高杉晋作の奮闘によって、何とか「下関事件」については列強国らと仲直りした長州藩でありましたが、朝廷に弓を引いて朝敵認定を受けてもうた「禁門の変」の始末は、また別口でして。こっちは幕府がすんなり許してくれるはずもなく。なんかもう「征伐」されちゃう流れになっとりましてな。尾張藩・越前藩および西国諸藩の合計35藩、総勢15万人もの「征長軍」が編成され、向かって来るってんだから、長州まだまだ大ピンチでっせ。
⚫︎ 西郷どんが戦争回避に動き出す
西郷どんは「勝海舟」「坂本龍馬」と会い、勝の意見を参考にして、長州に対して強硬策をとるのを止め、緩和策で臨むことにした。
総督の徳川慶勝(よしかつ)へ、長州藩降伏のプロセスについて腹案を述べると、慶勝はその場で西郷どんへ脇差一刀を与えて信認の証とし、西郷どんは征長軍全権を委任された参謀格となった。慶勝と西郷どんは総督府を幕府の統制下から離れさせ寛典論に基づく早期解兵路線へ「独走」させた。
幕府に対する恭順しか、長州藩が生き残るすべはないと考える俗論派は、幕府による長州征伐の軍勢が迫る中、正義派のボス「周布政之助」を失脚させると、西郷どんからの降伏条件をすべて受け入れ、禁門の変で指揮を執った三家老を切腹、四参謀を斬首させ、幕府に謝罪。
次いで急進派の面々を捕えると野山獄に入れ、後に粛清する。さらに奇兵隊や諸隊(奇兵隊同様、正規軍ではない諸部隊)には解散命令を下し、要は幕府に対して「まったく抵抗する気はありません。過激分子はすでに藩で処罰しました、どうか寛大な御処分を〜」という体裁をとったわけである。
五卿についても、長州藩内の紛争が解決次第、五卿を筑前へ移転すると宣言。これらの動きを受けて、降伏条件の道筋がついたために征長軍は解兵へ歩みを進めた。西郷どんがムダな戦争を回避して、戦わずして幕府は長州征伐を成し遂げたことになった。
ただし、これらの条件について注意すべき点は、最終的な降伏条件ではなく、あくまで数日後に迫った「戦争回避の為の条件」という事である。 この時点では総督府の誰もが、戦後落ち着いた時期に別途沙汰があり、長州藩は改易ないし減封されると考えていた。
西郷どんですら、長州毛利は東北に数万石で減封すればよいと考えていた。 ただ、最初から領土削減を戦争回避の条件として持ち出すと、短期間での妥結が不可能となるため、この時は総督府側はあえて減封に言及せず、吉川も一切触れなかったのだ。
⚫︎ ところが高杉晋作がキレて挙兵する
萩の自宅に閉居中であった高杉晋作は、身の危険を感じて既に密かに藩を脱出し、九州に亡命していた。が、急進派の人物が片っ端から捕えられ、さらに奇兵隊をはじめとする諸隊が解散を迫られていることを知ると「藩政府を倒す以外に長州を救う道はない!」と考え、命がけの挙兵を決意して、下関へと戻って来る。
高杉は、当時長府に集結していた奇兵隊をはじめとする諸隊に、決起を説いて回った。五卿退去と諸隊恭順の空気が広まる中、ひとり高杉のみが信念を変えず、俗論派と戦うことを主張した。
「今、決起して萩の俗論党を倒さなければ、長州は死ぬ。長州が死ねば、松陰先生や久坂や入江や吉田らが捧げた命は、意味を失ってしまうではないか。いや、それどころか幕府を倒し、日の本が生まれ変わる機会も永遠に失われる!」
さすが魔王高杉。魔王に覚醒して人一倍意識が高い。
ここからは意識高杉と呼んでやろう。
しかし、奇兵隊総管「赤禰武人(あかね たけと)」や軍監「山県狂介(有朋)」をはじめ、諸隊の幹部で積極的に同調する者はいなかった。彼らの意見は、諸隊すべて合わせても兵力は800程度。藩政府を相手に勝算無く、挙兵は時期尚早というものであったからだ。この席で意識高杉は、市民兵の諸隊に向かって「赤禰武人は大島の土百姓である!」と発言したと記録されている。
依然、沈黙を守る隊の面々に意識高杉は、「わかった。もはや諸君には頼まない。ただ、馬を一頭貸してくれ。僕は萩へ行く。そして大殿様と殿様をお諫め申し上げて腹を切ろう。萩に向かって一里行けば一里の忠を尽くし、二里行けば二里の義をあらわす。今はその時ぞ」と言ったとか言わなかったとか。
それでも共に起とうという者はなく、面々は席を立ってしまい、残ったのは「伊藤俊輔(博文)」だけであった。結局、意識晋作に同調したのは伊藤率いる力士隊30人と、石川小五郎率いる遊撃隊50人弱に、佐世八十郎を加えた、およそ80人。
意識高杉は、吉田松陰より「生きている限り大きな仕事が出来ると思うなら、いつまででも生きよ。死ぬほどの価値のある場面と思ったら、いつでも死ぬべし」と教えられていた。この教えが意識高杉に周囲の反対を押し切ってまで無謀な挙兵を決行させたと言われている。松陰センセーの「諸君、狂いたまえ」効果、おそるべし。
そして、元治元年12月15日、深夜。意識晋作は率いる部隊とともに、長府の功山寺の山門をくぐる。なお、この日の天候は赤穂浪士の吉良邸討入時と同じく、下関では珍しい大雪であったとされ、ムードも満点である。
紺糸威の少具足を身に付け、桃形の兜を首に下げた格好の意識高杉は、兵を引き連れ功山寺へ赴き五卿への面会を請うた。 五卿を奉じる脱藩浪士がこれを取り次ぎ、寝所から「三條実美」が現れる。 意識高杉は三條へ挙兵を告げ、出陣の盃を欲した。 三條実美は冷酒を注いでこれを与えた。
意識高杉は、注がれた盃を飲み干し「これよりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と挨拶をして立ち上がった。 三條は意識高杉の決起を止めるつもりであったが、話を切り出すタイミングが掴めずそのまま行かせてしまったという。なぜなら意識が高杉るから。。
意識高杉が号令をかけ、80人は一路、雪の中を下関に向かって行った。これが世に言う「功山寺挙兵」および「元治の内乱」の始まりである。
ほー、そうゆう流れだったのか。西郷どんがせっかく戦争回避してくれたのに、意識高杉が挙兵して俗論派をひっくり返して討幕路線に持ってっちゃうってわけね。むしろ逆に、意識高杉という熱血野郎がいなければ、長州に明るい未来はなかったわけで。となると、第二次長州征伐も起きなかったし、薩長同盟も生まれなかったろうし。。
そうゆう運命が待ってたはずのところ、意識高杉ただひとりがその未来を己の力で変えたっつーことになるのですね。なるほど、それは英雄視されるのも納得。まー勝って結果出せたからだろーけども。
負けてりゃただの聞かん坊じゃん。
0コメント