vol.133「油小路の変」について

リョーマ暗殺の濡れ衣を着させられそうになってる近藤イサミン。当然ながら怒ります。

「はぁ? うちらやってねーし! テキトーな捜査で決めつけてんじゃねーぞこら! ちゃんと証拠掴んでからおととい来やがれ馬鹿野郎! だいたい今うちら別の奴を殺そうとしてるとこだからそんな暇ないっちゅーの!」

そうでしたか疑ってスミマセ、、、え、今なんと?




⚫︎ 伊東カシタロー(甲子太郎)という男


「池田屋事件」と「禁門の変」での活躍により存在感を示した「新撰組」であったが、やがて分裂という現実に直面する。一時は参謀を務めた「伊東甲子太郎」その一党の離隊が、新撰組全体を揺るがす事態を招いたのである。


伊藤カシタローは、常陸国(ひたちのくに:現在の茨城県)に生まれ、水戸で神道無念流剣術を学んだあとに江戸の深川佐賀町へ出て、北辰一刀流剣術道場を構える「伊東誠一郎」の養子になった人物。


生来実力と人望に富み、伊東誠一郎の死後は遺言と門弟一同の推挙によって道場経営を継承。新撰組入隊のきっかけとなったのは、「藤堂平助」の仲介であった。実はこの2人、上洛前から知己を得ており、「寄り弟子」として師弟の信頼関係を結ぶ間柄だった。


このときの藤堂平助の誘い文句は「近藤を暗殺して、尊王の志厚い貴殿を隊長に戴き、新撰組を純粋な勤皇党に改めたい」という内容だったとする説もあるにはあるが、真相は定かではない。「攘夷」の志が一致した新撰組への入隊を決意したカシタローは1864年(元治元年)10月15日、門弟6名を伴って江戸を出立した。


カシタローは新撰組に入隊した直後から、同組中枢の一員となり、1865年(元治2年)3月下旬には、副長の「土方歳三」や「斎藤一」と共に、隊士募集のため江戸に下向。50余名の新隊士と共に5月10日には京に戻る。


新撰組はこの時期、幕府による「第二次長州征伐」従軍を視野に入れて部隊の再編成をしており、カシタローは参謀に任じられている。また、戦闘力と精神的資質向上のため撃剣・文学・柔術・砲術・馬術・槍術の各師範が選抜された際、文学師範に任じられた。


新撰組の中枢として重んじられた一方で、カシタローは尊皇攘夷の総本山である水戸藩(現在の茨城県)出身者。時代の流れとともに、「一和同心」(いちわどうしん:日本国が心をひとつにして和とする)、尊王を志向する伊東と、幕府権力の強化(回復)「佐幕」(さばく:江戸幕府を補佐、支持する派閥)を志向する近藤イサミンとの路線のズレが強まっていった。


1866年(慶応2年)に入ると、カシタローと新撰組の路線のズレが顕著に表れ始める。その証拠となるのが新撰組隊士「篠原泰之進(たいのしん)」による回顧録「秦林親日記」(はたしげちかにっき)である。


1866年(慶応2年)1月、幕府が長州藩処分通達のため同藩に使者を派遣した際、露払い(つゆはらい:貴人の先に立って道を開くこと、またその役目を務める人)として先発を命じられたのが近藤イサミン、伊東カシタロー、篠原タイノシンの3名だった。篠原タイノシンは、近藤イサミンが不在の折に、伊東カシタローと2人で「長州滞在中は徳川の悪政を討論した」とその回顧録に記している。


また、新撰組隊士による度々の「不義理」や「行き過ぎた残虐な暴力行為」に対して注意を投げかけていたが殆ど聞き入れられなかったこともカシタローは不満に感じていたとされている。やがて1866年(慶応2年)9月26日、カシタローはイサミンと面談。新撰組からの分離を切り出す。表向きの理由は「薩摩・長州の内情を探偵したいが、現状では足かせが大きすぎる。局から一旦離れて別動隊として活動したい」とのこと。


新撰組では「局中法度」(きょくちゅうはっと:新撰組のなかで定められた鉄の掟。もとは「禁令」と記されていたが、1928年(昭和3年)に発見された「新撰組始末記」により局中法度の言葉で広まったとされている)によって脱退は「切腹」と規定されている。しかし、新撰組を支える別動隊としての分離ならば脱退には当たらない。カシタローの策士らしい一面がうかがえる。


カシタローが新撰組からの分離を決意した決定的な出来事は、幕府による新撰組の「幕臣取り立ての内定」(新撰組が正式に幕府直下の組織になり賞与や階級が与えられること)が下ったことにあり、もはや組織の中では志が貫けないと判断したからだと言われている。


イサミンと新撰組上層部はいったんカシタローの申し出を保留した。それを受けて、カシタローは12月25日、「孝明天皇」が崩御したのを契機に、孝明天皇が葬られた御陵を守る隊を新たに設立することを画策。タイノシンに「御陵衛士(ごりょうえじ)」拝命の根回しを行うよう指示した上で、自身は九州に向かった。自分達が新撰組とは別の組織であることを討幕派勢力の面々に周知させるためである。


実際、カシタローの著書「九州行道中記」には局異論分離の言にて、「いささか嫌疑を解く(意味:新撰組とは異論があり分離する意向を伝え、討幕派勢力からの疑いを解く)」と記されている。


新撰組の一派というだけで誤解を受け危険な目に遭うこともあり悔しい思いをしたカシタローらであったが、こうした地道な活動が実を結び、1867年(慶応3年)3月10日、カシタロー率いる一党は朝廷より「御陵衛士」に任じられ、改めてイサミンらに離隊を申し出た。


「秦林親日記」の記録によると、伊東カシタロー&篠原タイノシンと、近藤イサミン&土方トシゾーは時世について激しい議論を交わし、翌日にはタイノシンが1人でふたたび議論をして「異論があるなら一刀両断しろ」という勢いで近藤勇らを説き伏せたとある。非の打ち所のない理由を前に、イサミンは彼らの新撰組離隊を承認した。


この件に関しては諸説あるが、実際に表面上では円満に分離をしたとされている。その根拠として「九州行動中記」では、会津藩の重役との話し合いも順調に進み、分離直前にもカシタローは、イサミンやトシゾーと酒を酌み交わしたと記されている。


そんな折、分裂したばかりの新撰組に激震が走る。1867年(慶応3年)10月14日、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」が「大政奉還」を奏上したのだ。そもそも幕府を取りまとめる征夷大将軍は、朝廷の「令外官」(りょうげのかん:律令の令制に規定のない新設の官職)であり、非常設の臨時職です。その前提に立ち戻った奇策と言える。


徳川慶喜としては、討幕派の矛先をかわしつつ、いきなり政権を返還されたことで混乱必至の朝廷の隙を突き、新政府の主導権を握ろうと考えていた。(しかし、「岩倉具視」や「大久保利通」らの機転により失敗。これより「戊辰戦争」へと突き進むことになる)


なお、徳川慶喜がこうした紙一重の駆け引きに打って出た背景には、会津藩(現在の福島県)からもたらされた情報が大きく影響していた。それは、武力による討幕派の挙兵が目前であるとの情報。この情報を会津藩へ伝えたのは新撰組である。


伊東カシタローもそれを裏付ける証言を残している。新撰組もまた幕府という根幹を失い、解散への道を進みはじめる。大政奉還により衝撃を受けたのは、カシタローも同様であった。新時代の一端を担うべく動き出した矢先、倒すはずだった政権が朝廷へと移ってしまったのだ。時代に乗り遅れたと焦ったカシタローは、新撰組屯所を焼き討ちし、イサミンら幹部を討ち取って新撰組を吸収しようと計画していたという資料も存在する。



⚫︎ 油小路の変


御陵衛士内には、間者(スパイのこと)がひとり紛れ込んでいた。三番隊組長を務めた「斎藤一」である。斎藤は「御陵衛士に近藤勇暗殺の企みあり」と、新撰組上層部に報告。政治活動の準備金を持って伊東のもとから逃走する。これにより伊東カシタローの命運は決まった。


近藤らはどこかで伊東を殺そうと思っていたが、その理由がなかった。しかし、伊東が酒席で新選組の資金や組織の乗っ取りを狙っているとこぼしたことを知り、暗殺を決意したと言う。あるいは、御陵衛士が江戸幕府と敵対していた長州藩に対して寛大な処分を主張する建白書を提出したことが、長州厳罰論を説く近藤を激怒させ、油小路事件につながったとも言われている。


同年11月18日(12月13日)、イサミンは資金の用立て・国事の相談があるとの口実で七条の妾宅にカシタローを呼び出した。この際、カシタローの周りの同志が罠を疑い止めたのだが、人を疑うことを嫌うカシタローは、「好意を持った誘いを断るのは礼儀に反する」として、快諾したという。カシタローはこの機会に、イサミンらに自分達の志を伝え説得しようとしたのだと記されている。


盛大な歓迎を受けたことで、自分の思いがイサミンら新撰組の志士達に伝わったとカシタローは信じきっていたが、泥酔した帰路には新選組隊士の「大石クワジロー」ら複数名が震える手で待ち伏せており、槍をもってカシタローを襲撃。カシタローは深手であったが一太刀敵に浴びせ、「奸賊ばら!」と叫んで、本光寺前で絶命した。酒に酔わせたうえでの暗殺を企んだのは、北辰一刀流の道場主であったカシタローの剣技を警戒したためと思われる。


新選組は油小路七条の辻にカシタローの遺骸を放置し、その周りに伏せ、遺体を引き取りにきた同志をまとめて粛清しようとした。遺骸を引き取りにきた同志は、藤堂へースケ・篠原タイノシン・鈴木ミキサブロー・ハットリ武雄・モーナイ有之助・カノー道之助・富山ヤヘーの7名であった。


この待ち伏せによって、新選組結盟以来の生え抜き隊士で元八番隊組長を務めた藤堂へースケのほかに、ハットリ武雄・モーナイ有之助の3名が討死した。


偶然、現場を通りかかった桑名藩士・小山正武の談話(史談会速記録)によると、新選組隊士40~50名が御陵衛士7名を取り囲み、まず藤堂ヘースケが討たれ、次にモーナイが討たれ、最後にハットリが奮戦したが及ばず討死したということである。


藤堂ヘースケに関しては、イサミンと試衛館以来の同志である永倉シンパチ・原田サノスケが逃がそうと試みたものの、イサミンの心情を酌めなかった他の隊士に斬られた。


ハットリ武雄は隊内でも相当な二刀流の使い手として鳴らしていたため、ハットリの孤軍奮闘は鬼気迫るものがあったという。民家を背にして激戦し、新選組にも多数の負傷者を出したが、最後はハットリの大刀が折れたスキを狙って原田サノスケが槍を繰り出し、一斉に斬りかかって絶命した。


モーナイ有之助の遺体は五体バラバラで無惨だったらしい。

坂本リョーマが暗殺されてから3日後の出来事であった。





ああ、、ついカタカナネームで遊んでしまったせいで、悲劇が喜劇っぽくなってまいましたが、とにもかくにも内部分裂はやるせないですな。かつての仲間と斬り合うのはつらいけど殺るしかない、のは、実力者同士の宿命とでも言いましょうか。相手が強いからこそ今ここで潰せる時に潰さなければってことなのか。。


なお、この伊東カシタロー暗殺がきっかけとなって、その後、近藤イサミンは《御陵衛士》の残党に狙撃されて戦闘能力を失い、さらに流山で捕まったときには官軍に参加していた元《御陵衛士》によって、変名を使って自首したがイサミンであることを看破され、斬首される結果になるんだとか。


このあたり実はよく知らないので、今度あの三谷幸喜の新撰組!でも観ておさらいしとこ。



参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/油小路事件
https://www.touken-world.jp/tips/72616/

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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