vol.148「飯能戦争」について

彰義隊から別れた「振武軍」なるものもあったそうで。で、そっちは「飯能戦争」ってのを繰り広げたとか。知らねえな〜。飯能って埼玉県? 知らねえな〜。




⚫︎ 渋沢派と天野派の対立


慶應4年3月13日、東征軍参謀の西郷隆盛と幕府陸軍総裁の勝海舟との会談により、幕府側の武装解除と江戸城明け渡しを条件に3月15日に予定されていた江戸総攻撃が回避された(よかつた)。


4月4日、新政府は慶喜の罪一等を減じて水戸での謹慎を命じ、4月11日に慶喜は寛永寺を出て水戸へと向かった。彰義隊も共に慶喜に従い水戸に向かう予定だったが、彰義隊には水戸までの慶喜警護の許可は下りず、一行が千住に到着した時点で江戸に引き返すように命ぜられた。


一方、慶喜の処分決定と前後して彰義隊では、渋沢派天野派の対立が表面化した。慶喜や徳川家の名誉挽回を第一義とし幕臣に限定した集団を目指す「渋沢成一郎」と、新政府軍との対決姿勢を強め身分を問わず兵員を拡充させようとする「天野八郎」とで立場に違いがあった。『藍香翁』によれば成一郎は、上野では一戦を交える上で地の利がなく、市中を戦渦に巻き込みかねない点を理由に郊外への撤退を提案した(英断じゃん)。


しかし、この提案は天野派には聞き入れられず、その後も議論を続けたものの進展せずに終わった。隊内には彰義隊が江戸幕府から両御番の役目に任じられるとの風説が流れ、幕府に期待する者もあったといい、江戸市中からの撤退案に対し反対する理由となった。『彰義隊戦史』では、こうした風評を信じる者の間で天野が支持されたと記している(願望か哀れよの)。


こうした中、成一郎らは彰義隊を脱退。脱退時の状況について『藍香翁』収録の成一郎の談話では、両派閥が議論を交わしたものの、天野派が「関八州を固く守って踏みこたえていれば、いずれ二百石、三百石の旗本に取り立てられるに違いない」と息巻き上野を動く気配がないことに失望し、尾高とともに脱退したと記している(ダメだこりゃと)。


成一郎らの脱退後、彰義隊は組織再編され、天野が彰義隊の実権を掌握。新政府は閏4月29日、田安家の徳川亀之助(後の徳川家達)に徳川宗家を相続させるものとし、5月1日には亀之助の父・慶頼らが担っていた江戸鎮撫取締の任を解き、東征軍が引き継ぐことを通告。これにより役目を追われた彰義隊士の一部は5月7日に、薩摩藩士を根岸付近で、佐賀藩士を上野北大門町で取り囲み殺傷する事件を引き起こすなど、行動を先鋭化させた(現実を受け入れろい)。


そして5月13日、東征大総督府は彰義隊討伐を布告し、大村益次郎の率いる2,000人の兵が彰義隊の屯集する上野を包囲するに至る(そして勝敗は既知のとおり)。





⚫︎ 脱退したメンバーは「振武軍」を結成


彰義隊を脱退した成一郎は同志20人らとともに上野を出て、本郷にある野村宅に集結。「会津に加勢する」か「江戸郊外に移転して同志を募り、新政府軍に抵抗する」かで議論が交わされた後、堀之内村(現・東京都杉並区堀之内)の茶屋「信楽」を拠点に同志を集める。『藍香翁』に収録された成一郎の談話では、集まった同志を200人から300人としている。


この時点で成一郎らは武器弾薬を所持していなかったため、尾高と謀り20人余りの隊士を率いて三番町にある幕府伝習隊屯所からミニエー銃300丁と弾丸を奪取。隊名を「振武軍」と定めた。


5月15日、斥候から上野戦争が勃発したとの知らせが届くと、振武軍は5月16日0時に箱根ヶ崎を出立。青梅街道を東進して上野を目指したものの、同日朝に一行が高円寺付近に到着した際に斥候から彰義隊が壊滅したとの報が届く(だから言わんこっちゃない)。


一行は上野への進軍を諦めて田無に引き返すと、上野戦争で敗れた彰義隊、臥龍隊の兵士が続々と集まりだした。一行は田無で一泊した後、5月17日に二手に分かれて出立。一隊は秩父往還を通り所沢を経由して、もう一隊は青梅街道や日光脇往還を通り、箱根ヶ崎や扇町屋を経由して飯能へ向かった(エグザイル)。


飯能周辺には幕府領、旗本領、清水家や久留里藩の領地とともに一橋家の領地があり、栄一と成一郎が元治元年(1864年)に人選御用のため関東に出張した際に一橋領を訪れ、農兵の募集を行っていた。土地勘があり領民との関係から、屯所や兵糧の確保が容易であること、甲州や信州、秩父へと通じる交通の要衝であったことも転陣の理由となったとみられる(なるほど)。


振武軍らは5月18日昼ごろ、飯能に到着すると能仁寺に成一郎をはじめ150人ほど、智観寺に100人ほど、観音寺に60人ほど、広渡寺に野村ら40人ほど、心応寺と玉宝寺にそれぞれ25人ほどが分宿した。能仁寺を本陣とし、新政府軍を迎え撃つため要所要所に壁を築き、町の出入り口に見張りを立てて警戒にあたった。また、数百人の人夫を雇い、川漁で使う錘の鉛を溶かして弾丸の製造にあたらせた。村人たちは家業を休み、昼夜を問わず戦の準備に奔走するなど緊迫した様相を呈した(村人いい迷惑)。


やがて新政府軍が江戸を出立したとの知らせが届くと、能仁寺で軍議が開かれた。ある者は「ここは要害の地ではあるが手狭なため、5から6里ほど外に出て新政府軍を迎え撃つべし」と主張し、またある者は「いたずらに兵を失うべきではなく、速やかに奥羽連合に合流すべし」と主張したが、成一郎は「戦に打って出たのち、兵を引き上げて奥羽の軍に合流すべし。一矢を放たずして退いては、天下の笑いものになる」と主張し、飯能で戦うことに決定。戦に敗れた場合は奥秩父の三峰山を再集結の場所と定めた(勝てる自信はないようだ)。


5月22日8時半、成一郎ら100人余りが「美麗ノ支度」に整えた後、野田・笹井方面(現・入間市野田、狭山市笹井)へ出陣した。








⚫︎ 笹井河原の戦い


5月23日深夜、入間川沿いの笹井村(現・狭山市笹井)で新政府軍と振武軍側との戦端が開かれる。当初、大村藩、佐土原藩、岡山藩は2時に扇町屋の陣から軍を進める約束を交わしていたが、佐土原藩は「万が一、敵に先んじられては合戦は難儀する」と懸念し、両藩に断りを入れた上で午前0時に陣を出発。入間川を渡り300メートルほど進んだところで両軍が遭遇し、振武軍側の兵と佐土原藩の隊長・谷山藤之丞との間で問答が交わされた後、振武軍側が発砲するも不発だったためそのまま谷山の頭部めがけて銃を振り下ろし、谷山も抜刀して応戦した(すごい幕開けw)。


その後、竹藪に潜む振武軍側が発砲すると、佐土原藩の銃隊、砲隊は川面に伏せながら応戦し、これを退散させる。ただし、夜明け前のため伏兵による不測の事態を懸念して深追いすることはなかった。


なお、この戦いにおける振武軍の被害の詳細は定かではないが、『飯能辺騒擾日記』は振武軍の隊長が左臂を斬られたため能仁寺の本陣が引き取り、新政府軍が迫る状況下で治療を行った模様を記している。





⚫︎ 扇町屋への夜襲


笹井河原の戦いとほぼ同刻、振武軍の一部が扇町屋に屯集する新政府軍に夜襲を試みようとしていた。5月22日、斥候から新政府軍約500人が扇町屋に到着したとの情報が入ると、前軍頭取・野村良造が成一郎に夜襲を仕掛けることを提案。前軍約200人が飯能を出発し、5月23日1時ころに扇町屋へ到着した。


が、各戸ごとに探索したものの「芸州の某」「何れの某」と名が掲げられているのみで新政府軍の気配はなかった。そのため皆で集まり今後について協議を始めたところ、飯能方面で砲声が盛んに聞こえたため急いで引き返した、とある(『高岡槍太郎日誌』)。




⚫︎ 野田、双柳方面


飯能周辺は4月26日以来、雨の日が続いていたが、5月23日の明け方までには止み晴れ間を見せた。ただし、靄などがかかり8時ころの時点でも周囲が見えにくい状態になっていた。


6時ころ、大村藩、佐土原藩は飯能に向かって西進。野田村の外れまで進むと、振武軍の兵による狙撃を受けたため、新政府軍は開けた野原まで進出したところで散開し、野砲や小銃を用いて林や藪に潜む伏兵を撃退した。


同じころ、双柳方面に進出した福岡藩、久留米藩は双柳村の外れで振武軍の兵と対峙した。福岡藩の記録によれば、先鋒隊が双柳村の外れまで進出した際に30人ほどの整列した兵士たちと遭遇。たがいに旗指物を用意していたため合図のため振ってみたものの、朝霧が深いため敵か味方かは識別できずにいたところ、暫く間を置いた後に相手方からの発砲が始まり、大小の銃で応戦した。その後、後続の味方からの発砲もあり相手を敗走させ、福岡藩、久留米藩はさらに中山村に進軍した。




⚫︎ 上鹿山方面


5月22日、川越藩は軍監・尾上四郎左衛門とともに大袋村(現・川越市大袋)に出張。霧雨が降り続き泥濘に足を取られながら進軍し、夕刻に根岸村(現・狭山市根岸)に到着した。根岸には敵兵の気配はないため、すぐに鹿山村へ向けて進軍。途中、河川の増水に見舞われたため迂回路を進みながら夜に鹿山村に到着すると、森陰に潜む振武軍側から銃撃を受けたため応戦する。相手が暗闇に紛れて引き上げたため、原宿(現・日高市原宿)へ引き上げて宿営した。


翌5月23日深夜、西南の方向から激しい砲音が聞こえたため、村外に兵を送り敵の動静をうかがいつつ、情報収集に務めた。翌朝、飯能攻撃の報告が届いたため、川越藩は兵を二手に分け一隊を「飯能村近辺咽喉之場所(原文ママ)」に伏せ置き、もう一隊を要路に備え置いて機会をうかがった。


あるいは、福岡藩の斥候から上鹿山村口での味方の劣勢が伝えられたため、川越藩は軍監の指示により飯能村の裏手にある白子村へ向かった(『松平康英 武蔵川越家記』)。


川越藩兵としてこの戦いに従軍した下山忠行の手記によると23日深夜3時ころ、鹿山口、白子村で振武軍との銃撃戦となり、鹿山口では新政府軍が畳を防塁にし、散開しつつ敵の襲撃に備えた様子が記されている。また、鹿山口、白子村の双方で同士討ちが発生した様子が記されるとともに、鹿山では旗本の用人という老人、白子村付近では農夫といった非戦闘員が殺害された様子が記されている(ぐちゃぐちゃですな)。




⚫︎ 中山方面


8時ころ、新政府軍が双柳方面から飯能周辺に侵入し戦いが始まった。能仁寺、智観寺、観音寺、広渡寺の4か寺に屯集する振武軍の兵が小銃を打ち立てて繰り出し、大砲と小銃を備える新政府軍との間で撃ち合いとなった。真能寺村の名主・双木家の記録によると、23日深夜0時から笹井、鹿山方面で続いていた夕立のような砲声が一旦止み、しばらくした後に飯能方面の戦いが始まった。


住民が逃げ支度の準備を始めたところ、民家に砲弾や小銃の流れ弾が飛び込んできたといい、老人や子供、村役人が驚き逃げだす騒ぎとなった(村人たまらんなあ)。戦闘が始まると4か寺だけでなく、飯能の「町」を形成する飯能村、久下分村、真能寺村の民家から火の手が上がり始めた(やめてけろ〜)。


『飯能辺騒擾日記』には笹井方面の銃撃戦により振武軍が敗走し、中山村の智観寺に戦いが移った模様が記されている。同書によると「打ては退き退きては打、中山智観寺前に引き取る時、同寺の賊徒後詰に出て飯能裏までまくり立らるゝ、同勢を引留め入れ替わり官軍と戦ひしが遂に智観寺も攻落とされ」と一進一退の攻防だったとしている(ヒット&アウェイ)。


福岡藩や久留米藩の記録によると、振武軍が屯所のひとつとする智観寺に到着すると大砲を打ちかけ、両藩がすぐに突入を開始した。ただし境内を探索したものの、振武軍の兵は道具や食料を残したまま退去(華麗にアウェイ)していた、とある。

久留米藩は、敵兵が隠れ潜んでいることも考え、寺を焼き払った(罰当たりが!)。




⚫︎ 聖天林、森の内方面


中山智観寺を攻め落としたことにより能仁寺に直接向かう道が開けたが、聖天林に潜んでいた振武軍の兵の襲撃を受けた。そのため、大小砲二百丁で応戦した結果、敵兵1人を討ち取り敗走させた。


福岡藩の記録によれば智観寺襲撃の後、飯能裏手に進むため各藩で協議を始めると森の内から発砲を受けたため、発砲し数時間ほど応戦した後、相手は敗走。森の内に押し込み捜索したところ敵兵1人を打ち倒し、さらに周囲の村々を捜索したところ敵兵の姿が見えないため引き上げたとある。


久留米藩兵の記録によると、(振武軍らが)町裏の山中より(銃弾を)雨の如く発射したため、新政府軍は桑の木を盾に兵を散開して備え、大砲隊を小社の杉の森に集め、激しく打ち立てた。散兵し次第に進むと賊兵はついに退散。すぐに山中に踏み込むと墓所があり、(相手は)墓石を盾にしていたことが分かった。討死した賊兵の首をはね、桑の木にかけて青梅まで帰陣した、とある。




⚫︎ 飯能の町の戦い


大村藩や佐土原藩の記録には飯能の町中での戦いの記述は少ないが、後援として備えていた岡山藩の記録には火災の模様や、町中での戦闘の模様が記述されている。同書によると、岡山藩の南石隊が振武軍の屯集する観音寺を攻撃、散り散りに追い払い武器甲冑を奪い、さらに振武軍の幹部・山中昇の宿所と見定めて放火した(だから戦争はいやだ)。


また町筋でも銃撃戦となったため、盾として使っていた町屋に仕方なく放火すると、方々から火の手が上がったとある。大村藩の渡辺は中山智観寺の放火については福岡藩、久留米藩によるものとする一方、飯能の町への放火については「商家ハ則賊ノ敗兵所放火」と報告している(『渡辺清届書』)。


なお、渡辺の談話によると、岡山藩兵が未熟練で一か所に固まってしまうことを見かねて、大村の兵を別の隊長に預け自ら岡山藩の指揮を執った。その最中に、渡辺も顔面に残る傷を負ったとしている。


『高岡槍太郎日誌』には扇町屋へ夜襲に向かった前軍が飯能周辺の戦いに加わった模様が記されている。同書によると飯能に向けて道を急いでいたところ新政府軍の伏兵から発砲されたため、その場で戦端が開かれた。ただし高岡らは夜襲が目的だったため弾薬の備えが十分ではなく、味方からの大砲の支援もない中の戦いとなり、相手の酒樽、食料、医薬品を各自で奪いつつ応戦した。


高岡らは馬上から指示を出す新政府軍の指揮官を倒すなど奮闘したが、物量に勝る新政府軍の前に次第に劣勢となり、広渡寺の側で前軍組頭の山中、岡田勇司の2人、少し離れた場所で間庭整三が戦死したと記している。





⚫︎ 能仁寺の戦い


周囲の村々で振武軍を掃討した大村藩、佐土原藩はともに相手の本陣のある能仁寺に向かった。大村藩の記録によると両藩は鬨の声をあげ、砲弾を雷電の如く能仁寺に打ち込み、それに対し振武軍も小銃で応戦した。しばらくして両藩は先を争うように能仁寺に突入すると境内はすでに炎に包まれていたとしている(『渡辺清届書』)。


一方、佐土原藩の記録では同藩の一分隊が真っ先に境内に突入して火を放ち、鬨の声をあげたとしている(『東海道先鋒戦争之次第』)。また、岡山藩の記録では、三藩がそろって振武軍らの籠る能仁寺に乗り込み放火したものとしている(『武州飯能表之戦状』)。


成一郎の談話によると、破裂弾を発射する新政府軍に対し、振武軍も持ちこたえ防戦していたが、午前11時ころ、二発の砲弾が能仁寺の本堂に直撃し、寺内はたちまち炎に包まれた。前方からは新政府軍が鬨の声をあげながら攻め寄せ、後方からは猛火が迫る中、5時間近い戦闘により疲労も限界だったこともあり本陣を放棄し敗走したとしている(『藍香翁』)。


『飯能辺騒擾日記』によると、一発の砲弾が轟音と共に寺の裏手にある羅漢山に直撃し、これをきっかけに振武軍が総崩れとなった、としている。下山忠行の手記によると、寺の放火自体を川越藩が担ったとしている。同藩の高名な砲術士が焼き討ちの役目を引き受け、大砲を放つと本堂の裏手にある大木に直撃した。大木は音を立て崩れ落ち、その凄まじい様に蜘蛛の子を散らすように退散した、としている(もう何でも良いよ)。


『戊辰私乗』によると、明け方の戦闘で瀧村が刀傷を負い、5から6人の負傷者が出たほかは、新政府軍に横撃を加え数人を捕獲するなど、序盤は振武軍らの有利が伝えられた。が、9時過ぎになると、前軍や神奈川隊の敗退、山中の戦死が伝えられ、渋沢平九郎は生死不明とされるなど戦況は刻々と悪化、弾薬不足となった部隊が本陣に戻り始めた。


こうした中、山田は尾高惇忠から、後備えの兵をもって早急に本陣を守備するように求められたが、「散兵もいまだ戻らない状況では、本陣は守り難い」と難色を示した。さらに大小砲の砲声、砲弾が本陣に迫ったため、負傷者を後方の山に避難させ、砲弾をかいくぐりながら軍資や弾薬、旌旗を集めた。


振武軍らの敗色が濃厚となり、能仁寺の本陣に火災が起こると、士卒は望んで後方の山へ逃れた。その際、山田の家来が、新政府軍への内通の疑いで本陣に捕獲されていた寺僧を殺害したと記している。『飯能辺騒擾日記』では裏山に避難していた飯能在住の鍼医が忘れ物を取りに家まで戻ろうとしたところ、能仁寺の門前で新政府軍に捕らえられ、黒田家の墓前で殺害された模様が記されているが、二つの事件の関係は定かではない。


新政府軍は能仁寺を攻め落とすと、兵を整えて進軍した道を戻り、道中では振武軍の残党から砲撃を受けるもこれを退けて、昼1時までに扇町屋へ帰陣した。扇町屋で一泊し、能仁寺への先陣を争った兵2人に報奨金が与えられ、慰労として足軽や人足に至るまで酒が振舞われた。5月24日午前、大総督府は久留米藩の一手を敗残兵の掃討のため残留させ、残りは江戸に引き揚げるように命じる。同日午後、扇町屋を出立し、所沢を経て、田無で一泊。翌5月25日に江戸へと戻った(お疲れーす)。





⚫︎ 新政府軍の掃討戦と振武軍らの脱出行


直竹村(現・飯能市下直竹)に備えた福岡藩の分隊は、末成橋場(現・青梅市成木)に10人、乙黒(現・青梅市小曾木)に20人ほどの兵を配置した。能仁寺の陥落後、本隊は扇町屋から江戸へと戻ったが、分隊は引き続き周囲の村々で振武軍の残党の捜索にあたった。


下畑村(現・飯能市下畑)から三町ばかり先にある松山に残党が潜伏しているとの報告が届き、現場に向かったところ7、8人の姿を発見したため発砲。2人を討ち取り、残りは取り逃したものの手負い傷を負わせ、そのまま扇町屋に引き揚げた。なお、銃撃により死亡したのは振武軍の残党ではなく下畑村の百姓・綱吉、松吉兄弟だったといい、村の惣代は二人が昼食のため家に帰る途中、川に降りて足を洗っていたところ銃撃を受けたと役所に報告している(とばっちり)。


鹿山口から白子村に進軍した川越藩兵も残党の掃討にあたっていたが、白子村の対岸にある横手村の山腹の脇道を秩父方面に逃れようとする20から30人ほどの残党を発見した。川越藩兵は河川(高麗川)の急流を超えて対岸に渡り、残党の後を追跡し発砲すると、あわてて山林に潜伏した。そのため周囲を捜索したところ、1人を生け捕りにした。翌5月24日以降は軍監の尾上四郎左衛門の指示により数隊に分けて周囲の村々を捜索したが残党の姿はなく、5月27日に坂戸近隣の13か村を掃攘した後、5月28日に川越へ戻った。


横手村の住人・大川戸家の記録によると、当地に落ち延びてきた振武軍の残党は成一郎らだったといい、自宅で衣服や食料を与え、上州方面に向かう道案内を買って出るなど脱出行を手助けした。その後、成一郎と尾高は草津、伊香保(現・群馬県渋川市)方面に潜伏した後、成一郎は江戸に向かい榎本武揚の率いる旧幕府艦隊に合流、尾高は機会を見計らった上で郷里の下手計に戻った。


越生方面に進軍した忍藩と広島藩は振武軍の甲府方面への敗走の報告が届くと、忍藩は今市宿(現・越生町越生)の守りを固めた。広島藩は5月23日午後2時ごろ坂石(現・飯能市坂石)に向けて出立し、究意の者6人を斥候として先行させた。斥候が顔振峠の入り口に差し掛かったところ、六尺余の大男1人が旅装束姿で先を急いでいたため、斥候が呼び止めた。残党に間違いないと見て捕えようとしたところ直ぐに斬りあいとなり、究意の大力者でも生け捕りは困難となり討ち取った。


その際、斥候2人が深手を負った。『奥州出軍日記』にある「六尺余の大男」は渋沢平九郎だったといい、村人の談話によると、平九郎が斬りあいの末に午後4時ころ自決を試み、自ら腹を裂き喉を刺して倒れたという。藩兵は銃弾を乱射してその首級を持ち去り、法恩寺の門前に晒した。遺体は村人の手で黒山全洞院に葬られ、首級も藩兵の去った後で法恩寺の林の中に葬られた(『渋沢平九郎伝』)。

忍藩は5月23日に秩父郷大宮(現・秩父市)へ立ち入った彰義隊の瀧川渡ら12人を取り調べ、飯能で討ちもらした残党として斬首した。


前橋藩は5月26日ころから領内の武州松山陣屋付近を飯能戦争の脱走人が徘徊しているとして、周辺地域の捜索に乗り出した。そのうち一人を畠山村(現・深谷市畠山)満福寺で捕え、取り調べの後に討ち取った。畠山で討ち取られた残党は彰義隊の水橋右京だったといい、竹沢(現・小川町)方面から逃れてきたところを捕らえられたと伝えられている。


飯能の周辺に留まった者の中で、比留間良八は戦いの後に梅原村(現・日高市梅原)の実家、姉の嫁ぎ先、親戚宅を転々として難を逃れたと伝えられている。一方で、杉山銀之丞(平沢銀之丞、横手銀二郎)は戦いの後に鹿山を通行しようとして捕らえられたとも、辛うじて生き長らえ鹿山に潜伏していたところを捕らえられ斬り殺されたとも伝えられている(『飯能辺騒擾日記』)。


再集結の場所とした奥秩父・三峰山周辺には幹部の久保喜三郎、山田劉八郎らが辿り着いた。ただし、三峰山まで辿り着いた者は100人に満たず、成一郎や尾高や野村ら主要幹部は現れなかったため、山田と久保は協議の末に組織をいったん解散させて、機会を見て再起を図ることとした。


山田は久保と別れ、大滝村(現・秩父市)などで潜伏した後に江戸へ戻ると、同志の熊谷小一郎から成一郎の潜伏先を聞き、直接会う機会を得た。その際、成一郎は榎本の旧幕府艦隊に合流する案を示し、山田もこれに加わることに同意。6月中旬、成一郎、山田、久保、高木大之進は飯能で戦った十数人の同志とともに開陽丸、長鯨丸に乗船。飯能の町から敗走した高岡槍太郎は名栗、贄川(現・秩父市荒川贄川)、鴻巣などを転々とした後、7月15日に旧幕府艦隊に合流し、朝陽丸に乗船した。成一郎らは彰義隊の残党とともに仙台を経て箱館へと向かい、箱館戦争に身を投じることとなる(諦めない心)。





⚫︎ 結果と影響


大村藩の渡辺清左衛門は、振武軍の死者数は山林原野に横たわり不明、生け捕りは50から60人、浅深手負いは不明と報告している。これに対し新政府軍の死者はなく、浅手負は5人(岡山藩の瀬賀役次郎、宍戸久五郎、佐土原藩の谷山藤之丞、斎藤儀兵衛、大村藩の岡乕之助)と報告している。ただし、この報告には広島藩、川越藩、忍藩は含まれておらず、損害の実態は定かではない。


また、『飯能辺騒擾日記』では秩父に逃れた60から70人の賊徒を生け捕り総督府に問合せた上、同所で戮殺、飯能賊徒の討死は3人、官軍の死傷者は不明と記し、『里正日誌』では23日未明からの戦いにより振武軍と新政府軍の双方に討死や手負いが出たとのみ記している(それがホントだろ)。


戦場となった地域では能仁寺、智観寺、観音寺、広渡寺の4か寺で本堂などの主だった建物が焼失、飯能村、久下分村、真能寺村、中山村の4か村の200戸が焼失する被害を受けた(大損害!)。また、飯能の町、鹿山、下畑などで住民が新政府軍から振武軍残党と誤認され殺害、人足や道案内として振武軍に協力した者が殺害された事例もあった(大迷惑!)。


戦から1か月半後の7月9日、甲府鎮撫府から延岡藩が飯能表の取り締まりのため派遣されたが、戦火の影響により飯能で宿陣することができず、上鹿山村に陣を置き職務を行うことになった。その後も周辺地域の治安状態は回復せず、住民がゲベール銃やライフル銃で武装し自衛せざるを得なくなった。


飯能周辺は幕府領や旗本領が多く(だからか)、この戦いでは振武軍に対し住民が比較的寛容な姿勢を見せたが、やがて新政府に敵対したイメージから戦いのことは語られなくなった。研究者の宮間純一は戦いの直後から「佐幕」的行為は人々の記憶から抹消されていき、「勤王」という新政府の価値観に沿う行為、あるいは被害者的視点のみが強調されていったと指摘。1944年に刊行された『飯能郷土史』ではその傾向が顕著に表れ、戦後に刊行された『飯能市史』でも断片的に残されていると指摘している。





ですって。


なるほど割と村人らも佐幕派よりで一丸となって戦った話だったのか。それを先に説明して欲しかったなー。けど一方で、誰が言ったか「(無血開城の)江戸城明け渡しで逃れた戦争を飯能が引き受けた」という恨み節もあるとか。なるほど確かに。その通りでしかない。


一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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