vol.145 『逆賊の幕臣』について(後編)


小栗忠順が持ち帰った一本のネジから、日本の近代化は始まった、、だと? 

そんなの習わなかったし聞いたこともなかったのに。。まじか。





⚫︎ 金がない! ならばどうする?


鉄や造船などの重工業。こうした国家事業を展開するのに必要なのが資金であるが、いかんせん金が足りない。しかしどこから金を捻り出す? 周囲はその現実を前にこう漏らす。「もう徳川の世は持たんのではないか……」


すると小栗忠順はこう返す。


「もう火の車だなんてこた、改めて言われんでもわかっちゃいる。だが、徳川がいざ身売りするとなったとしても、これだけの施設があれば、土蔵付きの売家を残して威張れるだろうさ。どのみち金がないんだ、やらなかったからといって余裕ができるわけでもない。本当に必要なところに金を費やすといえば、余計な出費を抑えられるかもしれんだろう」


徳川が早晩終わることは目に見えている。しかし、この国は終わらない。ならば近代化を進めておいてやろう。そう割り切っていたのである。己一人の巧利ではなく、天下国家を見据えた彼の器の大きさが窺える言葉だ。彼はそこで諦めることはせず、金を生み出し、経済を回す方法を考える。


そうして考案されたプロジェクトが税制改革や生糸貿易、鉱山開発など。生糸は当時の西洋列強からすれば、垂涎ものの輸出品。シルクドレスが広まる中、欠かせぬものとして需要が右肩上がりであったにも関わらず、清は輸出に消極的だった。中でもフランスは、伝染病の蔓延により、養蚕業が壊滅的な打撃を受けていた。上質な生糸獲得を模索していたところ、日本を見出したのである。


さらに慶応3年(1867年)、忠順は兵庫開港を前提として、日本でも株式会社(コムペニー)の設立を提議する。「兵庫商社」という名称で、商人の資本を集めて外国と対抗し、貿易の不利を解決するのが狙いであった。


当時の江戸では、日本初となる洋式の築地ホテル工事も最終盤にあった。手掛けたのは清水喜助。大工の清水屋二代目棟梁であり、清水建設の創業者であり。彦根藩や佐賀藩の御用達であり、幕府からも仕事を依頼されていた清水屋は、自腹を切ってホテル建設に乗り出していた。その計画も忠順が立案したものだ。立案のみならず、実行に移すために彼が集めた商人や職人たちの人脈も、近代化に欠かせぬものとなる。

それだけではない。造船会社、ガス灯、郵便制度、電信、鉄道、語学学校と、明治以降に広まる文明開花の要素は、幕末の忠順が既に青写真を描いていたものだ。むしろ明治新政府は、維新の最中に人材を殺害や放逐させてしまった。維新に伴う内戦および人材の損失がない方が、日本の近代化は順調であったとしてもおかしくない。


残念ながら明治維新を経て忠順の功績とはならず、その断片を拾い集めた者たちが後を引き継いでいたのである。ともすれば薩長土肥の人物や渋沢栄一はじめ、明治政府に仕えた人物が発案・実行したものだと思われがちであるが、日本の近代化は、幕臣による土台があったことは、これまでの大河ドラマはじめ幕末ものでも触れるべきであった。


『逆賊の幕臣』は、こうした過去の大河ドラマが広めた誤解を払拭する使命がある作品なのである。





● 幕府崩壊


小栗忠順は、諸藩とイギリスの結びつきに警戒を抱いていた。慶喜が【参預会議】を崩壊させ、薩摩藩を遠ざける一方、イギリスはこうした勢力に接近を図っていた。それが慶応3年(1867年)、徳川昭武らが派遣されたパリ万博で露わになる。そして小栗が懸念する事態は、あっという間に進んでいった。


【大政奉還】を経ての【鳥羽・伏見の戦い】における敗北。そして将軍慶喜の江戸への帰還。幕府はもろくも崩壊してゆく。江戸にいた忠順は全てを後から知った。たしかに【大政奉還】には【倒幕の密勅】を無効にする目論見があったろう。それでも小栗忠順からすれば、土佐藩の案にうかうかと乗り、幕臣や会津・桑名を絶望させた愚行である。もしも京都に小栗忠順がいれば、止めたであろうことは間違いない。が、そこに忠順はいなかった。


慶応4年(1868年)一月。

すごすごと江戸城に入った慶喜に、小栗は持ち前の鋭い舌鋒を叩きつける。


「我々に叛逆の名に値する道理なぞありませぬ、否は、すべて相手にあります! 速やかに正義の一戦に挑みましょう! 我々は、武士として正しい道をとるべきです!」


忠順は彼の策を述べた。


こちらには海軍力がある。榎本武揚は当時最高の海軍提督であり、軍艦装備も幕府海軍が圧倒的に上であった。英米もこれを察知しており、【長州征討】では海戦を避けるよう、幕府に強硬な圧力をかけていたほど。福沢諭吉も明治になってから、【長州征討】の時点で海軍を動員して幕府が勝利を収めていればよかったと振り返っている。後の【戊辰戦争】でも幕府海軍は連戦不敗。新政府側が英米の援助を受け、【箱館戦争】でようやくとどめを刺したものの、海戦で幕府は負けていたとはいえない状況だった。


それに陸軍力もある。京と大坂で敗北したとはいえ、まだ無傷かつ、元込め式最新鋭のシャスポー銃武装をした陸軍がいる。【戊辰戦争】に参戦した佐幕諸藩の軍勢も健在。庄内藩は最新鋭の武装をしており、局地選では連戦連勝。秋田藩を追い詰めたほどである。フランスの支援を受け入れ、箱根から東に敵軍を誘い出す。そうすれば退路を断ち、勝つこともできる。そこで海軍を兵庫に回し、敵の背後を突く。そのうち九州あたりで不満分子も挙兵するだろう。そうなれば全国の大名は徳川につく――


そう具体性のある作戦を述べた。


しかし慶喜は、悪癖である臆病風に吹かれていた。たまらず立ち上がった慶喜の袖を忠順は掴むが、慶喜はそれを振り払った。慶喜は勝海舟に全てを委ね、和宮を頼りにし、自分の首を保つことだけを考えていた。そんな主君の意を受け、勝海舟が小栗忠順の前に立ち塞がる。


小栗忠順はポーハタン号、勝海舟は咸臨丸でアメリカに渡った幕臣同士の対立だった。勝海舟も海軍力の優位性は理解している。それでも勝てるかどうかわからない。そこを突いて、さらに勝海舟は「ここで内戦なんてやらかしたら、植民地にされるかもしれん!」と主張した。これはある程度説得力があるためか、現在でも用いられる理論だが、しかし過ちであると言える。


フランスにせよ、イギリスにせよ、日本は無理に戦って植民地にするよりも同盟国としての方がメリットがある。むしろ勝はイギリスのパークスと交渉し、慶喜助命に邁進している。何がなんでも慶喜のために奔走した勝は、嘘八百だろうと言わねばならかったことは確かだろう。さらに勝は生き、小栗は命を落とした。どうしたって欠席裁判状態になってしまうわけである。


勝海舟の仕事は明確であった。新門辰五郎ら火消しに声をかけ、焦土作戦案を立てる。同時に、相手の敵意をかきたてる会津藩や新選組は追い払う。主戦論者の小栗忠順も、追い払うべき存在になった。袖を掴んだ翌15日、小栗は罷免を言い渡された。そして彼は知行地である上州権田村へ。妊娠中の妻・道子らと家族と、家臣たちを連れての退去であった。


かくして忠順、そして幕府の勝機は永遠に去った。





● 罪なくして斬らる


そんな小栗忠順のもとへ、幕臣・渋沢成一郎がやってきた。のちに彼は、彰義隊を率いて【上野戦争】を戦うことになる。忠順はそれに対し、こう返す。


「開戦しようとは思った。しかしもう主君が恭順を決めたからには、名義が立たない。江戸は他人のものとなる。会津や桑名と東北諸藩が戦うだろうが、数ヶ月後もすればおさまるだろう。権力の争いが起き、内部分裂し、群雄割拠となるやもしれん。そうなったら、この地で檄を飛ばし戦おう。そうならなければ、前朝の頑民(旧主以外に仕えない、弍臣にならない頑固な者)として生きようと思う」


この見通しは、当たった。


江戸は東京として新政府のものとなる。明治の江戸っ子たちは「おはぎ(長州)とおいも(薩摩)のせいで江戸が無茶苦茶になった」と嘆いた。戊辰戦争は数ヶ月で終わり、内部分裂はその通りとなる。群雄割拠とまではゆかずとも、藩閥政治による権力争いが生じ、士族の反乱が続発した。西南戦争まで動乱の世が続いたことを皆さんもご存知であろう。


では、仮に小栗忠順の策が実現していたらどうなっていたか? ヒントは残されている。


西郷隆盛は忠順の策をみて「偉大なる権謀家」と評している。大村益次郎は忠順の策を知ると、これが実現していたら命がなかった漏らしたとされる。もしも実行されていたら我々は勝てなかった、と。おそるべき大戦略が、忠順のうちには詰まっていたのである。


小栗一家は混乱した上州権田村に落ち着いた。小栗は、打ちこわし騒動が起こる中でも大勢の民を説得し、騒ぎおさめた。その後は新居の建築を見守り、初めての妊娠となる道子の安産祈願をする中、静かに生きていた。そんな権田村に、東山道軍が迫っていた。


幕臣随一の知恵者であり、徹底抗戦を主張していた小栗忠順が、権田村にいるらしい。勘定奉行だったこともあるし、たんまりと金もあるのだろう。そうだ、きっと「徳川埋蔵金」だ! そう早合点し、東山道鎮撫総督府は、高崎、安中、吉井の三藩に小栗追補令を出した。


すると小栗は東善寺で彼らを出迎え、丁寧に対応した。詮議のもととなる武器を引き渡し、捜索を受け入れたのである。その旨を報告すると、軍監の二人、原保太郎(22歳、長州藩)と豊永貫一郎(18歳、土佐藩)は「どのような謝罪があったにせよ、奴は大罪人である! 早々に捕らえよ!」と激怒した。


忠順は異変を察知し、妻子を会津と家臣を逃す手筈を整えていた。そのうえで権田村の人々に迷惑をかけるわけにもいかないと覚悟を決め、抵抗することもなく小栗忠順と家臣三名は捕らえれる。閏4月6日、取調べもないまま、烏川水沼河原に引き出された。何か言い残すことはないかと問われ、「すでに妻と母は逃した。どうか婦女子には寛大な対応を頼む」と答えた。


家臣の大井磯十郎はたまらず「一言の取り調べもないまま、お殿様がこのような最期を迎えるとは!」と叫ぶが、忠順は「磯十郎、おのおのがた、この期に及んで未練がましいことは申すな」と言い、後ろ手に縛られたところ、背後で刀を振り上げた原保太郎が「斬りにくいじゃないか、もっと首を下げんさい」といい、棒で忠順の腰を突いた。


「無礼者!」振り返り、激怒を顔に浮かべ、忠順はそう叫んだ。その首に刀が振り下ろされ、一振り、二振り、三振り目でようやく胴と首は別れた。このとき、主君のために叫んだ大井含め、家臣三名が斬られた。


なお、独断で小栗忠順を処刑した原は、長州閥の政治家として順調な出世を遂げ、昭和まで生き、89歳で大往生を遂げている。後生で「かわいそうなことをした」と振り返っているが、あまりに遅すぎる後悔であった。かくして小栗忠順は、明治の世を見ることもなく、命を落とした。享年42。


このあと、養子・忠道と家人四名が取り調べもないまま斬られた。しかも西軍は小栗家の家財道具を没収し競売すると、軍資金とする。小栗忠順の身重の妻ら家族は、険しい道を逃れながら会津へ。道子は遺児・国子を産み、会津を離れ、江戸改め東京まで戻り明治を生きることとなる。この国子の婿養子となった小栗貞雄が家を継いでいる。


小栗忠順・最期の地に建てられた慰霊碑には、こうある。


罪なくして此所に斬らる――。

『維新前後の政争と小栗上野介の死』の著者である蜷川新が、そう記したのであった。





● 小栗忠順が評価される新時代へ


明治時代を迎えると、小栗忠順の功績は、まるで塗り潰されたかのように消されていった。世直しを掲げ、倒幕を果たした志士たちのものとされていったのである。これは何も明治だけでなく、現在でもそうかもしれない。明治以降から現在まで、忠順の功績をめぐる攻防は続いている。


世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がその一例だ。この世界遺産に含まれている萩の反射炉は水力が動力源です。しかし、小栗忠順ら幕府が手がけた「横須賀製鉄所」が含まれていない。動力の切り替えこそがまさしく近代日本の産業革命への大きな一歩となったはずであるが、それが含まれていないことに疑念を感じる。横須賀製鉄所が含まれていないにも関わらず、松下村塾はここに入っているのも不可解だ。松下村塾は産業というよりも、思想を学ぶ教育私塾であり、産業革命には関係ない。選定の意図に恣意的なものを感じさせる。


しかし、偉大な功績は、完全に消し去ることができるものでもない。前述の通り大隈重信は「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語っている。明治45年(1912年)、日露戦争終結後、東郷平八郎は自宅に小栗貞雄・又一父子を招き「日本海海戦に勝利できたのは造船所と製鉄所を建設した小栗忠順のおかげである」と述べ、「仁義禮智信」という書を贈っている。


新政府側からもそうであれば、幕臣からすればより情熱的な顕彰がなされてきた。冤罪でありながら幕府に殉じた忠臣としての評価も加わっている。そしてここにパワーゲームが見て取れる。幕末を舞台とする大河ドラマを鑑賞する上でも重要である。


小栗忠順という人物は、本人の功績のみならず、需要の面においても興味深いことは確かだ。私たちが日本にいる限り、何かしら彼の残した業績の恩恵を日々受けてはいることであろう。それなのに彼の功績は広まっていかない――そんな悲哀を考えずにはいらない。


2027年『逆賊の幕臣』は、日本人の歴史意識を大きく変える一歩となる。なぜ、これほどの大人物が隠されてきたのか? そう問いかける作品となることを願ってやまない。




↑ ですって。

これはなかなか楽しみですな。だから歴史って面白い。まだまだ知らないことや、偏った認識だったことだらけのようで。


って、じゃあ永遠に勉強終わらないじゃーん泣




参考

https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2025/04/05/161273

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。