いや〜、調べれば調べるほどに同時進行すぎて、東北戦争は書く順番に困る。困ると言うか無理。なので、時系列は行ったり来たりするタランティーノ監督風オムニバス映画的に楽しむしかない。様々なキャラクター目線で、常に鳥羽伏見の戦い後から始まって、函館戦争前で終わる、みたいな(ホントにそんな映画あったらいいのにね)。
てことで今回は、庄内藩にいた、ある無双の男にスポットを当ててみます。
⚫︎ 秋田・庄内戦争スタート
京において勤皇の志士を弾圧した会津藩、ならびに、江戸において浪士を使い騒乱を起こした薩摩藩邸を幕府の命を受けて焼き討ちした庄内藩、この2藩は戊辰戦争がはじまると朝敵として追討を受ける立場となる。両藩の赦免を要求し仙台・米沢両藩の肝いりで結成されたのが奥羽越列藩同盟であった。
しかし、京で多くの同志を殺され恨み骨髄に達していた薩長はこれを受け入れる道理もなく、薩長主導の新政府軍は列藩同盟を朝敵として追討する準備に入った(なんてやつらだ)。
そもそも初めは、新政府も同盟側も戦争をするつもりは無かった。九条通孝を総督とする奥羽鎮撫総督府が仙台に入ったくらいであるから間違いない。つまり話し合いで解決しようと互いに思っていたのである。そして同盟側はこれを上手く宥めて会庄の赦免を勝ち取る腹積もりであったろう(そうだったんだ)。
しかし、総督府参謀として同行していた長州の「世良修蔵」があまりにも悪すぎた。朝廷の権威を嵩にきて暴虐の限りを尽くし奥羽諸藩の反感を買ったのである。しかも、総督府が率いる兵もほとんどいなかった。我慢の限界に達した仙台藩は世良を殺害、このために列藩同盟と新政府は敵対関係となってしまった(世良のあまりに罪深きことよ)。
仙台にいた九条総督以下、新政府の面々は命からがら脱出し、秋田藩(正式には当時、久保田藩と呼ばれていたが分かりにくいので秋田藩で通す)に入った。秋田藩は、周囲の諸藩が佐幕派に転じたために嫌々同盟に参加していたが、総督府の秋田入りで完全に新政府派に転じることとなる(裏切りよって)。
秋田藩の新政府への接近に気づいた仙台藩は、秋田藩に使者7名を派遣した。しかし九条総督軟禁時に仙台藩に世良修蔵を殺害されていた大山綱良・桂太郎らの説得もあり、秋田藩の尊皇攘夷派は7月4日、仙台藩の使者と盛岡藩の随員を全員殺害し、久保田城下五丁目橋に首をさらした(なんてことしやがる)。こうして秋田藩は奥羽越列藩同盟を離脱し、東北地方における新政府軍の拠点となった。
これに機を見るに敏な津軽(弘前)藩や周囲の小藩が参加(オメーらなあ)。列藩同盟は前後に敵を受ける不利な体勢に陥ってしまった。これに一番危機感を抱いたのは庄内藩である。会津や越後に新政府軍が迫りつつある中、背後を秋田藩に衝かれれば滅亡するやもしれぬからだ。
そこで庄内藩は先手を打ち、4個大隊(約2000名)を動員し、海道口と山道口から北上し秋田藩領に侵攻した。
1868年7月の事であった。
⚫︎ 鬼玄蕃(おにげんば)覚醒する
ここに一人の人物が登場する。庄内藩家老「酒井了恒(のりつね)」。庄内藩二番大隊長として連戦連勝し、新政府軍から鬼玄蕃(おにげんば)と恐れられた人物である。
鬼玄蕃というと荒々しい猛将をイメージしがちだが、1868年当時26歳、写真を見ると戦績からは想像もできない優男であった。
酒井玄蕃家は藩公酒井氏の分家で、代々家老職を務める名家。幼少より書物と剣を好み15歳で長沼流兵学を学び頭角を現した。その後、庄内藩が江戸市中取締りを命ぜられると番頭の一人として江戸の治安を守った。彼の軍才はもしかしたらこの時に培われたのかもしれない。
庄内軍の作戦は一番、二番大隊が山道口、三番、四番大隊が海道口を進み、最終的には秋田藩の首都久保田城を包囲するというものであった。庄内軍は御用商人「本間家」の金策で、ヘンリー・スネルより武器を密輸していたため、装備は東北諸藩のなかで最も充実していた。
一方、官軍方に転じたものの、碌な準備もしていなかった秋田藩側は慌てふためく。九条総督や沢副総督の矢のような出兵催促を受けても、無い袖は振れなかったのである。
奥羽鎮撫総督府は、新政府に危機を伝え援軍派遣を要請。しかし1868年7月といえば北越戦線ではやっと長岡藩に敗色が見え始めた頃。南陸奥方面では二本松城の戦いが7月末頃。新政府としても主要な戦線ではない北出羽戦線に兵力をおくる余裕はなかった。
しかし新政府も、奥羽鎮撫総督府と数少ない奥州の勤王諸藩を見殺しにはできないので厳しい台所事情からやり繰りして、薩長や西国諸藩の援軍を海路送り込むものの、こうした事情から、援軍は逐次投入という兵家の最も忌むやり方になる。しかも、それを率いる将も北越戦線と会津戦線に比べると二級で、どうしても支作戦というイメージしか湧かない。
が、当事者である秋田藩の領民にとっては死活問題ともいうべき危機だった。秋田藩や援軍である新政府軍を指揮したのは奥羽鎮撫総督府の参謀、薩摩藩「大山格之助」、長州藩「桂太郎」らであった。大山はともかく、桂は当時若造といってもよい存在。新政府軍がこの戦線をいかに重視していなかったか分かる。
山道口を進む酒井玄蕃の二番大隊を先陣とする庄内軍は、破竹の勢いで新庄、横手、大曲と北上した。一方、海道口の庄内軍も連携を欠く新政府軍を追いながら本庄、亀田と勝ち進んだ(強い)。
有能な指揮官を欠くとはいっても新政府軍は1万の大軍である。対する庄内軍は、わずか2千あまり。それでも酒井玄蕃は、側面や背後から別動隊を奇襲させるなど奇策の限りを尽くして新政府軍を翻弄した。
新政府軍は諸藩軍の連合体なので、それぞれ離れた場所に陣所を設けることが多い。玄蕃はそこを突き、まず装備が旧式で弱い敵を叩き、薩長両藩などの強敵が慌てて駆け付けてくれば兵を引き、敵が深追いしてくるのを待ち、有利な地形に誘い込んで包囲殲滅するという戦法を取った。まさに敵の弱みを突き、地の利を生かしたセオリー通りの戦術なのだが、これを計画通りに実行し、成功させるのは容易でない。
新政府軍も鬼玄蕃と呼んで、彼と彼の軍隊を恐れたという。
やがて他藩と合流し同盟軍として数を増やすと、その強さにますます磨きをかけ、開戦1ヶ月で久保田藩領のうち雄勝・平鹿の二郡全部と、仙北郡の南半が同盟軍に制圧された(すご強い)。
8月13日に横手を脱出した新政府軍は、神宮寺に退却して本営を置き、小倉藩・佐賀藩・久保田藩・新庄藩の兵を角間川に置いて、同盟軍の北上を阻止しようとした。13日早朝、仙台軍を先鋒にして同盟軍が進撃を開始するが、仙台軍は敗走(当時の仙台軍は「大砲がドンと鳴ったら五里(約20km)逃げる」略して「ドンゴリ」と嘲笑されるような弱兵だったらしい)。
だが、後方にいた庄内藩の二番大隊が代わりに攻撃を開始すると、新政府軍は横手川を渡って大曲方面に脱出しようと大混乱に陥り、多数が川に飛び込んで溺死した。そこを二番大隊が追撃して、庄内軍が大勝利を収めた。新政府軍の完敗であり、新政府軍の損害は1日の戦闘としては最大であった(強すぎる)。
秋田藩は、領土の大半を庄内軍に占領され風前の灯であった。藩主佐竹公は悲壮な覚悟で前線部隊を督戦する。九条総督、沢副総督も絶体絶命の危機に死さえ覚悟するようになった(ひえぇ〜鬼玄蕃が来る〜泣)。
が、庄内軍の攻勢終末点はそろそろ近づいていた。逆に新政府軍は本拠久保田近辺の戦いであったため皮肉な事に潤沢な補給を受けられるようになる。一方、補給線の伸びきった庄内軍は武器弾薬が欠乏するようになった。
そして頼みの綱であった酒井玄蕃も、激戦の疲れで病に倒れる。刈和野、椿台の戦いはこの戦役中でも有数の激戦になった。後のない新政府軍はここで初めて頑強な抵抗を示した。自軍の劣勢を案じた玄蕃は、病身の身を輿に乗って指揮したが、ついに決定的勝利は得られなかった。
そんな中、角館戦役で敗退した盛岡藩兵は本国に帰り、8月28日には列藩同盟の盟主の一つである米沢藩までもが新政府に降伏していたとの報が入る。米沢藩は、新政府軍の機嫌を取るため他の諸藩にも降伏勧告の使者を派遣。9月13日、列藩同盟の一方の盟主仙台藩さえも降伏恭順に傾いた(日和よって)。
これにより奥羽越列藩同盟軍は総崩れになった。旧幕府艦隊を率いた榎本武揚と新撰組副長の土方歳三は、仙台藩に見切りを付けて函館に渡ったという。もはや庄内藩が一人頑張っても戦況は絶望的状況である。9月14日、庄内軍は軍議を開き善後策を協議。そして撤退し、本国を固めるという方針を選ぶ。
酒井玄蕃は撤退戦も見事に指揮し、嵩にかかって攻めてくる新政府軍の追撃を振り切り、時には痛撃を与えながら、ほぼ無傷で庄内領内に撤退を完了させた。
まさに名将中の名将。わずか26歳の青年とは思えない戦績であった。
やがて西郷隆盛・黒田清隆が米沢から鶴岡に入り、9月27日に鶴岡城内で降伏調印と城内・武器の点検を行った。庄内藩は賠償金70万両の献金を命ぜられたが、その後は減封と藩主・酒井忠篤の隠居のみで、藩士の処刑などは行われなかった。この寛大な処置は西郷の発案によるとされ、庄内は西郷に感謝し、鹿児島との交流が開始された。
後の首相となり、日露戦争を勝利に導いた宰相となる長州藩士「桂太郎」は、この秋田戦争にて数で勝るはずの新庄での戦いに敗れ、久保田藩領内でも庄内藩に負け続け、鬼玄蕃から延々と逃げ回ることになり、庄内藩が降伏した時には、桂の部下約200名の半数近くが死傷していたという。
また、薩摩藩参謀であった大山格之助は、明治維新後に東京で酒井玄蕃に会った際、「あの鬼玄蕃の勇名をほしいままにした足下が、容貌のかくも温和で婦人にも見まほしい美少年(よかちご)であろうとは……」と驚嘆したという。
「鬼玄蕃」とまで言われた酒井であるが、実際は慈悲深く気遣いの人物だったという。例えば、占領地では孤児や窮民の救済をしたり、戦地での乱暴狼藉を厳しく戒めたり、敗れた敵軍の兵の遺体も丁寧に埋葬するなどしたため、敵味方を越え酒井を慕う人が多かった。
なんとまあ! こんな英雄がいたとはこれっぽちも知りませんでした。
こーゆー人物たちを主要キャラにして、戊辰戦争の全貌とまとめた大河ドラマを作っていただけませんでしょうかね。各地ごとの主人公がそれぞれ奮闘するも、どんどん敗れてゆき、最後は土方が五稜郭で果ててクライマックス、みたいな。NHKがダメならタランティーノ監督にお願いしたい。
参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/秋田戦争http://houzankai.blog.fc2.com/blog-entry-767.html?sphttps://newsyo.jp/?p=14313
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/酒井了恒
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