「池田屋事件」でブチ切れて、「禁門の変」を起こしてみれば、ボロ負けした挙句に天皇から「朝敵」に認定されてもうた長州藩。主力だった有能な志士たちを失って意気消沈のところへ、列強国からの更なる追い討ちが迫る。まさに泣きっ面に蜂、どころか、泣きっ面にガチ(の四国艦隊下関砲撃事件)である。
一体ぜんたい何でそんなことになっちゃって、何がどーしてどんな結果になったのか。そして、踏んだり蹴ったりで白目の長州は息してるのか、調べてみようじゃないか。
⚫︎ 英国公使オールコックさんは怒っている
せ〜っかく「遣欧使節団」のお膳立てしてやったのによぉ、その間にオレがデザインして完成間近だった英国公使館は焼かれるわ、公使代理のニールは薩英戦争を勝手に仕掛けて負けたも同然になるわ、オレがいない間にオマイら何やっちゃってくれてんのよマジで。
そんで、8/18の政変だか何だか知らないけどさぁ、よ〜やくあのクソ邪魔くさいDQN攘夷派をBAKUFUが退けたのかと思いきや、一橋ヨシノブは天皇の横浜鎖港のわがままを説得できなくて結局、話がちっとも進まね〜じゃんよ。
しかも、長州藩が下関から無差別に砲撃してくるから、あの海峡通れなくなってるって? あそこ通れないと長崎に行けないし、前より貿易しにくい状況になってるやん。いやいやいや、ありえないっしょ日本。こんだけグタグタ鬼連チャンされて、まだ紳士らしく大人の対応しろって言われても普通に無理っしょ。
ってことで、もうキレまーす。長州を血祭りにあげて「攘夷」とかいう夢見てる頭お花畑なサムライどもの目、覚ましてあげちゃうね〜。うん、これも教育だもん。勝手に他人の商船とか攻撃しちゃダメヨってこと、教えてあげないとね。躾だよSHI.TSU.KE♡
お〜い、アメリカ、フランス、オランダー。一緒にシツケやろーぜ。フランスは軽く報復したらしいけどさ、甘いよ、あの程度じゃ。やるなら下関を乗っ取るくらいやんなきゃ。んじゃ4国で組んでパーッと格の違い見せてやったろ〜や!
と、日本人に攘夷の不可能を思い知らすため「文明国」の武力を示す必要を感じたオールコックは、長州藩への懲罰攻撃を決意した。オールコックのこの方針にフランス、オランダ、アメリカも同意し、4月に四国連合による武力行使が決定された。
オールコックは本国に下関を攻撃する旨の書簡を送る。だが、本国外務省は依然として日本との全面戦争につながりかねない武力行使には否定的で、これを否認する旨の訓示を日本へ送る。しかし、当時イギリスと日本との連絡には二カ月から半年かかるため、訓示が到着したのは攻撃実行後となり、結局、現地公使の裁量で戦争が進められることになったのだ。
⚫︎ 伊藤&井上コンビが慌てて帰国する
「長州ファイブ」のメンバーとして英国に密留学していた「伊藤俊輔(博文)」と「井上聞多(馨)」は、仕事をする時も、女を抱きに遊里に行く時も、遊びで金を遣い果たし藩邸に無心に行く時も、喧嘩を吹っかけられて殴り合う時も、いつも一緒の名コンビであった。
文久二年(1863年)高杉晋作を隊長に、そして久坂玄瑞を副将として実施された「英国公使館焼き討ち事件」において、二人は火付け役として竣工直後のイギリス公使館を全焼させた。残っていれば、我が国最初の西洋建築であっただけに、何とも罪深い。それだけ彼等も攘夷に狂っていたと言うことだ。
しかし、長州ファイブとして英国へ密留学してから、その考えは大きく変わることとなった。伊藤と井上の留学期間は僅か半年ほどだったのだが、他の三人を残し日本へ大慌てで帰国したのは理由がある。攘夷戦争に踏み切った長州に対し、列強四カ国が報復に出ることを察知したからだ。
ロンドンにて米英仏蘭の四国連合による下関攻撃が近いことを知らされ、戦争を止めさせるべく急ぎ帰国の途についた。イギリスの国力と機械技術が日本より遙かに優れていることを現地で知った二人は、戦争をしても絶対に勝てっこないことを身に染みて実感していた。
伊藤と井上は、三カ月かかって元治元年6月10日に横浜に到着。決死の覚悟で母国に戻ったらば、祖国長州は京に大軍を送り込み、禁門の変にまっしぐら。さらには列強がいよいよ下関を攻撃するのだと言う。まさにギリギリのタイミングで伊藤と井上は帰国したのだ。
そこからは必死だった。オールコックに面会して藩主を説得することを約束した。オールコックもこれを承知し、二人を軍艦に乗せて、外交官「アーネスト・サトウ」を伴わせて豊後国姫島まで送り、長州へ帰させた。
ロンドンのリアルを体験した彼等は、攘夷がいかに無謀であるかを痛感していた。だから、禁門の変に駆け付けようとはせず、京都を通り越して長州に急ぎ帰国したのだ。そして、攘夷で凝り固まった藩上層部を説きに説いた。これがどれほど危険な行為であったか、想像もできない。
二人は、藩庁に入り藩主毛利敬親と藩首脳部に止戦を説いたが、長州藩では依然として強硬論が中心であり、徒労に終わった。狂信的な排外主義者に何を言っても通じる訳が無い。【尊王攘夷】は長州の藩是である。誰もまともに話を聞こうとしなかった。
一縷の望みは、高杉晋作であった。高杉は上海への渡航経験がある。数少ない開国思想の持ち主だ。だが高杉は今、脱藩の罪で自宅牢の状態にあったため、彼を動かすことはできなかった。(この話の続きはまた後日)
⚫︎ そしてボッコボコにされる下関
元治元年7月27日-28日、キューパー中将(イギリス)を総司令官とする四国連合艦隊は横浜を出港した。艦隊は17隻で、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ仮装軍艦1隻からなり、総員約5000の兵力であった。
戦闘開始の前日である元治元年8月4日、長州藩庁はようやく海峡通航を保障する止戦方針を決め、伊藤を漁船に乗せて交渉のため艦隊に向かわせるが、艦隊は既に戦闘態勢に入っており、もはや手遅れであった。
下関を守る長州藩の兵力は奇兵隊(高杉は前年に解任されており総管は赤禰武人)など2000人弱・砲100門強であり、禁門の変のために主力部隊を京都へ派遣していたこともあって弱体であった。大砲の数が足りず、木製のダミーの砲まで用意していた有様である。
8月5日午後、四国連合艦隊は長府城山から前田・壇ノ浦にかけての長州砲台群に猛砲撃を開始した。長州藩兵も応戦し、前田砲台・州岬砲台・壇ノ浦砲台などが善戦するが、火力の差が圧倒的であり、砲台は次々に粉砕、沈黙させられた。艦隊は砲撃支援の下で前田浜に陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊した。
8月6日、壇ノ浦砲台を守備していた奇兵隊軍監「山縣狂介」は至近に投錨していた敵艦に砲撃して一時混乱に陥れる。だが、艦隊はすぐに態勢を立て直し、砲撃をしかけ陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊するとともに、一部は下関市街を目指して内陸部へ進軍して長州藩兵と交戦した。
8月7日、艦隊は彦島の砲台群を集中攻撃し、陸戦隊を上陸させ大砲を鹵獲した。8日までに下関の長州藩の砲台はことごとく破壊された。連合軍が一連の戦闘で鹵獲した各種大砲は62門に及んだ。陸戦でも長州藩兵は旧式銃や槍弓矢しか持たず、新式のライフル銃を持つ連合軍を相手に敗退した。
長州藩死者18人・負傷者29人、連合軍は死者12人・負傷者50人だった。なお、イギリス軍にはカメラマンの「フェリーチェ・ベアト」が従軍し、戦闘の様子を撮影している。
あはは〜負けた負けた〜。盛大に負けましたな〜。7月に禁門の変で大敗した直後の8月に下関でもフルボッコ。これから幕府による長州征伐も始まるみたいだし、これで長州藩もさすがに凝りて大人しくなるかな〜。
と、思いきや。この状況から巻き返してくるトンデモナイ奴が約1名おりましてな。そう、いよいよ「魔王 高杉晋作」の出番であります。乞うご期待!
参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/下関戦争
https://ameblo.jp/boochan-777/entry-12699929100.html
https://bushoojapan.com/comic/nihonshimanga/2021/11/11/163576
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