vol.112「元治の内乱」について


、、あ〜疲れた。死ぬほど疲れた。この「元治の内乱」調べても調べても複雑すぎてなかなか理解できず大変だった。。


細かく理解しようとすると、急に聞き覚えのない登場人物が増えるわ、長州藩の中の派閥が多すぎるわで、心が折れた。と言うかバッキバキに複雑骨折させられて、このブログごと投げ出しそうになった。


んな大袈裟な、と思う方は是非wikiで「長州征討」と「功山寺挙兵」のページを読んでみていただきたい。とんでもなく長い記述で、読めば読むほど訳が分からなくなるという実に苦しい時間を味わえること請け合いである。


これを分かりやすくまとめるのは、なるほど無理があるようだ。WEB記事を漁ってみても、誰もがこの慶應元年の流れはサクッとすっ飛ばしている。つまりは、細かく知る必要があまりないということなのだろう。


ならば私もそれに習おうかと思ったが、頑張ってある程度は理解したので、マジでよく分からん部分は割愛し、ポイントだけ押さえた風な感じでまとめさせていただく。と、こんな感じになった。↓





⚫︎ 高杉晋作が下関を乗っ取る


元治元年12月15日、雪降る夜中に功山寺にて挙兵した高杉晋作らは、翌16日に、馬関新地へ到着し会所を襲撃。目的は隊員たちの食料と金銭確保であり、人を殺すのは悪いと考えて空砲を撃った。馬関総奉行らも、すぐに降伏し会所は遊撃隊が占拠する。


流血は避けられたものの、会所襲撃を察知した長府藩が事前に密告をした後であり、会所側は既に金穀を移動させていた。軍資金がない高杉らに同情した馬関総奉行は、幾ばくかの金銭を与えたが80人以上の人員の経費を賄うことは到底できない。そのため伊藤俊輔が、高杉と親しい馬関の豪商らの元へ走り回り、二千両の大金を借りだした。


他にも、馬関周辺の住民は決起した高杉らに好意的で、120人ほどの志願兵が馬関会所に来たという。そしてその後も志願兵は増える一方であったという。


会所を掌握した後、高杉は18名(20名説もあり)からなる決死隊を組織し、三田尻の海軍局に向かい「丙辰丸」など軍艦3隻を奪取しようとした。決死隊は3班各6人に別れ、3隻の軍監に乗り付けた。高杉は決起を告げ、俗論派政府打倒のため立ち上がることを迫った。この後の経緯は不明な部分があるが、12月26日前後には説得が功を奏し、長州海軍の3隻はすべて正義派の隷下となった


このように高杉は功山寺で決起し、馬関の会所ならびに海軍局を襲撃したが、どちらもほぼ無抵抗で占領を許し死亡者を出さなかった。たった100名程度で幕府軍15万人とケンカする気な奴らを邪魔するほど野暮じゃねーよってことだろうか。




⚫︎ 「長谷川敬」ってアンタ誰さね


ここでいきなり「長谷川敬」なる謎の人物が登場する。なんでも尾張名古屋藩士で「巡見使」つう幕府側から派遣された、降伏条件履行の確認役らしいのだが、ググっても別人がヒットするばかりで、よう分からん。ともあれこの長谷川が「高杉晋作けしからん!」と。「あのガキ大人しくさせないと降伏条件不履行にすっぞ!」と怒ったそうで。


この強行な発言が総督の意向を含んだものかは不明であるが、萩藩政府は巡見使の発言を総督府の意向と重く受け止め、それまでの説得による諸隊鎮撫を改め、武力行使による諸隊征討方針に転換する事となる。まあでも、ワガママやってんのは高杉だし、長谷川も別に間違っちゃいないし、そりゃそうなるわな。


12月18日、 萩藩政府は正義派の重鎮7人を捕らえ、野山獄に送った。この捕囚劇は、巡見使長谷川の意を汲んだものと言われ、萩藩政府は長谷川の助言に従い7人を殺害する意図であった。俗論派の強硬姿勢に驚いた面々は「殺すのはさすがにやりすぎですって!」と、長谷川や萩藩政府に7人の助命を嘆願したが、聞き入られなかった。


後に小倉にて急使から事情を聞いた西郷どんは、即座に岩国に向かったが、12月19日、萩藩政府は、正義派高官7名を切腹もしくは斬首した。そのメンバーを「甲子殉難十一烈士(きのえねじゅんなんじゅういちれっし)」と呼ぶらしい。いつの間にか4名増えてるが。


この無慈悲な処刑によって、空気が変わる。高杉率いる「遊撃隊」以外の諸隊は、それまで降伏恭順路線を行こうとしていたが、正義派の処刑を聞いて激高し、恭順行動をストップする。領民らは俗論派から諸隊への支援を禁止する布告を出されていたが、領民は概ね正義派を支持しており、諸隊の宿泊する家屋や人夫、食料などの提供を積極的に行った。


7人の助命を嘆願している最中に、処刑の速報を知った西郷どんは愕然とした。7人の処置は長谷川の発案に違いない。西郷は「武力衝突が生じんよう調整してきたこつがすべて無駄になった」と言い、長谷川を巡見使にした総督府の失敗であると嘆いたという。




⚫︎ クリスマス以降ついに潮目が変わる


12月25日、藩政府は決起した高杉らの追討を決め「毛利宣次郎」を諸隊鎮静総奉行に任命。同日「清水親知」が切腹に処された。清水親知は最後に残った正義派家老格であり、彼の死により正義派高官はいなくなった


12月28日、高杉と共に決起した「御楯隊」が長府を引き払い、伊佐の諸隊の下へ向かった。先に哀願書を出した事から推定すると、御楯隊も反抗を諦めて藩政府に恭順したようである。これにより馬関の高杉ら「遊撃隊」はまったくの孤軍となる


同日、遊撃隊鎮静軍が諸隊へ出発。諸隊に武器を返納し解散するよう命じた。「山縣有朋」によると、この時、諸隊幹部は再度衆議を行い、馬関の高杉晋作に同調して決起することを決めたという。ただし、山縣は即座の戦闘開始に反対し、藩政府へ諸隊を武装解除すると偽り、武装解除する見返りとして諸隊が度々提出していた「武備恭順」の建白書を承認するよう藩政府に要求することを決めた。


もちろん実際は武装解除せず、建白書が受け入れられなかった場合は、藩政府軍と戦端を開く決意をしていたという。


諸隊が俗論派の藩政府に恭順して伊佐に移った17日以降、ニ卿の萩行拒否、鎮静のための大軍派遣、7人の正義派高官の処刑、最後の正義派家老の切腹、また時期不明なれども萩に在していた「南園隊」が逃亡して伊佐の諸隊と合流するなど、正義派にとってボルテージの上がる出来事が頻発したのは間違いなく、複数の資料にある通り諸隊解散の命令の出た12月28日に、高杉とともに立ち上がることを決心したのは事実と思われる。


そうと知ってか知らずか、12月29日に征長軍総督府は正式に解兵令を伝えた。戸川ら総督府内の幕臣が広島を離れ江戸へ帰国する。同日、長府藩「三好新造(だれ?)」は藩政府に対し、御楯隊が功山寺を離れ、諸隊と合流したことを報告した。また遊撃隊を追討する際は、奇兵隊が在陣している美祢街道を通るべきでない事を合わせて報告している。


いいね〜、この激突前夜の緊迫感。

みんなどのような心境で大晦日を過ごしたのだろうか。





⚫︎ 新年も明けましたし、さあ戦争だ!


元治2年1月1日

赤禰武人」が馬関にて伊藤を訪ね、両派混同論を説き、さらに高杉を罵倒する。伊藤は赤禰と別れた後、事の顛末を共に馬関にいた遊撃隊に話した。遊撃隊は大いに怒り赤禰を探そうとするが、危険を察した赤禰は即座に逃げ出し、翌日には九州へ渡ったという。(逃げ足はや)

上述の様に、後に出世した功山寺挙兵参加者の多くが、赤禰武人は俗論派に与した裏切り者であると証言している。しかし赤禰武人はこれらの証言と当時の史料の間に矛盾がある人物でもある。一時的にであれ諸隊が俗論派へ恭順した事実を糊塗するため、赤禰武人のみが俗論派に与し、赤禰のみが諸隊の足を引っ張ったとし、正義派は徹頭徹尾正義であったとするために、故意に赤禰をスケープゴートとして史料の改竄が行われたとする研究者もいる。(たぶんそれが正解ぽいよね)


1月2日

高杉は『討奸檄』という文章を起草し、兵を進め伊崎の会所を襲撃し、金穀を奪った。この行動は先日の正義派高官処刑を聞いた高杉が怒った為とも、三日に予定されていた伊佐諸隊の決起の先駆けとも言われている。(どっちでもいーよ)


1月3日

建白書回答の約束の期限になっても藩からの使者は来なかった。伊佐の山縣は、藩政府内の混乱を考慮してさらに一日の猶予を諸隊幹部へ懇請し承認されたという。


1月4日

征長軍総督「徳川慶勝」が広島を離れ帰国の途につく。 江戸の幕閣は総督府の長州処分が寛大すぎるとして使者を送り、『毛利藩主父子の江戸護送、五卿の江戸護送、江戸より指示あるまで軍兵を引揚げない事』を求めたが、既に解兵令が出た後だった。(どうせ文句言ったの慶喜じゃろ)

慶勝は、毛利処分については江戸幕府より従軍した幕閣らとも相談したものであり、また今回の出征については総督である自分に全権が委任されていると言って取り合わなかった。(文句あるなら自分でやれよってな)


1月5日

諸隊は丸一日待機したが、やはり藩からの使者は来なかった。ここに至り、山縣も戦争を決意した。まず諸隊は、『戦書』を起草し、絵堂に屯している藩政府軍(前軍)の司令官である「粟屋(だれ?)」へ送付することにした。内容は、俗論派が多数の正義派を惨殺・投獄した事を批判し、藩政府を煽動したとして「椋梨藤太(むくなし とうた)」「岡本吉之進」「中川宇右衛門」ら俗論派の主要メンバーと戦争するというものであり、粟屋ら政府軍に恨みはないので、藩政府軍の参謀であり俗論派の代表格でもある岡本吉之進を引き渡して撤退し、今後は長州挽回のために力を貸して欲しいという内容である。

諸隊のうち、奇兵隊の一部、南園隊、八幡隊の200人が秘密裏に藩政府前軍の屯する絵堂へ行進した。絵堂の藩政府軍の軍勢は1,000人と伝えられる。


1月6日夜

諸隊は絵堂に到着。合図の大砲を撃ち、ついに開戦した(「絵堂の戦い」)。諸隊は翌日未明までに藩政府前軍を破り、絵堂を占領。奇兵隊の一部は絵堂の外周を守備し、本隊からの援軍に備えていた。そこに藩政府軍の将「財満新三郎(知らん)」が数十人を率いて来た。財満は「諸隊が君公の命を奉ぜず、かかる乱暴に及ぶは何事ぞや!」と叫ぶと、奇兵隊が守備していた陣に突撃した。奇兵隊は財満を射殺し、残る敵部隊も潰走させた。

この際、財満の懐を改めた所、俗論派藩政府が藩主父子の許諾を得ずに正義派高官を処刑したという書状が出て来たという。長州藩の法律として、藩士の処刑にはかならず藩主の許しが必要であり、この文書は俗論派専横の証拠とされた。


1月7日

山縣ら諸隊幹部は前日入手した財満の書状を諸隊に広く知らしめた。諸隊隊士は俗論派の横暴を知り激高し、大いに士気が上がったという。これ以降、伊佐の諸隊は一致しての行動を取るようになる。

同日、諸隊は絵堂を占領したものの防御に向かない地形であり、数でも劣勢のため放棄して南進し、大田川流域の大田で陣を構える。


1月10日

午前十時頃より大田に布陣する諸隊400人に対し、藩政府軍が攻勢をかける(「大田の戦い」)。奇兵隊は敵の急襲を支えきれず一時退却したが、総大将の山縣らは、自ら狙撃隊をつれてV路上の真ん中にある竹薮の中を進み、左翼より敵を狙撃させた。奇兵隊は大田街道右側の小山を駆け下りて敵の側面より攻撃し撃退した。午後四時頃、藩政府軍は総崩れとなり退却した。


1月14日

再び大規模な戦闘となるも、諸隊は藩政府軍の撃退に成功する。同日、高杉らが合流し諸隊の士気は大いに上がった。山縣は兵力が寡少である為これ以上の追撃に反対したが、高杉は決戦を主張した。最終的に高杉の案が受け入れられ、赤村にある粟屋率いる前軍本営を夜襲する事に決まる。


1月16日

高杉等は遊撃隊を率いて街道沿いに進み、山縣は奇兵隊・御楯隊を率いて絵堂方面より進んだ。そして粟屋の前軍が布陣する赤村を挟撃しこれを大いに破り、秋吉台周辺より敵を撃退した(「赤村の戦い」)。

大田・絵堂、赤村の戦いは元治の内乱における最大の激戦であり、戦死者は両軍合わせて40〜60名程度となる。 鎮静軍の敗北を知った俗論派の萩政府は、長州支藩ならびに岩国領の「吉川経幹」へ援軍を要請する。


まさに快進撃!

こいつぁ新年からめでてぇや!




⚫︎ 高杉フィーバーでついに逆転


馬関・山口の住民は、藩に反抗した諸隊を積極的に支援した。諸隊には多くの人士が入隊を希望して殺到し、それとは別に千人以上の人夫が諸隊の為に物資の運搬などを無償で行い、地主や豪商は兵糧や多額の金銭を積極的に寄附した。

勝利と住民の支援で勢力を増し自信を深めた諸隊は、明木の藩政府軍を放置して、諸隊と諸隊幹部の大半を山口へ向かわせる。 諸隊は山口へ入ると諸隊会議所を開き、高杉晋作を統理に推挽して軍政を敷いた。

三田尻・小郡その他の各地の代官はことごとく俗論派に与した者であったが、彼らもすぐに恭順し、萩を除く防長すべてを正義派である諸隊が掌握するようになる。


1月30日

奇兵隊は篠目口より榎木谷へ、遊撃隊は福江口より西市へ進撃を開始した。また諸隊に属していた癸亥丸を萩城城外の海上に進出させ示威行動を行わせる。この事態に敬親父子は主だった俗論派の重臣を革職した。さらに諸隊に使者を送り、俗論派を革職したことと藩政改革を行う用意があることを伝えた。これにより諸隊は進撃を止めた。


2月5日

藩政府は萩城内の戒厳を解いた。この時、俗論派の実戦部隊である撰鋒隊に不穏な動きがあった為、敬親はこれを召し出し解散させた。

同日、江戸幕閣は慶勝に、尾張藩兵を用いて毛利藩主父子を江戸へ護送すること、また総督として九州五藩に五卿もまた江戸へ護送することを命じるよう指示した(慶喜しつこい)。 慶勝は、そんなことをすれば天下の大乱になると反駁し、一兵たりとも出兵させず幕府の意向を無視して尾張藩へ帰った。


2月9日

長州支藩藩主が萩城に登り、藩主敬親、重臣と一堂に会して会議を行った。長州支藩藩主「毛利元周」は諸隊追討を速やかに取り消し、諸隊の建白書を受け入れ、国内の統一を図るべきことを提案した。敬親父子はこれを了承した。

高杉の熱意が、藩の考え方をひっくり返した瞬間であった。




⚫︎ 血のバレンタインデー


2月10日

東光寺派の「香川半助」「桜井三木三」「冷泉五郎」「江木清次郎」らが山口に至り、高杉に萩の情勢を伝え、将来の計画を協議した。この時、高杉は香川ら東光寺派に諸隊と同一行動を取ることを求め、香川らはこれを了承した。

その夜、萩への帰路の明木付近で香川らは俗論派に襲われた。江木は重傷を負いながらも助かるが、残る香川らは全員が殺害された。俗論派は香川らの殺害を正義派によるものと喧伝した。これを知った高杉ら諸隊幹部は、俗論派に罪を擦り付けられるのを嫌い、萩を攻略して俗論派を完全に打倒することを決した


2月14日

奇兵隊・八幡隊は松本より東光寺へ、南園隊・御楯隊は峠坂より大谷へ、遊撃隊は深川より玉江へ進軍し、萩城周辺を制圧した。諸隊が明木に侵入したとの報せに接すると俗論派の幹部らは逃亡した。癸亥丸が海上から空砲を撃ち示威活動をする中、諸隊は萩城へ入城する。城内と萩市内は非常に混乱していたので、敬親が癸亥丸へ使者を遣わし発砲を止めさせた。高杉らは野山獄に囚われた正義派を釈放した。

逃亡した俗論派の首魁である椋梨藤太、中川宇右衛門らは石州で捉えられた。


3月17日

敬親は諸隊の総督と長州三支藩の家老を召し、武備恭順の対幕方針を確定した。ここから長州藩は、第二次長州征討へ備えることとなる。

慶応元年閏5月28日、野山獄にて椋梨藤太は息子とともに斬首され、二日後に中川右衛門らが切腹した。東光寺派を襲撃した俗論派も順次捕縛・処刑され俗論派は完全に潰えた。一連の元治の内乱は、内戦に至ったとはいえ幕府との戦争は回避しており、同時期の天狗党の乱と比較しても被害は少なかった。




⚫︎ エピローグ


負けたとは言え、俗論派も自らの正義に基づいて戦った。確かに正義派への粛正はかなりの数に上り、重要な人物の命を奪ったが、それも藩のためという使命に基づいたもので、必ずしも全てを責められるものではなかった。

俗論派の首謀者とみられた椋梨藤太は、元治2年の5月に処刑されるが、その取り調べの際に「私一人の罪なので、私一人を罰するように」と懇願したという。正義派も俗論派も、どちらも国士(こくし)として戦ったのが「元治の内乱」であった。


裏切り者のレッテルを貼られ逃走していた赤禰武人は、生誕地である柱島に潜伏していたところを捕縛される。赤禰は弁明を望むが、取調べは一切行われず、翌年1月、山口の鰐石で処刑された。享年29。

赤禰武人は、高杉晋作・伊藤俊輔・久坂玄瑞・井上聞多らと共に英国公使館焼き討ちに加わり、文久3年5月の下関戦争にも参加、同年10月には奇兵隊の第三代総管に就任した盟友であった。


内戦回避に尽力し、長州を救った脱藩浪士や福岡藩士、薩摩藩の西郷隆盛のその後の運命は過酷である。脱藩浪士の中岡慎太郎、淵上郁太郎らは暗殺された。 加藤司書、月形洗蔵、喜多岡勇平、筑紫衛、建部武彦ら福岡藩士らは、乙丑の獄で全員刑死した。西郷隆盛も、返しきれぬほどの恩を与えた山縣有朋に追い詰められ、西南戦争時に自決した


伊藤博文公は初代総理大臣として要職を歴任した晩年に、この頃を回顧して「この私の人生で唯一誇れることがあるのなら、このときすぐさま高杉さんのもとへ駆け付けたことだろう」という言葉を残している。あれだけの功績のある伊藤博文公が「唯一誇れることがあるのなら」と謙遜しているが、後年でも挙げたことがこの「功山寺決起」だったというのは、非常に興味深い。


「功山寺決起」というと歴史上あまりに簡単に書かれるが、詳細にみればこれほどの無謀なものはなかったし、これがその後の日本に与えた影響は計り知れなかった。これを細かく見て、それに関わった人達を知ると、現在においても学ぶことは多い。


これほどの大転換を一人から始めた例は、日本史だけでなく世界史からみても無いと思う。確かに時期は短く、戦闘も大きくなかったのであまり取り上げられないが、実は日本を大きく転換させた大事件であり、結果的に世界史に与えた影響も甚大であった。


もちろん、高杉晋作一人での偉業ではない。しかし、現代人としても、その事件がどういうものだったかを知った上で、そのきっかけを作った人がどのような思いで、どのような覚悟で行動したか、を見ることで、学ぶことは多いと思う。




以上、すべてWEBからの切り貼りであるが、それでも数週間かかったゆえ、もはや独自のコメントを書く気力すら残っていないので、これにて失礼いたす。。

ついでに体調も崩した。


一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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