vol.132「近江屋事件」について(後編)


上司「、、ふぅ。で、ホシの目星は」




はい。まず、現場に残されていた刀の鞘を調べたところ、新撰組隊士「原田左之助」の物であると御陵衛士から証言がとれました。また、刺客が「こなくそ」と伊予弁を話し、新撰組の原田左之助や大石鍬次郎らが伊予出身であることや、さらに、熱があったとはいえ、北辰一刀流免許皆伝の坂本龍馬を斬れる人物となると「斎藤一」以外なかろうかとする憶測から、今は新撰組が犯人であるとの見方が優勢であります。


しかし、私はこれには懐疑的です。なぜなら、坂本龍馬と近藤勇は実際に酒を呑み交わし友好関係にあったという記録が残っているからです。坂本龍馬と勝海舟との深い交わりは言うまでもなく、志士の中でも坂本は慶喜公と幕府に深く同情していましたから、幕府要路の近藤が坂本を殺させたとは思えません。


近藤は大政奉還の立案者である「後藤象二郎」と懇意になり、後藤の紹介で坂本とも往来し料理店で酒を共にしていることからも、むしろ土藩の人には好意を持っていたと考えられます。さらに、近藤は坂本との時間がとても有意義だったようで、その後も後藤へ坂本との再会を希望する手紙を送り続けていたそうです。


坂本は高杉晋作から譲り受けた拳銃を携帯していたことから、銃にばかり注目が集まってしまいがちですが、剣術や刀がとても大好きで、剣術好きの近藤同様、大きな人柄、国を想う志、などなど共通点も多かったように思います。これほどまでの友好的な考えを持っていた近藤が坂本暗殺の命令を下したとは考えにくいのではないでしょうか?


新撰組説の他にも「紀州藩説」という線もあります。少し前のことですが、紀州藩所有の蒸気船「明光丸」と、海援隊が運航する「いろは丸」が衝突し、いろは丸は宇和島沖に沈んでいます。紀州藩と坂本が引き入る海援隊は、賠償をめぐって激しく交渉を続けていたようです。


坂本は人脈や交渉力、果ては繁華街で「船を沈めた紀州藩はつぐないをせよ」と歌を流行らせ、その包囲を固め、交渉勝利のためにあらゆる智恵をつかって交渉に当たっていたと聞きます。その分が悪くなった紀州藩が、坂本を暗殺したのではないか?という説であります。


それから「薩摩藩説」も気になります。大政奉還以降、坂本は幕府に対する態度を軟化させ、徳川慶喜を含めた諸侯会議による新政府の設立に傾いていたとも言われています。武力倒幕を目指していた西郷隆盛大久保利通らが、こうした坂本の動きを看過できなくなり、故意に幕府側に坂本の所在を漏らしたとする説です。


徳川慶喜の処遇をめぐっては、西郷隆盛と坂本龍馬では意見の相違があったことが明らかになっており、大政奉還路線と武力倒幕路線の対立による抗争だった可能性も捨て切れません。近江屋の女中に尋ねると「暗殺犯たちの言葉にたしかに鹿児島弁の節があった」と証言しています。


ちなみに、これはあくまで私の推測に過ぎませんが「京都見廻組」が怪しいと踏んでおります。


京都見廻組も、新撰組と同じく京都の治安維持にあたった幕府の組織であり、剣術に秀でた旗本の次男や三男のなかから選ばれていますので、剣の腕は確かです。坂本は、前年の「寺田屋事件」で伏見奉行所の役人数名を殺傷しており、幕府に狙われる理由は十分にあります。つまりこれは、大政奉還に異を唱える佐幕派の鬱憤といった政治的な事件ではなく、幕府の役人を殺害したという極めて現実的な怨恨による犯行だったのではないか、という推察です。


幕府見廻組が、自力で坂本の潜伏先を見つけたのかどうかは分かりません。伏見奉行所の役人か、紀州藩士など、坂本に個人的な恨みをもつ人間が、京都見廻組に情報を流した可能性もあります。いずれにしても、こうした情報をもとに京都見廻組の有志たちが、殺された同僚の仇を討つべく、非公式に坂本の襲撃に及んだのではないでしょうか。


そう考えると、坂本にも中岡にもまだ息があるうちに「もうよい」と留めも刺さずに立ち去ったことも納得できます。逆に、政治的な動機からの暗殺なのであれば、その死を見届けずに引き上げるのは不自然です。私には、刺客たちの目的が、命を奪うことよりも天誅を加えることそのものだったように見えてなりません。


おそらく犯人グループは6.7名。坂本に殺された者と親しかった者たちと思われます。ともすれば「寺田屋事件」の際に乗り込んだメンバーかもしれません。ただ、今は尋問しても結託して犯行を否認するでしょうし、決定的な証拠がなければ逮捕も出来ません。しかし、いずれ誰かが自供する日が必ず来ることでしょう。それが数年後なのか数十年後なのかは分かりませんが。。以上であります。






上司「、、、お、おう。。なんだろね、、君ホントすごいね。。名探偵かなんかなの? いやもう有能すぎて怖い、怖いよ。。。でもさ、じゃあ俺は今から誰を調べれば良いわけ? 京都見廻組は調べても無駄なんでしょ。誰か引っ張らないとカッコつかないからさ、とりあえず新撰組で良いかな? せっかく推理してくれたのにごめんね? いやほら、後で一杯奢るからさ、、ね?」



● その後の展開と、真犯人


これにより、土佐藩中枢部は「犯行は新選組によるものだ」と判定し、幕府に対して告発を行っている。これを受けて11月26日に幕府から取調べを受けた新選組局長「近藤勇」は関与を否定したが、世情では「新選組が犯人である」という風評が強まった。一方、坂本龍馬を失って怒り心頭の海援隊士は、当時「いろは丸事件」などでトラブルを抱えていた「紀州藩の犯行」と推定し、「天満屋事件」などが起こったが、実行犯は見つからなかった。


それから2年後の明治2年(1869)に、容疑者として捕縛された元新選組の「大石鍬次郎」が、政府の兵部省でこう自白した。


「あの2人を暗殺したのは、私どもの仕業ではありません。見廻組「海野某」「高橋某」「今井信郎(のぶお)」他が暗殺したと、近藤勇より確かに聞きました」


この供述により、新たな容疑者として「京都見廻組」が浮上した。京都見廻組は京都の治安維持のための組織で、同じ任務につく新選組の局長近藤勇が、龍馬暗殺は見廻組によるものだと語っていたというのだ。


「海野某」と「高橋某」については政府も詳細を掴めなかったようだが、「今井信郎」は箱館戦争の降伏人のなかに含まれていたので、ただちに身柄を拘束して訊問が行われた。今井が兵部省で自供した内容は次のとおりである。


「坂本龍馬を殺害したのは、見廻組与頭「佐々木只三郎」の指図です。龍馬は謀反を企てたので、先般召し捕りに向かいましたが、取り逃がしました。そのため今度は必ず召し捕る、もし手に余った時は討ち果たしてもよいという達しがありました。(略)佐々木只三郎が先に立ち、7人で近江屋へ参りました」


そして龍馬と、同席していた中岡慎太郎を殺害して退散したのだという。殺害の命令があった理由については「寺田屋事件の際に龍馬が同心二名を射殺したこと」を挙げている。龍馬暗殺の下手人は事件から2年後、この自供により初めて判明したことになる。しかしながら、今井の自供には不自然な部分があり、続いて行われた刑部省での供述では「自分は見張り役に過ぎなかった」と申し立てている。


実行犯ではなく見張り役だったというのは、普通に考えれば罪を逃れるための方便のようにも思われるが、そうした偽証により他のメンバーから苦情が入る可能性がゼロであることを、今井は知っていた。なぜなら今井以外の6人は、事件から2か月もたたない慶応4年(1868)1月に起きた「鳥羽伏見の戦い」で、全員戦死していたのだ。


自分以外の襲撃メンバーが事件直後に全員死んでいるというのは、どうにもできすぎているといわざるをえない。もちろん今井は見廻組の一員として鳥羽伏見の戦いに参戦しているから、6人が戦死したことは間近で見て知っている。それをいいことに自分以外のメンバーを全員死者で構成して、政府の追及をかわし、自分は見張り役に過ぎなかったとの主張を通そうとしたのである。


そうまでして今井が偽証し、隠したかったもの――。それは、自分が本当は見張り役などではなく、龍馬を斬った実行犯であったという事実だった。この自供はそのまま刑部省に認められ、今井には「静岡藩に身柄引き渡しのうえ禁固2年」という軽い判決が下された。死人に口なしとは、まさにこのことである。


これで龍馬暗殺事件は解決したが、人々の記憶も薄れた30年後になって、状況が大きく動いた。雑誌「近畿評論」の取材を受けた今井が、龍馬暗殺の実行犯は自分であると突然告白したのである。明治33年(1900)5月号の同誌には、今井の証言による暗殺の状況が詳細に綴られている。


「機転をきかして、やあ坂本さんしばらくといいますと、入口に座っていたほうの人が、どなたでしたねえと答えたのです。そこでソレといいさま、手早く抜いて斬りつけました。最初横鬢を一つたたいておいて、体をすくめる拍子、横に左の腹を斬って、それから踏み込んで右からまた一つ腹を斬りました。この二太刀でさすがの坂本もウンといって倒れてしまいました」


やはり実行犯は今井だった――。この証言が売名行為でもない限り、龍馬を斬ったのは確かに今井ということになる。このとき今井は60歳。これまでかたくなに隠してきた事件の真相を話す気になったのは、心にずっと重くのしかかっていた真実を、自分が死ぬ前にすべて明らかにして、重荷から解放されたいということだったのかもしれない。




時を経てすっかり老いたあの上司

「、、か、彼が言ってた通りじゃった、、、」





参考
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/8972/2#google_vignettehttps://ameblo.jp/sanadanobshige/entry-12338585252.htmlhttps://www.ryoma-den.com/ryoma/omiya.htmlhttps://news.yahoo.co.jp/expert/articles/3987b3bbf47d10c60a64ff9c4f66abcf9fdbfec1https://ja.m.wikipedia.org/wiki/近江屋事件

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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