もう、どうにも止まらない〜。
⚫︎ 徳川慶喜への再入京の朝命
京都から越前藩士・中根雪江や、尾張藩の者ら4、5人が大阪へきて、朝命によって慶喜へ再び京都へくるよう勧めた。慶喜は「では軽装(少数のお供だけを連れての朝議参内)で京都へ行こう」と考えたが、会津藩・桑名藩やほかの旗本の者らがこの慶喜の思い聞き入れず反対し、「薩摩藩を討つ好機会なので、十分な兵力を持って京都へ行き、是非とも君側の奸を清めましょう」と主張した。
このとき、官僚で最も身分が高い者で老中から、それ以下の官職にあたる大目付や目付まで、ほとんど半狂乱のありさまで、もし慶喜が薩摩藩征討(討薩)を肯定しなければ配下が一体なにをしだすか想像もできない状態で、しかも官僚から兵士らまでみなが完全に討薩を心から固く決意している気配だった。
当時の大小目付部屋の光景は驚くべきもので、居並ぶ武者のみながあぐらをかき口角泡を飛ばしながら討薩論に熱中しているありさまは、ほとんどどこからも手の下しようもない状態だったという。
このとき慶喜は風邪をひいており、寝まきのまま布団の中にいたところへ、老中・板倉勝静がやってくると、将校から兵士までの討薩を望む士気の激昂は凄まじいもので、このまま何もせずには到底いられない旨、また「いくら少数のお供を除けばおひとりで京都へ行かれたいとはいえ、所詮、大君(日本最大の大名)であらせられるからには、万が一の為に御身をお守り申しあげる大勢の兵隊を帯びねば到底その様な事は叶いますまい」とくりかえし慶喜を説き伏せた。
慶喜はそのとき読みかけの『孫子』の一節を示しながら「『彼を知り己を知れば百戦あやうからず』とこの本にある。そこで試しに聞くのだが、今わが幕府に西郷隆盛に匹敵すべき人物はいるか」と板倉に問うと、板倉はしばらく考えてから「おりません」と答えた。慶喜が続けて「では大久保利通ほどの者はどうか?」と問うと、板倉はまた「おりません」と答えた。慶喜はさらに吉井友実ら薩摩藩で名のある数人を挙げ「この人々に拮抗しうる者はいるか」とつぎつぎ尋ねてみると、板倉はまたまた「おります」とは言えなかった。
このため慶喜は「こんなありさまでは、もしわが軍が薩摩藩側と戦っても必勝を期し難いだけでなく、遂にはいたづらに朝敵の汚名をこうむるだけではないか。決してわが方から戦を挑むことなきよう」と板倉へ無謀な開戦を制止した。それでも、板倉と若年寄・永井尚志らはしきりに将校・兵士らの激憤状態を慶喜へ説明し、「もし上様(慶喜)が飽くまで討薩の命令をゆるして下さらなければ、おそれ多くも、上様を刺し違えたてまつってでもわが軍隊は脱走しかねない勢いなのでございます」と言った。
慶喜は「まさかおのれを殺すまではしまいが、わが方の兵が脱走しそうなのは勿論だ。そうなったらいよいよ国が乱れるもとであろう」と、自軍の制御が十分に及んでいないのをひたすら嘆いていた。こうして江戸薩摩藩邸の焼討事件以後、なおさら大阪城のなかの将校・兵士らの憤激は到底制御することが不可能になった。
慶喜が薩摩藩への義憤に逸る大阪城配下の兵隊の大勢を抑え続けられなくなり、「なんじらのなさんと欲するところをなせ」「いかようとも勝手にせよ」と放任すると、将校・兵士らは『討薩表』を慶喜の名で書くと旗本・竹中重固が薩摩藩側へ持って行った。
こうして朝廷から御所への参内を命じられた慶喜は、慶応4年(1868年)元日『討薩表』と共に2日から3日にかけて京都へ向け近代装備を擁する約1万5千の軍勢を進軍させた。さきども進軍の間、朝命のとおり軽装で上京するつもりで出兵が本意ではなかった慶喜は、このとき風邪をひいてずっと寝巻で布団の中にいて、はじめからおわりまで大阪城の中から出ず、甲冑・軍装などの軍服も着ずに、ただ嘆息していた。
旧幕府軍主力の幕府陸軍歩兵隊および桑名藩兵、見廻組等は、鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。武備を鞏めての進軍は明らかに朝廷に対する威圧行為であった。慶喜出兵の報告を受けて朝廷では、2日に旧幕府側の援軍が東側から京都に進軍する事態も想定して、京都に部隊を置く複数の藩と彦根藩に対して大津への出兵を命じたが、どの藩も出兵に躊躇し、命令に応えたのは大村藩のみであった。渡辺清左衛門率いる大村藩兵は3日未明には大津に到着したが、揃えられた兵力はわずか50名であった。
⚫︎ 鳥羽方面での戦闘
旧幕府軍は慶喜参内にあたって軽装(少数のお供)でくるよういわれていたので、それなら幸いと先供を進軍させていた。慶喜が朝命(明治天皇の頼み)に従い御所へ参内するにあたって、島津家文書の『慶明雑録』では、旧幕府軍は薩摩藩との戦闘を京都に入った後で行う認識だったとし、『村摂記』では旧幕府軍側は京都に入るまでは平穏に行軍するよう慶喜から命令されていたとする。
1月3日、京都見廻組400名、幕府陸軍歩兵第一連隊、歩兵第五連隊、伝習第一大隊、砲6門、桑名兵4個中隊、砲6門をはじめとする旧幕府軍が淀を発って鳥羽街道を北上した。鳥羽街道方面の指揮官であった竹中重固は伏見に向かっており、討薩表を朝廷に提出する使者で、軍の指揮権は有さないはずの大目付・滝川具挙が実際の指揮を執っていたとみられている。
鳥羽街道で旧幕府軍の先頭を進んでいたのは使者である滝川具挙の護衛とされた京都見廻組で、和装に甲冑や鎖帷子を身につけ、刀槍を装備し、銃は持っていなかった。3日午前、街道を封鎖するために南下する薩摩軍の斥候と京都見廻組の先発隊が上鳥羽村において接触した。見廻組は慶喜の先供であるとして通行の許可を求めたが薩摩軍斥候はそれを認めず、可否を京都に問い合わせるためそれまで控えるようにと回答した。
そのため見廻組は一旦控えるということで、小枝橋を渡って鴨川左岸へ引き返した。薩摩軍はこれを追尾して前進し、鴨川を越え、小銃五番隊、外城一番隊、外城二番隊、外城三番隊の4個小銃隊および一番砲隊の半隊砲4門が鴨川左岸に展開した。小銃六番隊は鴨川を越えず、右岸の小枝橋付近に潜伏した。先発隊と合流して滝川具挙が先頭に立った旧幕府軍は、小枝橋の南、鳥羽街道の赤池付近を先頭に行軍隊形のまま停止した。
滝川具挙は薩摩側の代表、椎原小弥太と山口仲吾に通行許可を求めたが、薩摩軍は朝廷へ問い合わせ中であるとしてそれを認めなかった。このような交渉が繰り返されたが状況は変わらず、午後5時頃、滝川は「最早や夕刻ともなるによって、強行して入京す」と最後通告を行ない、これに対して椎原が「われわれは朝命を奉じ、この地を守るものゆえ臨機の応対を仕る」と答えた。そこで、旧幕府軍は封鎖を強行突破するため縦隊で行軍を開始した。椎原、山口が自陣へ走り「手切れだ!」と叫ぶと薩摩軍は合図のラッパを吹き、それと共に一斉に射撃を開始した。
薩摩軍は左右の藪へすでに兵士を回してあり、前と左右から先制攻撃をしかけた。一方の旧幕府軍は強行突破をしようとしていたものの、この段階での戦闘を予期しておらず、行軍隊形のままで、小銃にも弾薬を装填していなかった。そのため旧幕府軍は隊列の前から薩摩軍に潰されることになった。
薩摩軍の激しい射撃により旧幕府軍は先頭の部隊に死傷者を続出させて大混乱に陥り、一部の小隊のみが応戦した。薩摩軍砲兵の砲撃が先頭に砲列を布いていた旧幕府軍の3門の砲車のうちの1門に命中して大爆発を起こし、残りの2門の砲も応射したが薩摩軍砲兵の集中砲火を受けて制圧された。
滝川具挙は射撃開始時に入京を強行すべく乗馬したところであったが、友軍の大砲が爆発した音に乗馬が驚いて後方に向けて走り出し、街道上の友軍をかき乱しながら戦場を離脱したので、旧幕府軍は総指揮官不在状態となった。(ここ笑うところw)
京都見廻組も混乱状態となったが、与頭の佐々木只三郎によって叱咤されて指揮統制を回復し、前方の薩摩軍へ向けて突撃前進した。薩摩軍の射撃によって突撃は撃退されたが、この間に旧幕府軍は体勢を立て直し、部隊を戦闘隊形に展開し始めた。踏みとどまった一部の兵と前進してきた後方の兵が展開して射撃を行ない、突撃を断念した京都見廻組も敗走した歩兵が捨てていった銃を拾い集めて火戦に参加した。
さらに、幕府陸軍歩兵第一連隊、続いて桑名兵など旧幕府軍部隊が続々と攻撃前進し、桑名藩の砲兵も到着し、砲撃を始めた。しかし、薩摩軍は凹型に展開しており、旧幕府軍は前進すると包囲の中に飛び込む形となり、前方および左右から射撃を浴びることとなった。そのため旧幕府軍の一部は薩摩軍最左翼の外城一番隊を攻撃し始めたが、そこへ長州軍の田村甚之丞率いる一個小隊が増援として到着し、薩摩軍左翼のさらに左に展開して、攻撃中の旧幕府軍の右側面を射撃したため、攻撃は撃退された。
旧幕府軍主力の薩摩軍中央への攻撃も大損害を受けて頓挫し、旧幕府軍は下鳥羽方面へ後退した。下鳥羽には公卿の菊亭家の米蔵があり、そこにあった米俵を使って幕府陸軍の築造兵(工兵)が陣地を構築し、旧幕府軍はその陣地に入って宿営した。この日の旧幕府軍の損害は大きく、そのうち歩兵第一連隊(1,000名)は過半数が戦死したと伝えられている。
4日午前5時頃、旧幕府軍は下鳥羽の陣地を出て薩摩軍陣地を攻撃した。旧幕府軍は前日に大損害を受けた第一連隊に代わって第十一連隊と砲4門を第一線として攻撃前進した。薩摩軍は私領二番隊が戦列に加わり、一部の部隊の位置が入れ替わった他は前日同様の配置であったが旧幕府軍は前日同様、戦線の中央突破を図ったため、包囲に飛び込む形となり、前方と左右より射撃を受けた。
そのため旧幕府軍の両翼の部隊は向きを変えて応戦したが、中央の部隊はなおも突進して薩摩軍中央の小銃五番隊、私領二番隊に迫り、猛烈な射撃を加えた。しかし薩摩軍はこれを持ちこたえ、旧幕府軍は戦線を突破することができなかった。しばらく両軍の間で火戦が行われたが、次第に旧幕府軍の損害が増え、旧幕府軍は攻撃を断念して下鳥羽の陣地へと後退した。
この戦闘において、馬上で第十一連隊を指揮していた幕府陸軍歩兵奉行並の佐久間信久が狙撃され、戦死した。 午前8時頃、薩摩軍は攻勢に転じ、下鳥羽の旧幕府軍陣地を攻撃した。この間、旧幕府軍は損害を受けた第十一連隊に代わって第十二連隊を前面に出して再度攻勢に出るつもりであったが、その前に薩摩軍の攻撃を受け、防御戦闘を行った。
旧幕府軍は米俵を胸壁としつつ薩摩軍に激しい射撃を浴びせ、薩摩軍は陣地に近づくことができなかった。薩摩軍は散兵で射撃し、そのうち小銃六番隊は一人あたり100発以上の射撃を行うなど、激しい火戦が行われたが、戦線を崩すことはできなかった。
そのため、薩摩軍は一旦後退して弾薬を補充した後、再度攻撃前進した。今度は小銃隊からの支援要請により小銃隊だけでなく砲隊も前進した。砲戦をしつつ前進した一番砲隊は4門の砲のうち2門が途中で破損したが、残りの2門が旧幕府軍陣地近くまで進出し、至近距離から榴弾を撃ち込み、米俵でできた胸壁を吹き飛ばして破口を作り、また旧幕府軍の砲台を制圧した。
正午過ぎには薩摩軍の増援として兵具方一番隊と一番遊撃隊が到着した。加えて、伏見からも小銃一番隊が転進し、薩摩軍最左翼の外城二番隊と協力して南下し、旧幕府軍の右側面を攻撃した。これにより旧幕府軍は前方と右側面より包囲されることとなった。旧幕府軍はしばらくは持ちこたえたものの、午後2時頃、富ノ森方面へ後退した。
この戦闘で幕府陸軍第十二連隊長窪田鎮章および連隊副長秋山鉄太郎が戦死した。富ノ森には築造兵が酒樽に土砂を詰めて畳や戸板などを積み重ねて胸壁とした陣地を構築しており、後退した旧幕府軍はその陣地に入った。
旧幕府軍の後退を受けて薩長軍は追撃に移り、私領二番隊、兵具方一番隊、一番遊撃隊、伏見から転進してきた三番遊撃隊、長州軍第三中隊が追撃を行った。午後4時頃、薩長軍は富ノ森の陣地を攻撃したが、陣地には旧幕府軍の小規模な一部隊しか残っておらず、主力は淀方面へと後退していたため陣地は容易に占領された。
その後、薩長軍は後退する旧幕府軍をさらに追撃した。薩長軍の進撃路である鳥羽街道は桂川の堤防になっており、右手は近くに桂川が流れており、左手は横大路沼から続く湿地と田畑が混在する地形であった。そのため薩長軍は部隊を広く展開することができず、狭い進撃路を進まざるを得なかった。薩長軍が街道を進んでいくと、前方の納所に旧幕府軍の陣地が構築されており、そこから砲撃を受けた。また横大路沼を挟んだ南東の伏見街道、淀堤にも旧幕府軍の砲台があり、その砲台からも砲撃を受け、薩長軍は前方と左側面からの十字砲火を浴びることとなった。
さらに、湿地帯の枯れた蘆荻の茂みには会津藩や大垣藩の部隊が少人数に分かれて潜伏しており、薩長軍の隊列が近づくと茂みから飛び出して槍や刀で薩長軍部隊の側面から斬り込み攻撃を行った。これらの砲撃と待ち伏せ攻撃によって薩長軍部隊は混乱し、後退しはじめた。これを見た旧幕府軍は薩長軍を追撃し、余勢を駆って富ノ森の陣地を奪還した。これらの経緯から当初旧幕府軍主力が富ノ森の陣地から撤退したのは薩長軍を待ち伏せに誘い込むための計略であった可能性を指摘する意見もある。
薩長軍はさらに後退し、旧幕府軍はこれを追撃したが、薩摩軍の小銃三番隊と二番砲隊が増援として到着し、射撃を行って友軍の退却を援護すると、旧幕府軍はそれ以上の追撃を止めて富ノ森の陣地に入った。すでに日没近くでありこの日の鳥羽方面の戦闘はこれで終わった。
5日朝、薩長軍は再度攻勢に転じた。薩摩軍小銃三番隊、小銃五番隊、小銃六番隊、外城二番隊、一番砲隊、二番砲隊、長州軍第三中隊が鳥羽街道方面の部隊として編成された。午前7時頃、薩長軍の小銃隊が富ノ森の旧幕府軍陣地への攻撃を開始した。これに対して旧幕府軍は砲と小銃により全力で射撃を行って抵抗し、薩長軍には弾丸が雨のように降り注いだ。
薩長軍は苦戦し、小銃五番隊監軍椎原小弥太、小銃六番隊隊長市来勘兵衛もこの戦闘で戦死した。小銃隊のみによる陣地攻略が困難なことから、砲兵による支援が要請され、大山弥助(大山巌)率いる二番砲隊砲6門が第一線に進出し、砲撃を開始した。この間、二番砲隊は旧幕府軍の歩兵が集結して逆襲に出る兆候があることを発見し、急遽取り寄せた臼砲による射撃でこれを阻止した。しかし、二番砲隊も旧幕府軍の激しい射撃を受け、敵弾を避けるために一時は伏せながら戦闘を行わざるを得なかった。
旧幕府軍はさらに反撃を行ない、薩長軍左翼の薩摩軍小銃三番隊の左側面へ会津兵が数度の白兵突撃を行ったが、この時には薩摩軍は旧幕府軍の白兵突撃対策として剣士と狙撃兵からなる掩護隊を配備しており、これによって会津兵の突撃は撃退された。
大規模な突撃が失敗したことから、会津兵は4、5名ずつの少人数の部隊に分かれ、匍匐で薩長軍の戦線後方へ浸透した。薩摩軍二番砲隊の位置まで浸透した会津兵は射撃中の二番砲隊へ斬り込み攻撃を行ったが刀槍を執った砲兵の白兵戦により撃退された。しかしこの戦闘で二番砲隊にも死傷者が発生した。このように二番砲隊は苦戦を強いられ、また、事故や被弾によって多数の砲が損傷し、砲弾も残り少なくなったことから砲兵として戦闘を継続することができなくなった。
そこで二番砲隊は小銃を執って小銃兵として前進した。連戦の一番砲隊は当初後方で補給と休息を行っていたが、二番砲隊苦戦の報を受け、臼砲2門と砲5門をもって第一線に進出した。一番砲隊は旧幕府軍陣地の至近距離まで進出して榴弾や散弾を撃ち込んで打撃を与えた。これらの砲撃と小銃隊の突撃により旧幕府軍は淀方面へ後退を始め、薩長軍はこれを追撃した。
旧幕府軍後方の納所の陣地は退却する友軍を収容しつつ小規模な部隊が守備を行なっていた。薩長軍が富ノ森を出ると旧幕府軍は射撃を行なって抵抗したがそれほど激しいものではなかったため、薩長軍はこれを意に介さず密集隊形で突進した。これを受けて納所の守備部隊も撤退し、午後2時頃、薩長軍は納所の陣地を占領した。薩長軍は引き続き淀小橋へ向けて追撃を行なった。
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