⚫︎ Marlboro TigerのReload the 明治維新
【魚すき】について
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前回に続き、今回もMarlboro Tiger様からのオール転載御免にて、以下にコピコピペッペさせていただきまする。【軍鶏鍋】【豚鍋】【すき焼き】の獣肉鍋シリーズに続いて、今回はスピンオフ的な【魚すき】についてであります。こんな良記事を無料で読ませてくださるたぁ、なんて気前の良い粋な旦那なんでぇ! あっし、どこまでもついて行きやすぜぃっ!(迷惑)
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幕末期の大阪で誕生し、明治大正にかけて大人気となった幻の鍋料理がある。【魚すき(うおすき)】と言う鍋料理だ。太平洋戦争終結と共に【牛すき】に人気を奪われ姿を消してしまったが、これこぞが令和に生きる現代日本人にとっての【鍋の食事スタイル】の原点となった料理なので、ご紹介しておきたい。
家族や仲間同士でワイワイ談笑しながら一つの鍋を囲む。グツグツ沸騰する大鍋から具材を取り分け、みんなで仲良く語り合いながら鍋を食らう...。冬の日の風物詩と言って良いだろう。この心温まる風景は、一体いつ頃から定着した物なのだろう。今日はそれを考察する。
今まで、当ブログでご紹介して来た【幕末〜明治の鍋】は、殆どが江戸中心の鍋であった。【幕末のグルメシリーズ】をご一読頂いている方ならもうお分かりだろう。江戸で受け入れられていた【鍋】とは、全て【小鍋立て】の鍋であった。
簡単に言えば、【お一人様】仕様。江戸と言う武士の街において七輪の発達と共に...単身赴任者用簡易グルメ、そして長屋の町人向けに小腹を満たすチープグルメとして、このスタイルが浸透して行った...。当ブログでもご紹介させて頂いた【軍鶏鍋】、【豚鍋】、【牛鍋】...こいつらも、その前段たる江戸の【小鍋立て】料理をベースに、ホップ、ステップ、ジャンプで変容を遂げた進化形の一つである。
一人七輪の前で鍋を煮立てつつ、晩酌...。悦に浸る親父の笑顔が印象的な絵だ(笑)。
しかし...
しかしやね...。江戸の粋とは言うものの...お一人様鍋ってのは...
なんや、辛気臭いんとちゃうけ!?【粋】かなんか知らんけど、チマチマチマチマ...
しょぼいっちゅうんじゃ(笑)!!!
...ってのが、関西人たる私の意見(笑)。やっぱ、鍋ってのは...
こうでなければならん!!絶対的に、家族団欒の友としてあるべきなのだ!
では、どの様にして江戸の小鍋立てが駆逐されて行ったのか...その変化の過程を見てみよう...。
ルーツは幕末の大坂にある...。
元治元年(1864年)、道頓堀の戎橋南詰に【丸萬】と言う料理屋が店を開いた。
元治元年と言えば、とんでもない年で...三月に水戸の天狗党が挙兵、六月に新選組による池田屋事件、七月に長州による禁門の変、八月には列強四カ国連合艦隊による下関戦争、十二月には高杉晋作が功山寺で藩内クーデター戦に立ち上がると言う一年であった...。幕末史の中でも、最重要の一年間と言って良いだろう。
丸萬は、そんな異様な世相の中でオープンしたと言う事だ。
この丸萬で名物となっている料理こそ、【魚すき】である。道頓堀を舞台にした名作【夫婦善哉】の中でも『ちょっと張り込んで丸萬で魚すき食べよか。』という台詞が登場するほど、かつては人気のグルメであった。
上の写真が、その丸萬の魚すきだ。150年経った今も、その伝統の味は守られている。
魚すきとは、【魚のすき焼き】というと分かり易い。新鮮な魚(鯛、鰆、カンパチ、海老、烏賊、穴子)の切身を秘伝の甘辛いダシにしばらく漬け、少量のダシが入った平鍋で食べる分だけを、煮焼きする。それを取り分け、溶き卵につけて食べる。野菜は春菊、三つ葉、青ネギ。更に糸こんにゃく、焼き豆腐を投入するのが定番の組み合わせだ。魚は決して煮過ぎてはいけない。少し煮立ったダシに一枚ずつ魚を投入。火が通ったら、すぐにこれを食べる。身が固くなる前の一番美味しいタイミングを逃してはならない。山椒の風味が効いた醤油ベースのダシは一子相伝。今でもその味は守られている。
【丸萬】の名は、ミナミで不動の物となり、明治時代にはハレの日のご褒美として、同店に赴く事がステイタスとなった。家族や仲間達とワイワイ、ガヤガヤ(笑)。社交を兼ね、歓談を楽しむ鍋として人気を博した。近隣の旦那衆、そして文楽役者も足繁く丸萬に通う。見合いの場としても使われたと言うから、相当な認知度だったと言う事だ。
この魚すきの起源は江戸の牛鍋よりも古い。初代の飯井藤吉は元々武士であったのだが、幕末動乱の時期に能登(石川県)から大阪へ出て来て、商売をすることを決意した。瓢箪山稲荷神社(東大阪)の辻占で【西の賑やかな場所で商売をせよ】とお告げを受けたため、ミナミの地に店を開いたのだという。この時、盆に饅頭を乗せた人が通りかかった為、彼は店名を【丸萬】に決めたらしい...。
前述した通り、江戸の武士社会においては【ひとり一膳】というスタイルが当たり前。皆で同じ器のものを食べるという習慣がなかった。高級料亭にはそんな文化は無く、屋台や茶屋にもそんな文化は育たなかった。
座敷でざっくばらんに、みんなで鍋をつつくというスタイルは幕末の丸萬において誕生した、大坂の食文化なのだ。
では、何故関東でもこの【関西スタイル】が鍋を食べる時の主流になって行ったのか、だが...
以前【すき焼き】の項でも書かせて貰ったのだが、【関東大震災】が最大の要因だったと思う。この地震によって、関東に点在していた数多の【牛鍋屋】の名店が壊滅した。復興期に東京に進出して来たのは、関西の外食産業であった。
古来、武家文化を引き継いで来た東京の人々は、新しいニューウェーブとして西の食事スタイルを初めて知った。
(なっ...鍋を囲んで食ってやがる?なんだ、ありゃ...。)
当初は奇妙な眼で見ていた事だろう。だが、それが何とも楽しげに見える。酒やビールを飲みながら、ざっくばらんに語り合い、ゲラゲラ笑って具材を小皿に取り分ける。それは復興を遂げようとする帝都の中にあって、連帯感の象徴と受け取られたのでは無いか。
『俺ぁ、いやだぜ。腐っても、こちとら江戸っ子だ。何で他人と同じ鍋で食わなきゃならねえんだ!』
当初吐き捨てる様に言っていた連中も、一度このスタイルを知ると...
『悪かあ...ねえな...。こうやって、交わるのもよ...。』
と、思い直したかも知れない。【同じ釜の飯を食う】...その喜びを、東京人はこの時初めて知った...。
そう考えると、この大阪で生まれた【魚すき】のスタイルこそ、現代日本人の鍋スタイルの源流であると僕には思えるのだ。【関西風すき焼き】に引き継がれた団欒スタイルは、関東大震災を機に【牛鍋屋】を駆逐し、現代日本人の鍋スタイルの定番となってしまった...。それが僕の説(笑)。
元治二年...
藩内クーデター戦に勝利した高杉晋作は、大坂を訪れている。実権を掌握したかに思われた高杉であったが、下関開港を画策して藩内攘夷派に命を狙われ、愛妾おうのを引き連れて逃亡。四国に逃げ込む前に、大坂に潜伏した。その際...
『おい、おうの...。ここが評判の丸萬じゃ。』
『ふうん...。美味しいの?』
『わしも江戸で小鍋立の軍鶏鍋は食べた事があるんじゃが、ここの鍋はちいと違うんじゃげな。試しに食べてみんか。』
『う・お・す・き? 何なの、それ?』
『賑やかに、でかい鍋を囲んでグツグツ煮るんじゃ。出汁が独特でな、山椒が効いた甘辛い鍋らしい。これが相当に美味いって話じゃ。』
『食べる!』
と、バカップルを描く舞台装置に、丸萬を使うって言うのも有りだろう(笑)
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ほへー! なんて勉強になる記事なんでせう! 今回も面白かったです。
てゆーか意識高杉さん、アンタあんだけ熱い挙兵したくせに、なんか急にデレっとしてません? 嫁と子供はどしたんさ? むっちゃ意識低いですやん今ww
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