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⚫︎ 伏見方面での戦闘
1月3日、伏見では本来鳥羽街道方面の指揮官であった陸軍奉行・竹中重固が伏見に転じて指揮を執っていた。竹中重固は伏見奉行所を本陣とし、会津藩兵が奉行所の北西に位置する東本願寺伏見別院を駐屯地としており、旧幕府軍部隊はこの二箇所を中心として市街地に配備されていた。伏見における旧幕府軍の兵力は総兵力がおよそ4,000名であり、その内訳は幕府陸軍歩兵隊2個大隊および伝習隊1個大隊の3個大隊、砲兵若干、新選組150名、遊撃隊50名、会津藩1陣(4隊)と砲8門および別撰組1隊であり、さらに高松藩、鳥羽藩、浜田藩の部隊が後詰めとして控えていた。会津藩兵の一部(林権助指揮下の砲隊)は奉行所にも位置していた。
1月3日、朝廷より伏見の守備を命じられた薩摩、長州、土佐の部隊が伏見に配備された。薩長土の部隊は大手筋を境に旧幕府軍と対峙し、最右翼に土佐軍4個小隊が堀川(現在の濠川)のやや東に位置し、その左(東側)に長州軍2個中隊、その左に薩摩軍の外城四番隊の半隊、小銃二番隊、小銃三番隊が配備され、御香宮を角として直角に曲がり南に薩摩軍小銃四番隊、小銃一番隊、外城四番隊の残りの半隊が展開していた。また砲兵は砲5門が奉行所より高台にある御香宮に配備されて南の奉行所方向を狙い、薩摩軍の左翼陣地では砲2門及び臼砲2門の計4門が丘陵に配備されて西を狙っており、高所より旧幕府軍に十字砲火を浴びせられるようになっていた。伏見における薩長土の総兵力はおよそ1,200名であった。
鳥羽街道で旧幕府軍の入京を巡って問答が繰り返されていた頃、伏見でも午後2時頃より通行を巡っての問答が繰り返されていた。午後5時頃、鳥羽方面での銃声が聞こえると伏見でも戦端が開かれた。ただちに薩摩軍の砲9門が奉行所に十字砲火を浴びせた。薩摩軍砲兵の砲撃とほぼ同時に旧幕府軍は奉行所北側の門を開き、会津藩の砲兵が御香宮の薩摩軍砲兵に応射を行なった。
続いて会津兵と新選組を先頭に旧幕府軍数百名が突撃したが、薩摩軍はこれを砲兵が榴弾と霰弾で砲撃し、また小銃隊が道路の幅いっぱいに密集して前2列が膝射、後ろ2列が立射の4列横隊で猛射したため、突撃は頓挫した。そのため旧幕府軍は畳を集めて柵に立てかけ、仮の胸壁として身を隠して射撃を行ない、両軍の間で大砲、小銃による激しい火戦が行なわれた。
薩摩軍の射撃がゆるむ度に旧幕府軍は白兵突撃を試みたがいずれも正面及び右側面からの薩摩軍の射撃により死傷者が続出して失敗した。旧幕府軍は奉行所南東にも砲兵を進出させ薩摩軍砲兵に反撃したが薩摩軍砲兵によってほどなく制圧された。続いて旧幕府軍は奉行所の南東の砲兵陣地から東の薩摩軍陣地に向けて白兵突撃を繰り返したが、小銃と砲、臼砲の集中砲火を浴びていずれも失敗に終わった。
奉行所内に釘付けとなっていた新選組は、土方歳三の命により二番隊組長の永倉新八が隊を率いて奉行所の土塀を越え、薩摩軍が手薄と思われる方向に進出したが、正面の家屋内に突如現れた薩摩兵より銃撃を受け死傷者が発生した。そのため斬り込み攻撃を試みるも薩摩軍部隊は家屋に火を放って撤退したため、攻撃を断念して奉行所に戻った。
薩摩軍は旧幕府軍の攻撃をことごとく退けたが、薩摩軍が攻勢に出ると奉行所を守備する旧幕府軍の歩兵隊や伝習隊が小銃で激しい射撃を加えたため薩摩軍は多くの死傷者を出し、苦戦した。長州兵は薩摩兵の右に位置して会津兵に対しおり、街路の左右に交互に畳を立てかけて胸壁とし射撃していた。
午後8時頃、薩摩藩砲兵の放った砲弾が伏見奉行所内の弾薬庫に命中し大爆発を起こした。これにより、旧幕府軍は動揺し、しばらく射撃が止むと共に、敗走する兵が出始めた。動揺から回復した旧幕府軍は戦闘を再開し、午後11時頃になっても奉行所の高櫓から狙撃するなど抵抗を続けていた。
薩摩軍は少数の兵を奉行所の門の右脇の町家に忍び込ませて放火し、奉行所を焼き討ちにした。それと同じころ長州軍の挺進隊も奉行所に突入して放火した。これらの攻撃によって奉行所は炎上し、周囲を明るく照らし出したため、姿が浮かび上がった旧幕府軍の兵士は薩長軍に狙い撃ちにされた。
薩摩軍の臼砲が奉行所に接近して砲弾を撃ち込むとともに薩長の小銃隊も奉行所を包囲して射撃を行った。動揺した旧幕府軍はついに後退を始めたが撤退の命令は出されなかったため各部隊の判断によって後退していった。
午前0時頃、薩長軍は伏見奉行所に突入した。この時には旧幕府軍の部隊はほとんど撤退しており、抵抗は軽微であった。奉行所内には会津藩の大砲2門など多数の装備が残されていた。また、旧幕府軍は死傷者をおよそ6艘の舟に積み込んで大坂へ後送していたが、運びきれなかった死体が奉行所内の野戦病院に山のように積まれていた。奉行所内には旧幕府軍の負傷兵数十名が身動きが取れずに残されていたが、突入した薩摩兵によって全員斬り殺された。
旧幕府軍のうち会津兵や新選組、一部の歩兵は淀まで後退し、その他の部隊は堀川(現在の濠川および宇治川派流)右岸を占領して、各橋梁に防御陣地を構築した。奉行所から脱出した竹中重固はこの敗勢を受けて総督の松平正質と今後を協議するために淀に後退したが、指揮官不在となった伏見方面の旧幕府軍は統一した指揮を欠くこととなった。
伏見方面の薩長土軍は薩摩軍三番遊撃隊、二番砲隊が増援として到着し兵力が余ってきた事、伏見から淀までの進撃路が狭隘で大兵力の展開に適さない事などから、薩摩軍小銃一番隊、小銃三番隊、三番遊撃隊、一番砲隊の半隊、二番砲隊、長州軍第六中隊を鳥羽に転進させた。
1月4日朝、新政府軍と旧幕府軍は堀川をはさんで対峙していたが、午前8時過ぎ新政府軍が攻撃を開始した。長州兵、土佐兵は堀川に沿って南へ攻撃前進したが、西の対岸にも敵がいる事が判明したため一部の部隊は西へ向きを変え、その他の部隊は南へ向かい、対岸の中書島を守備する旧幕府軍を攻撃した。
薩摩軍二番隊は長州兵の左翼を進み、京橋水路の東に回り込んで対岸の中書島にいる旧幕府軍を撃退し、同島に渡って占領した。薩摩軍小銃四番隊は堀川に西面する長州兵、土佐兵と共に対岸の旧幕府軍を攻撃した。鳥羽方面に転進中の小銃三番隊、一番砲隊、二番砲隊もその途上で戦闘に参加した。堀川を隔てての射撃戦が続いたが、薩摩軍の臼砲弾が民家に命中し火災を発生させ旧幕府軍に打撃を与えた。
また京都から南下してきた土佐軍の山地元治指揮下の一個小隊が堀川の右岸を南進して旧幕府軍の左翼を攻撃したため旧幕府軍は動揺し後退していった。
長州軍第六中隊は鳥羽方面へ転進中に高瀬川の堤防で旧幕府軍部隊と遭遇した。両軍の間で激戦となったがやがて長州軍が旧幕府軍を撃退した。こうして午前10時頃までに堀川および高瀬川右岸から旧幕府軍が一掃されたが、薩長土軍はこれを追撃せず、伏見で停止した。
1月5日、薩長間での協議の上、新政府軍は長州軍第五中隊、第一中隊を先頭として伏見街道(淀堤)を淀方面へ向けて前進した。伏見の長州軍には砲隊がなかったため、因幡藩の砲2門が長州軍に随伴し、その後に薩摩軍の小銃隊(十二番隊、二番遊撃隊、三番遊撃隊、二番隊、四番隊、私領二番隊)と砲隊が続いた。
淀堤は宇治川右岸の堤防であり、南東に宇治川が流れ、北西は横大路沼から続く湿地帯であり、鳥羽街道方面同様、部隊を広く展開できない地形であり、新政府軍は狭い進撃路を進まざるを得なかった。
旧幕府軍は淀堤上の千本松に防御陣地を構築し、会津兵(含 別撰組)、新選組、遊撃隊と幕府陸軍の一個小隊が守備についた。その前方の警戒陣地には斥候と砲2門が配備された。
新政府軍の先頭である長州軍第五中隊が千両松付近に近づくと旧幕府軍は街道上の長州軍を砲撃し、長州軍がこれに応戦した。長州軍第五中隊は旧幕府軍の斥候と砲兵を射撃によって撃退し、砲2門を奪取した。すると枯れた蘆荻の茂みに潜伏していた会津藩の槍隊20~30名が長州軍の側面から白兵突撃を行ない、長州軍は射撃で応戦したが会津兵は長州軍の隊列に突入し乱戦となった。
この戦闘で第五中隊の中隊司令であった石川厚狭介が戦死した。長州軍第五中隊は何とか会津兵を撃退したが、死傷者が多数発生したため一旦後退して部隊の整理を行ない、代わって長州軍第一中隊と因幡藩の砲隊が第一線に進出した。新政府軍と旧幕府軍双方が小銃や大砲で射撃し、両軍の間で激しい火戦が行なわれた。新選組も砲2門で射撃を行なっていたが、新政府軍の射撃により隊士が死傷した。火戦で勝負がつかなかったことから、新選組と会津兵は白兵突撃を試みたが、新政府軍の射撃によって撃退された。
一方、川と湿地に挟まれて兵力を展開できない新政府軍も前進できず苦戦した。そのような中、因幡藩砲兵の砲が損傷し、射撃不能となった。薩摩軍の小銃十二番隊が長州軍の直後にまで割り込んで射撃を行なったが前進は困難であった。また、薩摩軍の臼砲が後方から友軍超過射撃をおこなったが、不慣れな間接射撃のため命中不良であった。
小銃十二番隊はそれでも前進を試みるが茂みに潜伏していた会津兵の槍隊による待ち伏せ攻撃を受けた。薩摩軍は射撃によって会津兵を撃退したものの、別の会津兵の一隊が藪の中から薩摩兵を激しく射撃し、さらに別の会津兵の一隊が斬り込み攻撃を行なって乱戦となり、薩摩軍にも死傷者が発生し、小銃十二番隊隊長の伊集院与一も戦死した。また、2門の砲のうち1門が損傷し、もう1門は弾切れとなった。
一旦後退していた長州軍第五中隊はこの状況を見て再度前進し、友軍をかき分けて第一線に進出し、旧幕府軍陣地へ向けて前進を始めた。旧幕府軍からの射撃を受けて第五中隊には死傷者が相次いで発生したが、これを意に介さず突進して旧幕府軍陣地に突入した。今回も潜伏していた旧幕府軍部隊が前進する長州軍へ斬り込み攻撃を試みたが後方の新政府軍部隊からの射撃によって撃退された。
第五中隊の敵陣突入に続いて、長州軍第一中隊、薩摩軍小銃十二番隊も前進し、新政府軍は大集団となって突進した。戦線を維持できなくなった旧幕府軍は淀小橋を渡って淀市街へ向けて後退し、これを追撃する新政府軍は午後2時頃、淀小橋に到達した。
3日、朝廷では緊急会議が召集された。大久保利通は「旧幕府軍の入京は新政府の崩壊であり、徳川征討の布告と錦旗が必要」と主張したが、松平春嶽は「これは薩摩藩と旧幕府勢力の私闘であり、朝廷は中立を保つべき」と反対を主張。会議は紛糾したが、議定の岩倉が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した。
山内容堂は在京の土佐藩兵に「此度の戦闘は、薩摩・長州と会津・桑名の私闘であると解するゆえ、何分の沙汰ある迄は、此度の戦闘に手出しすることを厳禁す」と伝令を通して告ぐが、伏見方面では土佐藩士・山田喜久馬、吉松速之助、山地元治、北村重頼、二川元助らの諸隊は藩命を待たず、薩土密約に基づき戦闘に参加し旧幕府軍に砲撃を加えた。
これが効を奏し幕軍は敗走。(渋谷伝之助隊は迷った末、参戦せず)土佐藩兵は勝利を挙げるが北村重頼率いる砲兵隊は妙法院に呼び戻され、厳しく叱責を受け切腹を覚悟する中、錦の御旗が翻り、藩命違反の処分が留保される。
この錦旗は、慶応3年10月6日に薩摩藩の大久保利通と長州藩の品川弥二郎が、愛宕郡岩倉村にある中御門経之の別邸で岩倉具視に委嘱された物であった。岩倉の腹心玉松操のデザインを元に、大久保が京都市中で妾のおゆうを通じて西陣で織らせて大和錦と紅白の緞子を調達し、半分を京都薩摩藩邸で製造した。もう半分は品川が材料を長州に持ち帰って錦旗に仕立てあげた。
新政府(官軍)の証である錦旗の存在は士気を大いに鼓舞すると共に、賊軍の立場とされてしまった旧幕府側に非常に大きな打撃を与えた。当時、土佐藩士として戦いに参加し、のちに宮内大臣や内閣書記官長などを歴任した田中光顕は、錦の御旗を知らしめただけで前線の旧幕府兵達が「このままでは朝敵になってしまう」と青ざめて退却する場面を目撃している。
当時の武士たちが朝敵を恐れた背景としては、源氏物語で有名な紫式部と藤原道長の妻の詩のやり取りにもある通り、菊に被せた真綿(絹製)の効能は永遠の若さの効能をもつとされる話がまだそれなりに信用を得ていた時代だったためとも解釈できる。
参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/鳥羽・伏見の戦い
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/錦の御旗
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/戊辰戦争
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