慶応4年(1868年)一月。
勝海舟は、氷川の自宅でゴロゴロしておった。このころ名目的に軍艦奉行ではあったが、弟子の坂本龍馬が不審な動きをしていたことを咎められ、実際には閑職であったそうな。
するとそこに、突然、登城せよとの連絡が。
「何言ってんでぇ、俺ぁいかねえよ」
まさか鳥羽伏見で徳川慶喜が大敗しているとは知らなかった勝はそう言い放ったが、しかし、いざ将軍様直々のお呼び出しと知って、慌てて浜離宮へ。するとそこには、上方に兵を残し、大坂から江戸へ開陽丸でトンズラこいて逃げ戻った慶喜らがおった。
コトの顛末を聞いた勝は激怒。
「なぜ尻尾を巻いて帰って来たんですか! こっちにゃあ、無傷の海軍がまるまる残ってます。城で持ちこたえてくれりゃあ、軍艦で駆けつけられたもんを!」と慶喜に迫ります。
慶喜としてはそういう問題ではなく、要するに戦場から離れたかったわけで。
ここで慶喜は、勝に頭を下げ
「これからは頼れるのはそち一人である」と言うわけです。
主君にここまで言われたら、引っ込んではいられないのが江戸っ子、勝海舟。いけすかねえとはいえ、主君は主君。それにこうも小さくなられては、放ってもおけねえ。勝の中で何かが芽生えた瞬間であった。
勝、全力の戦いがここから始まる。
⚫︎ 徳川を滅亡から救え!の巻
多くの人が慶喜の行動にはあきれ果てていた。幕府の中には「戦えば勝てる!」と主張する者もいるし、一方で「西軍は慶喜を殺す気でいると息巻いている」という情報も届く。そんな中、勝が陸軍総裁に任命され、幕府のトップに立たせらたるは勝海舟。
慶喜は、もはや恭順の意志を固め、徹底抗戦派の松平容保らの進言を拒否し、登城停止処分に。そして自らは上野寛永寺大慈院に入り、蟄居恭順の姿勢を見せるとの弱腰。それではおさまらない徹底抗戦派に付け狙われたりしながら、勝は慶喜の意見を尊重して、胃がキリキリするような状況で奔走する。
勝海舟が頼られた一方、捨てられた人物もいる。例えば、勘定奉行・陸軍奉行の「小栗忠順(おぐりただまさ)」。2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主役となる小栗は、シャープな知性と深慮遠謀を持ちあわせ、慶喜の袖を掴んでまで抗戦論を主張していた。
「フランスの支援を受け入れ、箱根から東に敵軍を誘い出すのです。そうすれば退路を断ち、勝つこともできる。そこで海軍を兵庫に回し、敵の背後を突く!わが方の榎本武揚は日本最高の海軍提督であり、軍艦装備も幕府海軍が圧倒的に上です。そのうち九州あたりで不満分子も挙兵するでしょう。そうなれば全国の大名は徳川につきます!」
しかし慶喜は、もはや完全に悪癖である臆病風に吹かれていた。毒殺を恐れ、食事すら江戸の料理屋から出前をとる始末。
「慶喜公は腰が抜けたのですか! いまさら恭順とは何事か!」
幕臣たちは怒り狂った。卑劣にも逃げ、しかもその軍艦に妾のお芳まで乗せていた。徳川武士の棟梁がこれでは……そんな絶望感が煮えたぎっとります。たまらず立ち上がった慶喜の袖を忠順はつかむが、慶喜はそれを振り払った。
有能なだけに、小栗ならできるかもしれない――しかし、慶喜からすればそれが怖かったのであろう。慶喜は勝海舟に全てを委ね、和宮を頼りにし、自分の首を保つことだけを考えていた。このあと小栗は罷免され、罪状もないまま処刑される悲運を味わうことになる。
浜離宮で勝が目にしたのは、こうして縮こまり、眠れず、飢えていた将軍の姿だった。もしかすると慶喜は「江戸城なら、もっとあたたかい歓迎をされるかも」と甘い願望を抱いていたかもしれない。聡明でありながら見通しが甘くなる悪癖が彼にはあった。
しかし実際のところ、幕臣にとっても、江戸っ子にとっても、愛すべき上様とは夭折した家茂である。慶喜は、家茂が若くして没したために京都で将軍となり、京都で政権を投げ出して勝手に帰って来た迷惑な親戚、といったところ。
慶喜が目にした江戸城内は無茶苦茶であった。普段ならば人がいて話声がする広間に誰もいない。そうかと思えば、あぐらをかいて座り込んでいる奴もいる。怒鳴り出す奴もいる。ブランデーの小瓶を出してクイっとやけ酒をあおっているまでいる。殿中自殺を遂げる者も出てきた。
そんな城に【鳥羽・伏見の戦い】で負傷した会津藩兵が運ばれて来る。慶喜は自ら見舞いに向かうと、その中にいた島津忠三郎がいきなり慶喜に言った。
「上様は正真正銘の腰抜けですな! しょせんあてにならない方だ。さっさと国の水戸にでもおかえりなさい。五千の兵でも集めて四境を固めればよいでしょうよ!」
さしもの慶喜も言い返せず、黙り込むしかできない。無礼だと嗜めるものすらいない。将軍に対する経緯どころか、冷たく無関心な眼差しだけがあった。まさに「針の筵」となった江戸城。「いっそ将軍を禁錮し、朝廷に差し出し、徳川家存亡をはかってはいかがか」こんなことまで提案されるほど、江戸城は無茶苦茶な状態だったのだ。
戦場からおめおめと逃げ帰った上様に対し、大奥からの風当たりも厳しい。なにせ、大奥は慶喜の父である徳川斉昭のころから彼らを憎んでいる。大奥女中を無理矢理暴行のうえ妊娠させ、予算削減しろといちいちねじ込んできた斉昭。その子の慶喜なぞ、顔を見ることすらおぞましい。
そもそも京都にいて大奥に足を踏み入れてもいない。そのくせ、予算削減だけはしつこかった! 布団を欲しいと言った慶喜に「予算削減で余った夜具なぞありません、毛布で寝てください」と仕返しする有様。歴代徳川将軍の中でも、毛布に包まって眠る羽目になったのは、それこそ慶喜だけだろう。
大奥の頂点に立つ天璋院篤姫も、当然激怒していり。弱腰の慶喜なぞ無視し、彼女は「奥羽越列藩同盟」に激励の書状を送り、かつ後に徳川家達となる田安亀之助に未来を託していた。
そしてもう一人、大奥から敬愛されていた人物といえば、家茂の未亡人・和宮がいる。夫の死後、京都に戻ることもできず、この大異変に突き当たった。剃髪して二の丸で暮らし、静寛院宮と称されていた和宮。そんな彼女に慶喜は泣きいた。「朝廷に逆らうつもりはなく行き違いだった、やむを得ないことだった」そう弁明した上で、徳川家の存続を朝廷に頼むよう訴えたのである。
和宮『静寛院宮日記』には、嫁いだからには徳川家を滅ぼしたくないと書かれており、美談として引用されている。その一方、和宮が当時残した書状には本音が書かれていた。――夫であった家茂のために苦労をするならばわかる。しかし、よりにもよって朝敵・慶喜ごときのために身命を捨てるなぞ、父である帝を穢すことになる。残念でなりません――。
ここまで慶喜に冷えきった心だったとはいえ、和宮は己の役割を果たした。朝廷との交渉を引き受けているのである。よほど堪えたのであろう。慶喜は、天璋院と和宮の慰霊は欠かさなかったとされている。このことを聞いた大久保利通は、こう書いた。
あほらしさの限りの御座候。
朝敵として討伐されながら、隠退くらいで謝罪になるって? 舐めてんのか? そんな苦々しい思いが記録されている。刀を抜いたらただでは収めない薩摩隼人とすれば、その情けない姿に闘争心を掻き立てられたことであったろう。
薩摩藩の面々は、会津藩のようにきっちりと筋目を通した相手は武士として敬愛を示す。敵ながら天晴れ!ということである。しかし慶喜についてはハッキリと軽蔑している。煮え切らない慶喜の態度は、かえって西軍を硬化させたのだった。
聡明であるはずの慶喜は、周囲の感情も、情勢も、何もかも読めていなかった。【江戸城無血開城】に向けて、さしたる役目もない。かつて慶喜に翻弄された山内容堂、松平春嶽らは朝廷工作に動いていた証拠がある。和宮もそう。しかし、松平春嶽がいつも優柔不断であると評した慶喜は、己の命を守るべく右往左往するばかり。
そんな慶喜は一縷の望みをかけ、フランス公使レオン・ロッシュに面会した。これまで慶喜を熱心に支えてきたロッシュとしても幕府を助けるべく提案します。
「全国の大名に向けた新たな政治体制布告を出しましょう。京都の朝廷とは、薩長の干渉がなければ交渉しないと追い返すのです。フランスから兵も送りますから、フランス人士官に指揮を任せてください」
実に具体性のある案。しかし……。
「ただ……それなりの資金をいただかねばできませんな。シャスポー銃の代金はいつお支払いいただけますか?」
ロッシュにも任務がある。ロッシュは情熱的な性格で、慶喜のことは愛弟子のように強い情愛すら見せていた。しかし、フランス本国でその姿勢が問題視されてもいた。慈善事業じゃあるまいし、やるなら結果を出しなさい。個人的感情に流されているのでは? そう疑念を抱かれており、これ以上甘い顔はできなかった。
結果、慶喜はフランスに頼ることを放棄。本人曰く「朝廷に弓を引けない」とのことですが、ならば、はなから頼らなければよく、つまりは言い訳だった。
⚫︎ 新政府側の強硬論と寛典論
新政府側でも徳川家(特に前将軍慶喜)に対して厳しい処分を断行すべきとする強硬論と、長引く内紛や過酷な処分は国益に反するとして穏当な処分で済ませようとする寛典論の両論が存在した。
薩摩藩の西郷隆盛などは強硬論であり、大久保利通宛ての書状などで慶喜の切腹を断固求める旨を訴えていた。大久保も同様に慶喜が謹慎したくらいで赦すのはもってのほかであると考えていた節が見られる。
このように、東征軍の目的は単に江戸城の奪取のみに留まらず、徳川慶喜(およびそれに加担した松平容保・松平定敬)への処罰、および徳川家の存廃と常にセットとして語られるべき問題であった。
一方、長州藩の木戸孝允・広沢真臣らは徳川慶喜個人に対しては寛典論を想定していた。また公議政体派の山内容堂・松平春嶽・伊達宗城(前宇和島藩主)ら諸侯も、心情的にまだ慶喜への親近感もあり、慶喜の死罪および徳川家改易などの厳罰には反対していた。
新政府はすでに東海道・東山道・北陸道の三道から江戸を攻撃すべく、正月5日には橋本実梁を東海道鎮撫総督に、同9日には岩倉具定を東山道鎮撫総督に、高倉永祜を北陸道鎮撫総督に任命して出撃させていたが、2月6日天皇親征の方針が決まると、それまでの東海道・東山道・北陸道鎮撫総督は先鋒総督兼鎮撫使に改称された。
2月9日には新政府総裁の熾仁親王が東征大総督に任命(総裁と兼任)される。先の鎮撫使はすべて大総督の指揮下に組み入れられた上、大総督には江戸城・徳川家の件のみならず東日本に関わる裁量のほぼ全権が与えられた。
大総督府参謀には正親町公董・西四辻公業(公家)が、下参謀には広沢真臣(長州)が任じられたが、寛典論の広沢は12日に辞退し、代わって14日強硬派の西郷隆盛(薩摩)と林通顕(宇和島)が補任された。
2月15日、熾仁親王以下東征軍は京都を進発して東下を開始し、3月5日に駿府に到着。翌6日には大総督府の軍議において江戸城進撃の日付が3月15日と決定されたが、同時に、慶喜の恭順の意思が確認できれば一定の条件でこれを容れる用意があることも「別秘事」として示されている。
この頃にはすでに西郷や大久保利通らの間にも、慶喜の恭順が完全であれば厳罰には及ばないとの合意ができつつあったと思われる。実際、これらの条件も前月に大久保利通が新政府に提出した意見書にほぼ添うものであった。
⚫︎ 諸隊の脱走と抗戦
2月5日には伝習隊の歩兵400名が八王子方面に脱走した(後に大鳥圭介軍に合流する)。また2月7日夜、旧幕府兵の一部(歩兵第11・12連隊)が脱走。これらは歩兵頭古屋佐久左衛門に統率されて同月末、羽生陣屋(埼玉県羽生市)に1800人が結集し、3月8日には下野国簗田(栃木県足利市梁田町)で東征軍と戦って敗れた(梁田の戦い)。古屋はのちに今井信郎らと衝鋒隊を結成し、東北戦争・箱館戦争に従軍することになる。
また、新選組の近藤勇・土方歳三らも甲陽鎮撫隊と称して、甲州街道を進撃し、甲府城を占拠して東征軍を迎撃しようと試みるが、3月6日勝沼で東征軍と戦闘して敗れ(甲州勝沼の戦い)、下総流山(千葉県流山市)へ転戦した。
これらの暴発は、陸軍総裁・勝海舟の暗黙の承認や支援を得て行われており、いずれも兵数・装備の質から東征軍には全く歯が立たないことを見越したうえで出撃していた。恭順路線に不満を抱いた主戦派を江戸から排除する目的もあったと思われる。
⚫︎ 山岡鉄太郎と西郷隆盛の交渉
差し迫る東征軍に対し、寛永寺で謹慎中の徳川慶喜は護衛していた高橋泥舟に恭順の意を伝えてほしいと述べた。高橋は、義弟で精鋭隊頭の山岡鉄太郎(鉄舟)を推薦した。山岡は徳川慶喜の使者として、3月9日慶喜の意を体して、駿府まで進撃していた大総督府に赴くこととなった。よく山岡は勝海舟の使者と説明されるが、徳川慶喜直々に命じられた使者である。山岡は西郷を知らなかったこともあり、まず陸軍総裁勝海舟の邸を訪問した。
この時代に190センチ近かったという鉄舟は、おそるべき大男である。勝は山岡とは初対面であったが、一見してその人物を大いに評価した。進んで西郷への書状を認めるとともに、前年の薩摩藩焼き討ち事件の際に捕らわれた後、勝家に保護されていた薩摩藩士益満休之助を護衛につけて送り出した。山岡と益満は、かつて尊王攘夷派の浪士清河八郎が結成した虎尾の会のメンバーであり、旧知であった。
山岡と益満は駿府の大総督府へ急行し、下参謀西郷隆盛の宿泊する旅館に乗り込み、西郷との面談を求めた。すでに江戸城進撃の予定は3月15日と決定していたが、西郷は山岡と会談を行い、山岡の真摯な態度に感じ入り、交渉に応じた。
ここで初めて、東征軍から徳川家へ開戦回避に向けた条件提示がなされた。このとき江戸城総攻撃の回避条件として、西郷から山岡へ提示されたのは以下の7箇条である。
1. 徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。
2. 江戸城を明け渡すこと。
3. 軍艦をすべて引き渡すこと。
4. 武器をすべて引き渡すこと。
5. 城内の家臣は向島に移って謹慎すること。
6. 徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。
7. 暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。
これは、去る6日に大総督府軍議で既決していた「別秘事」に(若干の追加はあるものの)概ね沿った内容である。山岡は上記7箇条のうち第一条を除く6箇条の受け入れは示したが、第一条のみは絶対に受けられないとして断固拒否し、西郷と問答が続いた。
ついには山岡が西郷に、「もし島津の殿様が誤って朝敵の汚名を着せられたら、先生は主君を差し出して平気でいられるのか?」と詰問すると、西郷は山岡の主君への赤誠なる忠心に触れて折れ、第一条を取り消すよう取り計らうと確約した。山岡は西郷の好みにあう、武士の中の武士であった。腹芸抜きに語り合ううちに、さしもの西郷も無血開城を受け入れたようだ。
翌10日、山岡はこの結果を持って江戸へ帰り、勝に報告した。西郷も山岡を追うように11日に駿府を発ち、13日には江戸薩摩藩邸に入った。江戸城への進撃を予定されていた15日のわずか2日前であった。
⚫︎ 勝・西郷会談
山岡の下交渉を受けて、徳川家側の最高責任者である会計総裁・大久保一翁および陸軍総裁・勝海舟と、大総督府下参謀・西郷隆盛との江戸開城交渉は、田町(東京都港区三田)の薩摩藩江戸藩邸にて、3月13日・14日の2回行われた。小説やドラマなどの創作では演出上、勝と西郷の2人のみが面会したように描かれることが多いが、実際には徳川家側から大久保や山岡、東征軍側から村田新八・桐野利秋らも同席していたと思われる。
勝と西郷は、元治元年(1864年)9月に大坂で面会して以来の旧知の仲であった。西郷にとって勝は、幕府の存在を前提としない新政権の構想を教示された恩人でもあった。西郷は、徳川家の総責任者が勝と大久保であることを知った後は、交渉によって妥結できるであろうと情勢を楽観視していた。
この間、11日には東山道先鋒総督参謀の板垣退助(土佐藩)が八王子駅に到着。12日には同じく伊地知正治(薩摩藩)が板橋に入り、13日には東山道先鋒総督岩倉具定も板橋駅に入った。江戸城の包囲網は完成しつつあり、緊迫した状況下における会談となった。しかし西郷は血気に逸る板垣らを抑え、勝らとの交渉が終了するまでは厳に攻撃開始を戒めていた。
3月14日の第二回交渉では、勝から先般の降伏条件に対する回答が提示された。
1. 徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する。
2. 慶喜を助けた諸侯は寛典に処して、命に関わる処分者は出さない。
3. 武器・軍艦はまとめておき、寛典の処分が下された後に差し渡す。
4. 城内居住の者は、城外に移って謹慎する。
5. 江戸城を明け渡しの手続きを終えた後は即刻田安家へ返却を願う。
6. 暴発の士民鎮定の件は可能な限り努力する。
これは、以前に山岡に提示された条件に対する全くの骨抜き回答であり、事実上拒否したに等しかった。しかし西郷は、勝・大久保を信頼して翌日の江戸城進撃を中止し、自らの責任で回答を京都へ持ち帰って検討することを約した。ここに、江戸城無血明け渡しが決定された。この日、京都では天皇が諸臣を従えて自ら天神地祇の前で誓う形式で五箇条の御誓文が発布され、明治国家の基本方針が示されている。
⚫︎ 焦土作戦の準備
勝は東征軍との交渉を前に、いざという時の備えのために焦土作戦を準備していたという。もし東征軍側が徳川家の歎願を聞き入れずに攻撃に移った場合や、徳川家臣の我慢の限度を越えた屈辱的な内容の条件しか受け入れない場合には、敵の攻撃を受ける前に江戸城および江戸の町に放火して、敵の進軍を防いで焦土と化す作戦である。
1812年にナポレオンの攻撃を受けたロシア帝国がモスクワで行った作戦(1812年ロシア戦役を参照)を参考にしたというが、それとは異なり、いったん火災が発生した後はあらかじめ江戸湾に集めておいた雇い船で避難民をできるだけ救出する計画だったという。勝は焦土作戦を準備するにあたって、新門辰五郎ら市井の友人の伝手を頼り、町火消組、鳶職の親分、博徒の親方、非人頭の家を自ら回って協力を求めた。
「勝さん、任してくだせえ。あっしは火消し長えことやってますから、どこに火ぃつけりゃ燃えるか、わかってますんで」
と、火消したちは乗り気だったらしい。その一方で、もう西郷と話を付けたという内容の高札を立てて、江戸の人々をとりあえず落ち着かせることも忘れはしなかった。西郷との談判に臨むにあたって、これだけの準備があったからこそ相手を呑む胆力が生じたと勝は回顧しているが、勝は特有の大言癖があるため、どこまでの信憑性があるかは不明である。
後編に続く
参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/江戸開城
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2025/03/22/110048/3#ihttps://bushoojapan.com/jphistory/baku/2025/01/18/109381/2#google_vignette
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