「小栗忠順(おぐりただまさ)」?
はて、どなた様で? 知りませんよ1mmも。なので以下は主に武将ジャパン様の秀逸記事からごそっと抜粋させていただきますが、ここは訪問者0の個人宅のようなものですんで、お許しくださいませませ。
⚫︎ 2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』小栗忠順
~なぜ近代化を推し進めた幕臣は殺された?
木戸孝允は、幕府の改革を目の当たりにし、徳川慶喜のことを「家康公の再来か」と感嘆したという。しかし、これは差し引いて考える必要がある。慶喜は江戸に身を置くことはなく、京都での政治を動かす立場に過ぎない。関東における近代化は有能な幕臣たちが立案、実行したものだからだ。
明治維新後、江戸は薩長への反発がくすぶっている事情もあってか、大久保利通は首都を関東ではなく、関西の大阪に遷都する計画を立てていた。しかし、江戸は既に近代都市への一歩を踏み出しており、それを活かす方が効率的。明治新政府は、この関東の近代化を無視できず、日本の首都は江戸改め東京となり、今日に至るまで続いている。
では、そんな江戸の近代化を進めたのは誰なのか?
筆頭にいたのが、2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』主役である「小栗忠順(おぐりただまさ)」であった。常人には無い慧眼でもって日本の未来を描いていながら、慶応4年(1868年)閏4月6日、いわれなき冤罪により処刑されてしまった悲運の幕臣である。
果たして小栗とは一体どんな人物だったのか? その生涯を振り返ってみましょうぞ。
⚫︎ 文武の才あれど頑固で風変わりな旗本
文政10年(1827年)安祥譜代(あんじょうふだい・松平氏以来の家臣)禄高2千5百石の小栗家に生まれる。同年に生まれた人物には、西郷隆盛、山内容堂、河井継之助がいる。
幼いころから際立っていたのはいじっぱりな性格で、強固な意思で友達を顎で使い回す姿。そんな性格であるためか、周りと喧嘩になることが多かった。いつしか「頑童」と噂されるようになり、自分とは話にならないと判断した相手には、とにかく冷淡であったという。のちに勝海舟は、彼を評して「生粋の三河武士で、了見が狭い」と語っている。頑固で何かに夢中になると視野が狭くなるところがあったのであろう。
忠順は12、13歳の頃になると、風変わりなところがますます目立ってくる。早くも喫煙を覚え、煙管でタバコをふかし、盆を叩く様子はひどく大人びていたとか。目上の大人相手に一歩も引かず「フン、フン」と相槌を打つ。この生意気な少年は一体どうなるのか? 周りはそう噂するばかり。賢いといえばそうだが、どうにも理屈ぽくてかなわん。あいつはなんだ、天狗か? 狂人か? 冷腸漢(風情を理解しない男)か? そうした証拠や証言が残されている。
例えば、花見に行ったとき。花にも美人にも目もくれず、気にするのは水利や川の堤防のことばかりで、周囲の人たちもうんざり。詩を詠むわけでもない。酒にも興味がない。書画に興味があるのかないのかもわからない。骨董品にも興味を示さないくせに、名人が描きあげたものは価値を納得して買い求めてゆく。
武術については剣、馬、弓のみならず、砲術の重要性を理解して習い、航海術や造船にも興味津々。こうした技術を学ぶうちに、黒船来航よりもはるか前に、結城啓之助との対話を経て「開国論」にまで到達するほどだった。
天保14年(1843年)。小栗忠順は17歳で登城を果たす。あまりにズケズケとした物言いだけに、反発を買って左遷されることはあったものの、突出した才能があるため、飛ばされては復職を果たすことを繰り返した。
忠順の本質は、幼少期から完成していたのであろう。理屈ぽく、その見通しは当たる。一方で、頑固で世渡りが下手なため衝突してしまう。そして迎えた嘉永6年(1853年)。ペリーが来航。激動の時代が訪れた。小栗忠順は安政4年(1857年)に御使番、安政6年(1859年)には本丸御目付となり、その十日後には遣米施設目付任じられた。
⚫︎ 井伊直弼に抜擢され、アメリカへ
ペリー来航後、幕政は騒然。安政5年(1858年)、幕臣・岩瀬忠震とハリスが交渉し、締結された【日米修好通商条約】の中には、日本側の使節がワシントンで条約書を交換するという条件があった。
そのため幕府は遣米使節を編成するが、ただでさえ課題山積みの中、幕閣内では政治闘争が起きており、人選は難航。外国奉行を使節のトップに据えるにせよ、これが揉めに揉める。このとき任命権限を有していたのは大老・井伊直弼。堀田正睦、岩瀬忠震、水野忠徳らは政治闘争等問題により任命されず、若小粒の人事となった。
正使・副使・監察は「三使」とされ、使節団のトップであるが、正使も副使も代打人事のために器不足で頼りない。となると、監察の人選が鍵を握る。なお、この使節派遣において、井伊はアメリカへ日本の小判がむやみに持ち出されている問題を精査したいと考えていた。そのためにはドルの価値を見定めねばならぬ。それができるほど経済に通じている適任者は誰か?
これを解決できる逸材、「監察」として、白羽の矢が立たったのが、他ならぬ小栗忠順――かくして77名の使節団第三位にその名が加えられ「三使」が乗船するポーハタン号に、遣米使節目付、三使末席「監察」として乗り込むことになった。
(しかし、かつての教科書や日本史の授業は、荷物輸送のために随行した予備の「咸臨丸」をメインであるかのように扱っている。これは咸臨丸に勝海舟と福沢諭吉という、筆と弁が立ち、明治以降発言力が高い二人が乗り込んでいたことが大きい。勝が大々的に抜擢されたといえるのは、この咸臨丸が日本に戻ってからのこと。『逆賊の幕臣』PRにおいても「小栗は勝のライバル」とされるものの、遣米使節派遣時は小栗が圧倒的上位で、実は比較になっていないのである。この理不尽な状況は修正され、今はポーハタン号こそメインであったと認知されつつあるものの『逆賊の幕臣』を機にこの認識が修正されることを願う)
二ヶ月の船旅ではひどい船酔いに悩まされ、皆顔面蒼白となりつつ、ハワイを経由し、アメリカへ向かった。サンフランシスコに到着すると、今度は汽車に乗った。このとき忠順と思われる日本人が質問をしていたことが記録されている。
「建設費はどれほどかかりましたか?」
「建設資金はどのように調達したのですか?」
ペリー来航時から、船の構造を探る奴がいる。アメリカでは汽車の建設費用を聞いてくる奴がいる。迎えるアメリカ側の『ニューヨーク・ヘラルド』は、忠順のことを「活気と知性、威厳、意思力があり、使節団の中でも最も油断ならぬ人物である」と記した。彼はアメリカの目から見ても、只者ではなかったのである。
一行がワシントンに着くと、忠順の好奇心は、海軍製鉄所で見た製鉄に最も惹きつけられた。木材や竹に頼った日本は火災に弱い。鉄が貴重で、火災の後は焼け跡から鉄を拾って使い直す。砂鉄をたたらで生産する日本と、鉄鉱石を高炉で溶かす製鉄ではまるでちがう。どうすれば日本でも大量製鉄ができるようになるのか?
忠徳はこの時代らしく、日本を「神州」、外国人を「夷狄」と呼び、敵対心を募らせていた。しかしアメリカからの帰国後、そんな考えはすっかり消え去り、どうすれば追いつけるのか、日夜頭を悩ませることになる。そしてこのとき忠順が持ち帰った「ネジ」こそが、日本近代化の象徴とされ、現在も群馬県高崎市東善寺に保管されている。
⚫︎ 通貨交換レートを分析し、金流出を防ぐ
もちろん井伊直弼から託された自分の役目も忘れてはいない。小栗忠順はフィラデルフィアで造幣局へ向かった。アメリカ側は見学だけだろうと思っていたが……。
「日米の貨幣価値を調べるため、金貨の成分を知りたい」
アメリカ側は焦った。今まで貨幣価値の不平等をつき、圧倒的に有利な取引をしてきたのに、それがついに暴かれてしまう。
「お時間がかかりますが……」
「それでも分析結果をいただきたい」
忠順は食事を造幣局まで持ち込み、粘った。この忍耐強さにはアメリカ側も驚くほかあなかった。日本側はこの調査結果をもとに、アメリカ側に貨幣交換比の是正を求めるが、交渉はアメリカ側に拒絶され、実らなかった。そこで日本側は使節団帰国後、対策を取ることにする。金の含有量を三分の一にまで減らした「万延小判」を発行したのである。
忠順の毅然とした態度、計算スピード、正確な見解は、アメリカを敬服させた。要は、通貨交換レートに不当な差があると認めさせたのである。
忠順の目的も終えた帰り道、一行は太平洋横断で帰国しようとするが、ポーハタン号の修理に時間がかかりすぎる。仕方なくナイアガラ号で大西洋を横断することとなり、結果、彼らは日本人初の世界一周体験者となった。
この旅行で、彼らは世界の姿を見た。船酔いに苦しむ日本人を親切に助けてくれる親切なアメリカの水兵。水夫の葬儀に上官が参加する身分のなさ。選挙で選ばれる大統領。阿片戦争に敗れ、支配されつつある清。奴隷を使役する西洋諸国の人々。
当時の日本人には誰もなし得ない見聞を広め、そして帰国の途についた。
⚫︎ 外交と経済通として活躍
帰国すると、日本はおそろしいことになっていた。徳川斉昭が【戊午の密勅】で朝廷を政治に引き摺り込んで幕政を乱し、【将軍継嗣問題】で失脚者が相次いでいた。使節が帰国する8ヶ月前、小栗忠順を抜擢した井伊直弼は【桜田門外の変】で殺害され、志士による尊王攘夷テロの嵐が吹き荒れていた。
攘夷を唱えなければ武士ではない――そう藩士たちが訴えるため、大名の中にも攘夷を唱える者が出てくる有様。期待を込めてアメリカに渡った一団は、攘夷派から真っ先に狙われかねない厄介者と化してしまったのである。アメリカで仕入れた知識を語ったら、軽蔑されるどころか、殺されかねない。そんな恐ろしい状況の中、忠順は明晰な頭脳ゆえに抜擢され続け、「外国奉行」としての交渉役が役割となってゆく。
忠順の政治外交姿勢は、井伊直弼路線であった。もしも井伊直弼が生きていたらどうなっていたのか? それは忠順の言動を辿れば把握できる。忠順は、幕府と朝廷が共に政治を進める【公武合体】に批判的だった。互いを干渉させない方がことはスムーズに進む。その点を重視していたのだが、この考え方は的中する。朝廷とりわけ孝明天皇を幕政に干渉させたため、幕府の権威は失墜し、倒幕へ繋がってゆくのであった。
そんな忠順の強硬な方針は、対馬対策が典型的である。文久元年(1861年)、ロシア軍艦が対馬を占領する事件が発生。ここで忠順は奇策を考える。対馬のような小さな藩では、外国に対応できない。むしろ開港したうえで幕府直轄領とする。場合によっては英国海軍の助力を得てはどうか?
忠順のこの発想は、三すくみと呼べる状態がある。対立軸が日・英・露となればかえって膠着してよいのではないか? そんな柔軟な発想であり、後に日露戦争へと続いてゆく3カ国の関係を踏まえれば慧眼であった。しかし、あまりに優れた策はかえって理解が得られ難いものだった。
忠順は幕府から函館在留ロシア領事ゴシュケビッチとの交渉を命じられるが、病気だとして断った。権限からしてゴシュケビッチと交渉をしても無駄だとわかっていたからである。そして外国奉行の職も辞してしまう。忠順は自分の意見を強硬に主張するため上司と衝突してしまい、ぶつかれば辞めてしまうのである。幕府としては、その明晰な頭脳が惜しい。そのため、その後も何らかの奉行に任じ、辞任、また別の役職に就く……そんなやりとりを幾度も繰り返した。
「また小栗様がお役替えだってよ」
「七十回を超えたって聞いているぜェ……」
江戸っ子がそう噂するほどであったという。
⚫︎ 造船所のネジから始まる日本の近代化
そんな小栗忠順には「成し遂げるべき」だと考える事業があった。造船所である。当時、国防を意識する日本では軍艦製造議論が沸騰。軍艦を購入すべきか? それとも自前で作るべきか? 薩摩藩の【集成館事業】が代表例であるように、藩によっては工業や軍艦製造に着手はしていた。
しかし、藩によって重点の置き方が異なり、水戸藩・徳川斉昭の場合、【廃仏毀釈】の前身ともいえる寺社仏閣弾圧の口実として造船をしたためか、使い物になっていなかった。そうした藩ごとの対処ではなく、幕府主導ですべきである。買うだけではなく、作らねばならぬ。それが忠順の信念だった。
外国から船を買っても修理できねばそれで終わるが、造船所があれば修理はできる。理にかなった考え方だ。では、どこから援助を受ければよいか? オランダは大国ではない。イギリスは信頼できない。ロシアは南下を狙っているようで油断ならない。アメリカは南北戦争で大変な状態だ。
そんな中、忠順と親しい幕臣の栗本鋤雲が、フランス人のメルメ・カションと語学を教えあって交流し、ロッシュとまで交際するようになっていた。幕府は消去法と栗本鋤雲の人脈もふまえ総合的に判断し、フランスを選んだ。かくして幕府は、忠順のビジョンとフランス指導のもと、造船と製鉄に乗り出してゆく。小栗忠順が持ち帰った一本のネジから、日本の近代化は始まったのである。
忠順の手がけた造船所は、それまでの水力ではなく蒸気機関を利用したものであった。フランス人技師ヴェルニーの指導を受けた製鉄所では,フランス語の授業も含め、給与を払いながら技術を学べるシステムが採用された。造船所のために産業を興し、製鉄のために鉱山を開発する。大砲や武器を作る。そこには国を新しくするビジョンが明確にあった。
同時に軍事制度も変えられてゆく。どの国を模範とすべきか? そんな議論があったものの、栗本鋤雲の推進もありフランス式に決定。しかし、その影で暗躍していたのがイギリスだった。南北戦争が終結し、余った武器を売りたいグラバーが薩摩に接近していたのである。。。
後編に続く
参考
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