vol.142「江戸無血開城」について(後編)


西郷が徳川方の事実上の骨抜き回答という不利な条件を飲み、進撃を中止した背景には、英国公使ハリー・パークスからの徳川家温存の圧力があり、西郷が受け入れざるを得なかったとする説がある。




⚫︎ パークスと勝の密約


冷淡になったフランスに対し、意外な人物が慶喜助命に動き出す。イギリス公使のハリー・パークスである。1867年(慶応3年)、徳川慶喜が大政奉還すると、パークスはチェックメイトを確信していた。


「ミカド」支持派である薩摩・長州の勝利。イギリスにとっても、これは輝かしい結果だ。明けて1868年(慶長4年)には、鳥羽・伏見の戦いで敗北した徳川慶喜が、大阪から敗走したニュースが届くと、このタイミングでパークスは次の一手を指している。列強代表者による天皇への拝謁を企画したのである。


ここで天皇と列強が友好関係であると証明できれば、時代遅れの「過激な攘夷運動」も終わるはず。天皇が攘夷をやめる。やはりそれが手っ取り早い。しかし、この天皇との謁見において、パークスとフランス公使ロッシュが襲撃されるという事件が発生してしまう


ロッシュは激怒し、犯人の切腹を要求したが、パークスは何の抗議も賠償請求もせずに3日延期しただけで、予定通り天皇に謁見を果たした。「犯人を切腹させたらば、彼らは攘夷のヒーローとなるだろう。それに揉めるのはもう十分だ」そう判断したのである。堺事件のような、誰も得をしない騒ぎを起こすのは、もう十分であると。


幕末の局面において、日本に最も深く介入してきたのは、イギリスとフランスであった。フランスがともかく幕府贔屓で、箱館戦争にまで参戦した将校がいるほど熱い介入をしてきたのに対して、イギリスはクールである。表面的には冷静中立を装いながらも、自国への利益誘導をはかり、結果を出している


だが、勝利を確認したそんなパークスでも、理解できないことがあった。どうやら倒幕派が慶喜の処刑を望んでいるらしい。「なぜ今さら敗走したタイクーンの首が必要なのだ?」パークスは立場としては倒幕派を支援していますが、徳川慶喜の人間性を高く買っていた。また、西洋には伝統的に、降伏した将兵を丁重に扱うことで、騎士道をアピールする慣習がある。


戊辰戦争を目撃した外国人は、両軍ともに捕虜を容赦なく扱う場面を見て【驚愕と嫌悪感】を示しており、その執拗なる処罰への執着心=けじめのつけ方、には合理性を見出せないでいた。そんな折、幕臣の勝海舟がイギリス公使館のパークスを訪れて来た


パークスはそれまで勝とは顔を数回合わせた程度。部下のアーネスト・サトウから「勝は傑物」という評価を聞いていたが、好印象は特にない。しかし勝は、幕府とイギリスの間には未解決の問題もあるから、誠心誠意をもって解決したいと熱弁を奮う。するとパークスもだんだんと、彼の誠意を理解するようになる。


このときの勝は、全身全霊をこめて主君である慶喜助命に奔走していた。その真剣味を理解したのであろう。「それであなたはこれからどうするおつもりで? 幕府が難局にあることは、私も耳にしていますが……」パークスは、勝にそう水を向けてみた。


待ってましたとばかりに、勝は真剣に苦境を語り始める。同時に慶喜の助命を嘆願した。私とて平和裏に解決したい。しかし、もし西軍が江戸へ攻め込む気ならば、ナポレオンを迎え撃ったモスクワのように、街中を火の海にしてでも戦うつもりである――。


パークスはすっかり勝を気に入った。これがある意味、彼の誠実さで、たとえ敵対した幕府の関係者であっても、個人の人柄は称賛するわけである。むろん、パークスは好悪だけで判断したわけではない。もしも話がこじれて、西軍と東軍で戦争になり、勝の計画によって江戸が火の海になってしまったら、イギリスが建築した建物が建ち並ぶ横浜も無傷では済まない。となると、イギリスと日本の貿易にも悪影響が及ぶ。なるべくソフトランディングで政権交代を行うことが、イギリスの国益にも叶う。冷静にそう判断したのだ。


「あなたの言い分は理解しました。横浜に、アイロンジック号が停泊しています。これから一ヶ月、アイロンジック号を横浜に停泊させましょう。もしも西郷が慶喜の首を要求するようなことがあれば、イギリスはアイロンジック号で慶喜をロンドンに亡命させましょう」


江戸での会談を終えた西郷は、京都へ向かっていたが、ここでパークスから釘が刺されたと考えられる。


「我々は慶喜公とその支持者に対しては寛大な処置を求めます。もしも身体を傷つけるようなことがあれば、新たなる政府のスタートは、初手から評判を落とすことにもなりかねません」


西郷としては「イギリスは薩摩の味方であったのじゃなかとですか?」と言いたかったところであろう。背後に勝海舟の奔走を感じ取り「しもた!」とも思ったはずである。西郷には、既に慶喜を処刑する気は失せていたが、ここまでイギリスから言われのでは仕方ない。西郷としても寛大な処置が正解だと判断した


明治維新は、フランス革命等とは異なり、人命の損失が比較的少ないと言われている。もちろん勝や西郷のような、日本人の判断もあるであろう。しかしそれだけではなく「金の卵を産む鶏は殺さない」という、イギリスの判断と介入もあったと考えた方が自然なわけである。


戦前は、パークスやアーネスト・サトウのようなイギリス人外交官の存在は、日本政府にとって不都合な史実であったようで、サトウの日記は、禁書扱いされていたほど。【江戸城無血開城】に関しては、西郷と勝の活躍がクローズアップされる傾向があるが、実際は背後でイギリスが操っていたのだ




⚫︎ 城明け渡しと慶喜の水戸退去


勝との会談を受けて江戸を発った西郷は急ぎ上京し、3月20日にはさっそく朝議が催された。強硬論者だった西郷が慶喜助命に転じたことは、木戸孝允・山内容堂・松平春嶽ら寛典論派にも驚きをもって迎えられた。


西郷の提議で勝の出した徳川方の新条件が検討された。第一条、慶喜の水戸謹慎に対しては政府副総裁の岩倉具視が反対し、慶喜自ら大総督府に出頭して謝罪すること、徳川家は田安亀之助(徳川慶頼の子)に相続させるが、北国もしくは西国に移して石高は70万石ないし50万石とすることなどを要求した。しかし結局は勝案に譲歩して水戸謹慎で確定された。


第二条に関しても、田安家に江戸城を即刻返すという勝案は却下されたものの、大総督に一任されることになった。第三・四条の武器・軍艦引き渡しに関しては岩倉の要求が通り、いったん新政府軍が接収した後に改めて徳川家に入用の分を下げ渡すことになった。第五・七条は原案通り。


第六条の慶喜を支えた面々の処分については副総裁三条実美が反対し、特に松平容保・松平定敬の両人に対しては、はっきり死罪を求める厳しい要求を主張した。結局は会津・桑名に対して問罪の軍兵を派遣し、降伏すればよし、抗戦した場合は速やかに討伐すると修正された。この決定が後の会津戦争に繋がることになる。修正・確定された7箇条を携えて、西郷は再び江戸へ下ることとなった。


江戸へ再来した西郷は勝・大久保らとの間で最終的な条件を詰め、兵を率いて江戸城へ入城した。橋本らは大広間上段に導かれ、下段に列した徳川慶頼・大久保一翁・浅野氏祐らに対し、徳川慶喜の死一等を減じ、水戸での謹慎を許可する勅旨を下した。そして9日には静寛院宮が清水邸に、10日には天璋院が一橋邸に退去した。11日には慶喜は謹慎所の寛永寺から水戸へ出発し、同日をもって江戸城は無血開城、大総督府が接収。ここに江戸城は正式に大総督府の管下に入り、江戸城明け渡しが完了した。




⚫︎ 不満を持つ抗戦派たち


海軍副総裁の榎本武揚は徳川家に対する処置を不満とし、約束の軍艦引き渡しを断固拒否していたが、徳川慶喜が寛永寺から水戸へ移った4月11日、抗戦派の旧幕臣らとともに旧幕府艦隊7隻を率いて品川沖から出港し、館山沖に逃れた。結局、勝の説得により艦隊はいったん品川に戻り、新政府軍に4隻(富士・朝陽・翔鶴・観光)を渡すことで妥協したが、これにより降伏条件は完全には満たされなくなった。


その後も再三にわたり勝は榎本に自重を求めたが、徳川家に対する処分に不服の榎本はこれを聞かず、結局8月19日に8隻(開陽・回天・蟠竜・千代田形・神速・長鯨・美賀保・咸臨)を率いて東征軍に抵抗する東北諸藩の支援に向かった。後に榎本らは箱館の五稜郭を占拠し、最後まで新政府軍に抵抗した(→箱館戦争)。


また、徳川家処分に不満を持つ抗戦派は、江戸近辺で挙兵するが、新政府軍に各個撃破されていくことになる。福田道直率いる撒兵隊は1500人程度で木更津から船橋へ出て東海道軍と衝突、撃破された(市川・船橋戦争)。大鳥圭介と歩兵隊は下総国府台(千葉県市川市)に集結し、新選組の土方歳三らを加えて宇都宮城を陥落させるが、東山道軍によって奪還され(宇都宮城の戦い)、日光街道を北へ逃走し、その後東北から箱館へ転戦した。


一方、一橋徳川家家臣の渋沢成一郎・天野八郎らは、上野寛永寺に謹慎していた慶喜の冤罪を晴らし薩賊を討つと称して、幕臣などを集め彰義隊を結成し、上野の山に集結していた。江戸城留守居の松平斉民は、彰義隊を利用して江戸の治安維持を図ったが、かえって彰義隊の力が増大し大総督府の懐疑を招いた。


4月11日に慶喜が上野を退去した後も、彰義隊は寛永寺に住する輪王寺宮公現入道親王を擁して上野に居座り続けた。閏4月29日関東監察使として江戸に下った副総裁三条実美は、鎮将府を設置して民政・治安権限を徳川家から奪取し、彰義隊の江戸市中取締の任を解くことを通告した。その後、新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告し、5月15日に大村益次郎率いる新政府軍が1日で鎮圧した(→上野戦争)。


これらの戦いにより、抗戦派はほぼ江戸近辺から一掃された。




⚫︎ コレデオシマイ


勝はその後、静岡藩士となり、ごく短期間、明治政府に登用されるが、政府のやり方に反発してすぐ辞めてしまう。勝の目には、明治政府のやり方が、とてつもなくくだらないことに思えて仕方なかったようだ。たとえば鹿鳴館の舞踏会。勝のように粋な江戸っ子にとっては、無粋な田舎者の寄せ集めにしか見えず、江戸の情緒を破壊して、西洋の猿真似をしているように思えるわけで。さらには西郷が西南戦争を起こして散り、大久保もまた暗殺され……。

「一体何をやっているんでぇ」

勝の舌鋒鋭い政府批判は、留まるところを知らず。そんな勝の話をまとめたのが『氷川清話』である。歯に衣を着せない言い回しで、当時の時局をズバズバと斬っている。が、ただし勝は「信頼できない語り手」であり、この『氷川清話』には誇張や記憶違いも含まれているので、注意が必要とのこと。


一方、彼が完全に明治政府を見限っていたとも言い切れない部分もあり、ご意見番として意見を求められれば、きちんと答えたし、名誉職とはいえ政府から給料も出ていたわけで。多くの幕臣が困窮する中、勝は悠々自適の人生を続けた。天璋院篤姫と屋形船で遊び、昔話を語り合うこともあったとか。


「三百年の徳川幕府をあっさりと敵に売り渡し、二君に仕えるとは。勝というのは傑物かもしれんが、武士の風上にも置けぬ人物だ」

同じく幕臣であった福沢諭吉はそう考え、勝のことを嫌っていたという。


そして明治32年(1899年)1月19日。

勝は脳出血で倒れ、ブランデーを死に水かわりに口に含ませられて死去。享年77。

最期の言葉は「コレデオシマイ」であった。





参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/江戸開城
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2025/03/22/110048/3#i

https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2025/01/18/109381/2#google_vignette

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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