さぁ、またまた戦争です。と言うかもうこっからはずっと戦争ですね。せっかく家康様が戦のない世を作ってくれたのに、とうとうクライマックス突入であります。
それにしても、こうして見ると数字の面では圧倒的に多勢に無勢。よう勝ちましたね長州藩は。結果は知っているものの、実は詳しくは知らないので、どうやってこの兵力差を跳ね除けたのかは興味が湧く。ので、調べておきやしょうか。
⚫︎ 四境戦争 よーいドンで一斉開幕!
幕府は、第二次長州征伐において、まずは外様大名に戦わせて長州勢を屈服させると同時に外様大名の力も削ぎ、長州征伐が片付いたあとには、幕府にとって邪魔な藩も順次平伏させようという思惑もあったことから、尾張藩主「徳川茂徳(とくがわもちなが)」を総督とし、薩摩藩を含む西国の諸藩に出兵命令を出した。
しかし、薩摩藩と長州はすでに薩長同盟を結んでいたため、薩摩藩は出兵を拒否。それでも総勢15万人の大軍勢となった。
幕府軍は、瀬戸内海から侵攻する「大島口」に2万人、山陽道(安芸広島藩側)から侵攻する「芸州口」に5万人、関門海峡より侵攻する「小倉口」に5万人、山陰道から侵攻する「石州口」に3万人を配備し、4方面から一気に攻め込む作戦をたて、長州征伐に乗り出す。作戦では、長州藩の本拠である萩を攻撃する「萩口」も入っていたが、薩摩藩が参加を拒否したことにより萩口はなくなった。
これに対し、長州勢は、大島口に500人、芸州口に2,000人、小倉口に1,000人、石州口に1,000人と、兵力では圧倒的不利な状況で迎え撃つことに。
そして、1866年(慶応2年)6月7日。ついに小倉口総督・小笠原長行が指揮する「長崎丸」から大島口へ砲撃されたことによって第二次長州征伐が開戦し、13日には芸州口、16日に石州口、17日に小倉口と、幕府軍対長州藩の戦いがそれぞれの場所で始まったのである。
⚫︎ 大島口の戦い
最初に戦いが始まった大島口の戦いでは、長州藩領である周防大島が戦場となった。周防大島は、広島や四国の海から攻める際、本土を守る壁のような役割をする位置にあったことから、幕府軍はまずここを占領して、長州制圧の足掛かりにするつもりだった。
幕府側は、松山藩、宇和島藩、徳島藩、今治藩が参戦するはずであったが、財政難や幕府への不信感などから宇和島藩、徳島藩、今治藩の3藩は出兵せず、実際に兵を出したのは松山藩のみだった。
長州側においては、大島を占領されてもさほどの損害はないと判断し、大島在住の兵力わずか500人で防衛に当たるが、当時の日本船籍として最大かつ最新鋭の富士山丸(排水量1000tの木造蒸気船)の砲撃に晒され、圧倒的な兵数差により撤退を余儀なくされた。
もともと長州側は最初は大島を放棄する計画であったが、大島の惨状が伝わったことを受け、10日、山口藩庁は第二奇兵隊、浩武隊を大島へ派遣することを決定。また、高杉晋作へ「丙寅丸(排水量94tの木造蒸気船)」に乗り大島へ向かうように命じた。
高杉晋作と第二奇兵隊、浩武隊が大島口へ反撃に向かい、夜陰にまぎれて幕府艦隊に近づき、「丙寅丸(へいいんまる)」で激しく砲撃して奇襲攻撃を開始。第二奇兵隊は、大島出身の者が多く、この島の地を熟知した「制高作戦」や、兵士が散らばって戦う「散兵戦術」などを駆使して反撃に転じる。
戦力に劣る長州軍であったが、幕府軍は寄せ集めのならず者が多くて統率が取れず、一部の兵が民百姓に略奪などの乱暴狼藉を働き、島の者たちからの怒りを買っていたため、武器を持たない農民は山頂から大石を転がすなどして参戦し、戦えない者は食糧の提供や炊き出しに協力するなど、一丸となって戦った。
戦闘は一進一退の攻防が続いたものの、激戦の末、長州軍が勝利して大島の奪還に成功。この大島口の戦いの勝利は、島民はもちろん藩民全体に自信を与え、その他の場所での戦いにも弾みをつけたのであった。
⚫︎ 芸州口の戦い
芸州口の戦いでは、長州領(山口県)との国境にある「大竹」が戦いの最前線となった。広島城に集結した幕府軍は、紀州藩主「徳川茂承(もちつぐ)」を総督とし、近代装備と洋式訓練を受けた幕府陸兵や、彦根藩、紀伊藩、高田藩、与板藩など、約3万人の軍勢が配備された。
一方、長州軍は、岩国藩の「吉川経幹(きっかわつねまさ)」を総督とする岩国兵や、遊撃隊、御楯隊、干城隊などが集まり、総勢1,000人が防備にあたった。迎え撃つ長州軍は、岩国兵が主力となり、和木村の川岸の竹やぶに陣を敷き、息を凝らして待ち受けていた。
14日早朝、彦根藩は使者を立て、小瀬川を渡らせたが、川の中央に差しかかった時、対岸から一斉に銃撃に遭い、使者が狙撃され、そのまま戦闘が開始された。小瀬川を渡ろうとする彦根軍は、和木村川岸から集中攻撃を受け、さらに瀬田八幡宮山から大砲が浴びせられるなど、壮絶な戦闘状態になり、小瀬川が血の海になったと言われている。
彦根軍も抵抗したが、関戸から進入した長州軍が二手に分かれ、彦根軍を背後から挟み打ちにしたため、彦根軍はついに総崩れとなり、小島新開に敗走。敗走した兵は小島新開に用意してあった舟により沖に逃れたが、小島新開を守備していた与板藩の兵が先に撤退乗船していたため、逃げ遅れた多くの彦根藩の兵が長州軍の追撃に遭い、多くの戦死者を出した。
長州軍の数は少なかったものの、山を駆け下りながらゲリラ戦を展開し、最新鋭であるフランスのミニエー銃で彦根軍を一斉射撃。槍や日本刀、甲冑(鎧兜)など旧式の装備だった彦根藩・井伊隊は、予想外の奇襲攻撃とミニエー銃や砲弾の攻撃によって大混乱となり、そのまま退却。それを知った高田藩・榊原隊や他の藩も戦うことなく撤退し、長州軍が幕府軍を圧倒した。
この先鋒部隊の敗走を知った幕府軍は、征長総督直属の幕府正規軍を戦線に投入し、広島領内に布陣する長州藩軍を攻撃したが、逆に激しい猛撃にさらされ、幕府正規軍も敗走。
その後、幕府軍は戦力の立て直しを図り、西洋式の装備を持つ紀州藩を投入して、大野四十八坂で再び戦闘となるが、一進一退のこう着状態が続いたことから、幕府側が「勝海舟」を派遣し、宮島の大願寺において、長州側と交渉を行なったことにより、芸州口の戦いは引き分けに終わったのであった。
⚫︎ 小倉口の戦い
小倉口の戦いは、小倉藩領だった赤坂(現在の北九州市)が激戦地となった。幕府側は、小倉藩の「小笠原長行」を総督として、小倉藩、熊本藩、久留米藩、柳川藩など、九州勢2万人の兵力が小倉城に集結。
一方、長州側は、長州にとって馬関(下関)が軍事経済の中心であったことから、この小倉口が生命線と考え、指揮官には「高杉晋作」参謀には「三好軍太郎」軍監に「山県有朋」など、軍略の才に長ける人材を投入。さらに、山県有朋率いる最強部隊・奇兵隊を下関に布陣させた。
小倉口の戦いは、戦闘前、高杉晋作が幕府軍に対し「いつでも長州に攻めて来い」と挑発する書状を送ったことから始まる。この書状を見た幕府軍は、長州軍は藩境を固めて、攻めてこないだろうと思い込んだ。
長州軍はその隙に付け入り、小倉藩領への上陸作戦を決行。関門海峡を渡って九州へ上陸し、門司を占領する。さらには、幕府軍が馬関の渡航用に用意していた船の大半を焼き払い、幕府軍の渡海を見事に阻止した。
虚をつかれた幕府軍は、当時東洋随一と言われた軍艦「富士山丸」を小倉に回航するよう海軍に要請し、馬関を一挙に陥れる作戦を立てる。
一方、その情報を得た長州側は、石炭運搬船に偽装した3隻の小船に大砲を積み、それとなく「富士山丸」に近付いて機関部めがけて3発の砲弾を撃ち込む。突然の砲撃を受けた幕府軍は慌てふためき、幕府軍の作戦は失敗に終わった。
長州軍は再び九州へ兵を進め、小倉藩領の大里を攻略し、本格的に小倉城への総攻撃が開始される。しかし、小倉城を守るのは、当時の最強武器アームストロング砲やミニエー銃を有する九州最強の肥後熊本軍だったこともあり、長州軍は大苦戦。
ぎりぎりの死闘が続く中、大坂城内で出陣中だった将軍・徳川家茂が急死したという訃報が届き、長州藩に神風が吹く。この報告に、勝機のないことを悟った総督の小笠原長行は、本営から脱出して逃げるように大坂へと向かい、総督を失った幕府軍は統率が取れなくなって諸藩は次々と帰藩。
唯一、長州軍に一部藩領を占拠されていた小倉藩軍だけが戦っていたものの、これ以上戦うのは不可能と悟り、自ら小倉城に火を放ち、長州勢が勝利する形で幕を閉じた。
ちにみに、この戦では、両藩の装備が対照的であったと言われている。長州軍の兵士は筒袖の上着にズボンかパッチ(足首まである男性用下着)という服装で、中には裸同然の者もいたのに対して、小倉藩軍の兵士は戦国時代と変わらない重い鎧、兜をまとって応戦したとのこと。この装備の差で、小倉藩軍が敗れてしまったという考え方もあるらしい。
⚫︎ 石州口の戦い
石州口の戦いでは、浜田藩領の益田(現在の島根県益田市)が戦場となった。幕府軍は、先鋒部隊に津和野藩・浜田藩、その他に紀州藩、福山藩、松江藩、鳥取藩など、約3万の兵員を投入し、萬福寺と医光寺に布陣。
これに対して、軍略の天才「大村益次郎」が率いる長州軍は、清末藩主・毛利元純を大将とし、南園隊、精鋭隊、育英隊など1,000人の兵員で石州口防衛にあたった。
兵力では、明らかに長州軍が不利という状況の中、軍師大村益次郎は、敵陣の3方向を攻囲しつつも敵の突撃路を開けておき、そこに敵が突撃してきたところを一斉射撃で潰滅させるという戦術を立てる。この巧みな戦術により、福山藩・浜田藩軍は潰滅。益田城を陥落させ、長州軍はさらに浜田城下に迫った。
浜田藩は、幕府から援軍の見込みがないことが分かると、和睦の使者を長州軍に送って講和会議を進めようとするが、この会合談判中に浜田藩側が城に火を放ち、藩主以下藩士達が松江藩へと逃亡したことにより、石州口の戦いは、長州藩の圧倒的勝利に終わった。
幕府は8月20日に家茂の死と徳川宗家の家督を一橋慶喜が継ぐことを公表。幕府側の働きかけもあり、翌日になると朝廷から第二次長州征伐休戦の勅命がくだされた。将軍の死という特別な事情があったものの、10万を超える大軍を擁しながら長州一藩を攻め落とすことができなかった幕府の権威はさらに失墜し、倒幕への流れを加速させる結果となったのであった。
参考
https://adeac.jp/ube-city-boe/text-list/d200030/ht000130
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/長州征討https://www.town.suo-oshima.lg.jp/uploaded/attachment/13778.pdf
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