馬鹿どもを追い詰められんとか...。)
平たく言えば、そう判断した。ここに薩長同盟に至る倒幕の種が撒かれるのである。
てなワケで、少なくとも西郷隆盛が一橋慶喜と徳川幕府を見限って、討幕へと進むためのきっかけとしては、ある程度役に立ったかもしれない天狗党の乱でした。
つか、せめてそんくらいは役に立ったと無理矢理にでも思わなければ、浮かばれな過ぎるでしょ被害者たちが。。
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