vol.147「彰義隊と上野戦争」について


彰義隊(しょうぎたい)と読むそうで。確かに上野に行くと見かけるが、あまり詳しくは知らんですな上野戦争て。なんでも1日で終わったとか。なのに戦争て。ぼくらの7日間戦争より短いくせにずいぶんとまあ大袈裟なネーミングな気もするが、まあ中身を詳しく勉強してみましょうかね。




⚫︎ 結成から解散勧告まで


鳥羽・伏見の戦いの後、慶喜は江戸城へと移っていた(と言うか逃げ帰っていた)。それから1868年2月11日に新政府に対する恭順の意を表し、翌12日、上野寛永寺に蟄居する。


これに不満な幕臣の「本多敏三郎」と、幕府陸軍調役の「伴門五郎」が11日に檄文を発し、有志へ会合を持ちかけた(そりゃそうなるわな)。翌12日、集会場所に指定した雑司ヶ谷の酒楼「茗荷屋」には、一橋家ゆかりの者ら17名が集まり、寛永寺に謹慎した慶喜の復権や助命について話し合った。17日には四谷鮫ヶ橋の円応寺に場所を移し、30名ほどで会合を行っている。


同月21日に開かれた会合には、元一橋家家臣で幕臣の「渋沢成一郎」を招いただけでなく、幕臣以外にも有志を求めたため、諸藩の藩士や旧幕府を支持する志士までもが参加している。その結果、会合は組織へと変化し、尊王恭順有志会が結成され、「尽忠報国」(国に報いて忠を尽くす)とともに「薩賊」の討滅を記した血誓書を作成。23日に浅草本願寺で行われた結成式では、「大義を彰(あきら)かにする」という意味の「彰義隊」と命名し、改めて血誓状を作成した(慶喜とめろや)。


頭取には「渋沢成一郎」、副頭取には「天野八郎」が投票によって選出される。、天野は幕臣ではないものの胆力があり、隊士の支持を受けて中心人物となった。旧幕府は彰義隊の存在が新政府に対する軍組織と受け取られることを恐れ、彰義隊と治安改善を願う江戸住民に対する懐柔を兼ねて「江戸市中取締」に任じた(勝の采配かな)。結成の噂を聞きつけた旧幕府ゆかりの者のみならず、町人や博徒、侠客も参加し、隊が千名を超える規模になった。4月3日に本願寺から寛永寺へ拠点を移動している(膨れ上がっとる)。


4月11日に江戸城が無血開城し、慶喜が水戸へと退去した。彰義隊士は慶喜を千住から下総松戸まで護衛を行ったが、彰義隊自体は寛永寺に止め置かれた(ついてくんなってか)。幕臣の「勝海舟」は、武力衝突を懸念して彰義隊の解散を促したが(やはり)、東征軍(明治新政府軍)と一戦交えようと各地から脱藩兵が参加し、最盛期には3000人から4000人規模に膨れ上がる(増えるわかめ)。


渋沢成一郎は慶喜が江戸を退去したため、彰義隊も江戸を退去し日光へ退くことを提案したが、天野は江戸での駐屯を主張したため分裂。天野派の隊士の一部が渋沢の暗殺を謀ったため、渋沢は彰義隊を離脱(渋沢が一時期軟禁されたとの説がある)、一時姿を隠していたが、同志とともに飯能(現:埼玉県飯能市)の能仁寺で「振武軍」を結成し、独自に活動を展開した(詳しくは次回にて)。


江戸開城以降、関東地方各地で旧幕府陸軍兵士らが盗賊と化し(なぜ)、幕府復興を名目に放火や強盗を働いた(おい)。彰義隊の新政府への敵対姿勢も改まらず、彰義隊隊士の手で新政府軍兵士への集団暴行殺害が繰り返されていた(こら)。


事態の沈静化を願った勝海舟ら旧幕府首脳は、彰義隊と同じく慶喜の警護役をしていた幕臣「山岡鉄舟」を輪王寺宮の側近「覚王院義観」と会談させ、彰義隊への解散勧告を行った。しかし義観は彼を裏切り者と呼び、説得に応じなかった(だめだこりゃ)。


京都の明治新政府は、関東の騒乱の原因の一つを彰義隊の存在と考え、彰義隊に江戸警備の任務を与え懐柔しようとした勝ら旧幕府首脳、また旧幕府首脳に江戸治安を委任していた東征軍の西郷隆盛から職務上の権限を取り上げ、彰義隊を討伐する方針を決定。西郷に代わる統率者として「大村益次郎」が京都から着任した(ほら〜怖い人来たで〜)。

新政府側は、1868年5月1日に彰義隊の江戸市中取締の任を解くことを通告し、新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告した。これにより、彰義隊との衝突事件が上野近辺で頻発。軍務局判事(兼江戸府判事)として江戸に着任していた大村益次郎の指揮で武力討伐が決定、同14日に彰義隊討伐の布告が出される。





⚫︎ 上野戦争


上野周辺などで彰義隊ら旧幕府軍の関与が疑われる殺傷事件が続発したこともあり、慶応4年5月13日に東征大総督府は上野の東叡山に集まった旧幕府軍を討伐する準備を各藩に命じた。また上野からの逃亡に備え、忍に芸州藩兵50人、川越に筑前藩兵50人、古河に肥前藩兵の配置を指示した。


5月14日、大総督府は寛永寺の旧幕府軍を討伐することを正式に決め、翌日の戦火に備えて「徳川家達」に徳川家の位牌や宝物などを寛永寺から避難させるように命じる。また、輪王寺宮には寛永寺からの速やかな退去を勧めた。同日夜、徳川家達の家臣たちは、徳川家の位牌や宝物などを避難させ終わるまで攻撃開始を遅らせるように大総督府に求めるとともに、寛永寺の旧幕府軍に解散を求めたが、手遅れだった(絶望感)。


指揮官の大村益次郎は、上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断。三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。作戦会議では西郷隆盛は大村の意見を採用したが、薩摩軍の配置を見て「皆殺しになさる気ですか」と問うと、大村は「そうです」とにべもなく答えたという。(軍事的反抗を行う旧幕府勢力には妥協せず徹底的に殲滅するのが当時の新政府軍の方針であり、その方針は続く会津戦争でも遺憾なく発揮される)

5月15日、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。戦闘は雨天の中行われ、北西の谷中方面では藍染川が増水していた。新政府軍は新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあったが、加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤山砲による砲撃を行った(容赦なし)。

彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近)から応射した。西郷が指揮していた黒門口からの攻撃が防備を破ると彰義隊は寛永寺本堂へ退却するが、団子坂方面の新政府軍が防備を破って彰義隊本営の背後に回り込んだ。午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅し、彰義隊の残党が根岸方面に敗走した(圧倒的瞬殺)。

戦闘中に江戸城内にいた大村が時計を見ながら新政府軍が勝利した頃合であると予測し、また彰義隊残党の敗走路も大村の予測通りであったとされる。(大村益次郎おそるべし)


戦いの結果、新政府軍は江戸以西を掌握した。この戦いに敗戦した彰義隊は有志により輪王寺宮とともに潜伏し、榎本武揚の艦隊に乗船し、平潟港(現茨城県北茨城市)に着船。春日左衛門率いる陸軍隊等、一部の隊士はいわき方面で、残る隊士は会津へと落ち延びた。


戊辰戦争の前線は関東の北の要塞であった宇都宮城や、旧幕府勢力が温存されていた北陸、東北へ移った。戦闘の際生じた火災で、寛永寺は根本中堂など主要な伽藍を焼失、壊滅的な打撃を受けた。戦闘が行われた黒門は荒川区の円通寺に移築されており、弾痕の残った柱などが保存されている。

上野戦争では、日本刀や槍(やり)で戦った彰義隊と、新式銃を用いた新政府軍との武器の差が勝敗を決めたと考えられているが、当時の彰義隊の中にも、西洋式調練で鍛えられた兵士はいた。また、新政府軍もイギリス式の「スナイドル銃」を装備していたが、取り扱いに戸惑う兵士達が多数いたと言われている。そのため、兵力の差はあったものの、鉄砲に関しては、推測されているよりも大きな差はなかったのではないかとも考えられている。


しかし、当時の戦場で主力火器となりつつあった西洋式の大砲に関しては、新政府軍の勝利を決定的にしたと言える。彰義隊は十分な数の大砲を用意することができなかったが、新政府軍は、多数の新式大砲を導入して砲撃隊を整備していた。なかでも、当時佐賀藩が唯一配備していたイギリス製の「アームストロング砲」と、フランス式大砲の「四斤山砲」(よんきんさんぽう)は圧倒的な威力を放ち、上野一面を焼け野原にしている(なるほどそりゃ戦争だ)。


幕末期に佐賀藩は、長崎の貿易商「トーマス・ブレーク・グラバー」を通じて、イギリスから24門のアームストロング砲を輸入。上野戦争で用いられたのも、そのときに輸入した物だと言われている。また、佐賀藩内で反射炉を築造し、鋼鉄製のアームストロング砲の国産化も実施。西洋式の新式兵器をいち早く整備していた佐賀藩によるアームストロング砲は、上野戦争を含む戊辰戦争で活用され、新政府軍の勝利に貢献したと考えられている。


そんなアームストロング砲と四斤山砲の威力が窺えるのが、上野の山から不忍池(しのばずのいけ)の対岸に位置する本郷台地(現在の東京都文京区)にあった加賀藩邸の敷地内に、大村益次郎の指揮で佐賀藩が用意したアームストロング砲を設置して、池を越えて上野へ砲撃を炸裂させた逸話。


彰義隊は、遠方から撃ち込まれた砲弾に驚愕したと伝えられている。この2つの大砲を合わせた砲撃に彰義隊は対抗できず、新政府軍の西洋式兵器に屈することとなったのである。


(大砲にはかなわんわ)




⚫︎ 上野戦争後


逃走した彰義隊残党の一部は、北陸や常磐、会津方面へと逃れて新政府軍に抗戦した。転戦を重ねて箱館戦争に参加した者もいる。彰義隊の生き残りは厳しく詮議された。首魁の天野は投獄後数か月で死亡した。死因は肺炎とされる。江戸時代から明治時代初期にかけての牢獄は環境が劣悪で、囚人の生存率が低かった。


上野で戦死したことにして故郷にも帰れず、明治時代を戸籍なしで送った者もいたという。(太平洋戦争終戦時に内閣総理大臣を務めた鈴木貫太郎の叔父は彰義隊に参加した関宿藩卍字隊の上級武士だったために生死が徹底的に調査され、全国へ指名手配された)


獄中の彰義隊士が自由の身になったのは1869年(明治2年)である。新政府がとった彰義隊への処遇は徳川方の諸隊の中で最も厳しかったと言われるが、大塚霍之丞のように謹慎後に明治政府へと登用され官吏や重役に就いた者も少なくない。


捕縛後の天野の述懐の中に、戦闘中に隊を率い階段を駆け上がり、後ろを見たら誰もいなかったというものがある(笑うところ)。彰義隊は江戸市民の旧幕府への追慕としての感情や威勢に立脚した集団で、新政府への対抗姿勢を示し、新政府兵士へ集団暴行・殺傷を繰り返した存在としては覚悟が足りず、実際の戦闘に直面すると逃亡する者が多かったことが、一日の戦闘での崩壊となったとする説もある(絶対そのせい)。


江戸では彰義隊の壊滅後、特に戦闘も起こることもなく新政府要人が集団で移転して来た。さらに明治天皇を迎え、元号は明治へ、街の名前も江戸から東京へと変わり、明治新政府の首都としての歴史が始まった(東京奠都)。


なお戦闘後、上野には200名を超える彰義隊士の遺骸が残った。徳川家の菩提寺であった芝増上寺や縁故者等が引き取りを申し出たが、官はこれを容れなかったという。南千住(現:東京都荒川区)の円通寺の二十三世仏麿和尚と、寛永寺の御用商人であった三河屋幸三郎がこれを見兼ね、戦死者を上野で荼毘に付したうえ、官許を得て遺骨を円通寺に埋葬した(上野公園内「彰義隊墓表之来由」)。


円通寺には近親者などが墓碑を相次ぎ建立、上野では1869年(明治2年)、寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに「彰義隊戦死之墓」と刻んだ墓碑を地中に埋めたが、表立って彰義隊を供養することは憚られる状況が続いた。


彰義隊を「賊軍」とみなす人々からの風当たりによる資金難、墓地の所有権を巡るトラブルなどはあったものの、戊辰戦争における立場を超えて彰義隊士を慰霊しようという環境は次第に好転し、現在に至っている。




うるさいハエどもをアースジェットで一網打尽にしてやったぜてなもんだすなあ。

これで江戸も終いか。。

それにしても大村益次郎、いかついなあ。。




参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/彰義隊https://ja.m.wikipedia.org/wiki/上野戦争https://www.meihaku.jp/arquebus-basic/westernstylegun-uenowar/

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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