vol.120「坂本龍馬の虚像」について

坂本龍馬が「幕末に大活躍した」というイメージが世間に広まっているのは、司馬遼太郎の『竜馬が行く』から始まったらしい。それら小説やドラマの影響で「薩長同盟を締結できたのは龍馬がいたからだ」「大政奉還の立役者だった」と大半の人々が思い込んでいる、と言うのだからデマって恐ろしい。

今回は、そんな創作の世界が生んだ“伝説”が独り歩きしている龍馬の実像に迫ってみる。





⚫︎『竜』の字が違うのは架空キャラだから


上記のような彼の業績とされるものは、あれもウソだ、これもウソだといった感じで、「ほとんど真実がない」と言っても過言ではないんだとか。実際には、坂本龍馬は日本史にほとんど影響を与えなかった人物であり、司馬遼太郎も、小説の主人公と歴史上の人物を区別して考えていた。龍馬ファンに人気がある高知県の坂本龍馬記念館においても、司馬さんは歴史上の人物の「龍馬」と小説の『竜馬』を区別していた、と書かれているそうな。


すなわち、多くの日本人がイメージする「龍馬」は『小説の世界の竜馬』と言える。問題は、司馬遼太郎の作品の面白さに引っ張られてしまい、小説の内容が“史実”だと思っている人が多いことで。多くの人は小説に合わない歴史的な事実を受け入れず、跳ね返してしまう。


小説において『竜馬』が果たした価値、すなわち“司馬史観”では「薩長同盟の締結において中心的な役割を果たした」ことになっている。他にも、「大政奉還に貢献した」といった扱いもなされている。しかし、歴史学の世界でこれらは完全に否定されているらしい


例えば「薩長同盟」。龍馬は、憎み合っていた敵同士の薩摩と長州が手を組んだ薩長同盟において、実際には重要な役割は担っていない。いがみあっていた両藩の仲をとりもつために龍馬が奔走し、交渉が進まない中で「西郷さん、なんとかしてくれよ」と頼んで、西郷が「分かった」と応じるような場面が登場するのは小説の世界。しかしこれは、歴史学の視点からは完全に間違っている。そもそも西郷はあの当時、流刑地となっていた島から薩摩に戻ったばかりで、藩の決定権など、あるわけないのだから。


実際には、薩摩藩の家老「小松帯刀」が薩長同盟の締結において決定的な役割を果たしたと考えられており、小松の部下が西郷と大久保利通である。薩長同盟を実現するカギは、薩摩藩の国父「島津久光っちゃん」の賛同を取り付けること。小松帯刀は、どうやったら久光っちゃんが納得してくれるか、落としどころを考えながら、時間をかけて薩長同盟の実現へと結びつけた。


龍馬はその交渉の最後の最後で、ただ居合わせ証人となり使いっ走りをしていただけ。むしろ、最後の場面こそ同席できなかったが、それまでに公家や長州や福岡藩などの間を取り持つことに奔走した「中岡慎太郎」の功績の方が遥かに大きい。



⚫︎ どこまでホントか寺田屋遭難


「寺田屋」と言えば、文久2年(1862)に9名の薩摩藩士が命を落とすこととなった「おいごと差せよ寺田屋騒動」が記憶に新しいが、坂本龍馬が襲撃された「お龍が裸で寺田屋遭難」もなかなか有名である。どこまでホントで、どこが脚色なのか定かではないが、とりあえず通説はこうだ。


薩長の盟約成立から程ない1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士「三吉慎蔵」と投宿していた伏見の寺田屋へ戻り、祝杯を挙げた。だがこのとき、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていた。明け方2時頃、一階で入浴していた龍馬の恋人の「お龍」が、窓外の異常を察知して、袷一枚のまま二階に駆け上がり、二人に知らせた。


すぐに多数の捕り手が屋内に押し入り、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を、三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、装弾ができなくなる。三吉が必死に槍で応戦する間に、お龍が裏木戸の漬物槽をどかし、辛くも裏木戸から家屋を脱出して路地を走り、材木屋に隠れた。


三吉は責任を感じて切腹しようとしたが、龍馬に止められて伏見薩摩藩邸に救援を求めに行くように依頼される。三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み、救援を求めた。


薩摩藩邸にいた留守居役大山彦八は藩士3名をつれて川船を出して救出に向かい、龍馬は九死に一生を得ることができた。すぐに京都の西郷隆盛のもとに報告が行き、吉井幸輔が早馬で伏見に来て事情を調べ、西郷は軍医を派遣して治療に当たらせると共に藩邸で警護させた。


しばらく薩摩藩邸に潜伏することとなった坂本龍馬の傷は深く、お龍から手厚い看護を受ける。これによって仲が深まったのか、坂本龍馬はお龍と結婚。刀傷を癒やす目的もあり、2人で薩摩の「霧島温泉郷」(鹿児島県霧島市)へ旅行に出かけた。これが、日本で初めての「新婚旅行」であったとも言われている。





⚫︎大政奉還でも龍馬は何もしていない


龍馬が書いたとされた「船中八策」(平和的な大政奉還論を進言するために龍馬が起草したとされ、明治政府の基本方針である「五箇条の御誓文」につながったとされていた文)は、師の「勝海舟」や「佐久間象山」あるいは「横井小楠(しょうなん)」から教わったことを、まとめただけの話。龍馬のオリジナリティーはどこにもない。


従って、風来坊だった龍馬が幕末の日本を動かして歴史を変えたかのように考えるのは、あまりにも無理があり、明治維新のみならず、日本の歴史全体に龍馬はたいした影響を与えていない。ただ単純に、あちこち動きやすい脱藩浪士として、大事な決定事項の伝達役として一役買っていただけのメッセンジャーボーイであり、『竜馬がゆく』で創られた坂本龍馬像は、あくまで司馬遼太郎によるフィクションなのである。


てなワケで一時、教科書から龍馬の名が危うく消えるところだったらしいのだが、結局はファンと称する方々が陳情を行うなどして、名前は残ることになったんだとか。そりゃまあ、地元の人にとっては絶対に阻止したい話でしょうしね。気持ちは分からんでもない。


要するに、坂本龍馬は、水戸黄門みたいなもんと思えば良いのだろう。創作のキャラ設定が大人気すぎて、実像と違うんだけど今さら否定するとファン層に対して角が立つし、別にもういちいち訂正しなくても良くね?てなもん。遠山の金さんも、銭形平次も、そんな感じですわね。




ちなみに、以下のリンク先が「坂本龍馬の伝説化」について詳しく分析しているので、その一部を引用して今回は終わりとしよう。

https://note.com/keizokuramoto/n/nb25ba8d9da09


「薩長同盟は多少関わったとしても大政奉還は全然何もしてないよね」という話については、町田氏の本では「オリジナルな発想の提案」にかなり深く関わっていた可能性が指摘されています。


これも現代にあてはめてもわかるように、組織が「一つの策」に従って動いていく時って、「誰が発想のオリジナルか」みたいな事が完全にはわからない感じで、徐々に「定説」として共有されて大きな流れになっていく事が多いですよね。


Apple社が今世界中でザックザクに儲かってるiPhoneとかの「アプリ経済圏」ビジネスを他社に解放するのに最初スティーブ・ジョブズは反対だったって聞いたことがあるんですが、それでもそれを粘り強く実現に向けて動かして後々の巨大な儲けにつなげた「誰か」は確実にいたはずだ、みたいな話ですね。


それも「一人だれか特定の人」がいるんではなくて、「本当にゼロから発想して最初に言葉にした人」と、それを目ざとく見出して「それ良いじゃん!」ってなって何度も何度も熱弁して形にする役割の人もいる。そしてそれが形になってきたものを「正式な組織の方針」として決定する役割の人(Appleの場合はジョブズ)もいる。


「大政奉還」にまで至る流れは薩土盟約が結ばれた頃から一つの流れになっていたわけですが、「船中八策」自体の実在は否定されているけれども、その元となった「大条理」プランというものが当時の海援隊日誌の中に見られるらしいです。


これが「最初のオリジナル」かどうかはわからないが、「倒幕勢力の中の定説」の位置に押し上げられていくプロセスの中では龍馬の貢献がないはずはない、ぐらいの状況ではあるらしい。


2つの本を読んだ上での個人的な感想として、そもそもあれだけ「藩単位」で世界が動いている情勢の中で、その間を巧みに動き回ってネットワークし、実際の武器取引で結びつける事も含めた関係性を作っていった龍馬の存在があってこそ、この「薩長同盟」にしろ「薩土盟約からの大政奉還までの流れ」にしろが実現可能であったというぐらいは言えると思います。


(ただし、そういう立場の人は他にも何人かいて、それらの功績が龍馬一人のものに統合されてしまっている例もあるらしい。町田氏の本では、龍馬のストーリーでいつも過小評価されてる”饅頭屋長次郎”が実はすごい優秀な存在だったという論証がされています)



以上ぜよ!


参考
https://diamond.jp/articles/-/294236#:~:text=坂本龍馬の幕末の,つは欠かせない%E3%80%82
https://business.nikkei.com/atcl/plus/00031/031800006/

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/坂本龍馬

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