vol.155「磐城平城攻防戦」について


磐城(いわき)平(たいら)藩って読むよ。

同盟軍めちゃ弱でボロ負けしまくって、あっつー間に磐城平城まで迫ってきちゃって大ピンチだよ。ここは何としてでも死守したいところ。↑ の画像でもう運命見えちゃってるけど気にせずがんば!




⚫︎ 第一次磐城平攻防戦


かくして時間を費やしながらも磐城平城を目前にした岡山藩・佐土原藩だったが、磐城平は奥羽越同盟軍にとって重要な拠点であり、磐城平藩と中村藩兵200も戦意旺盛であるために頑強な抵抗に手を焼いた。


また、列藩同盟軍に同日到着した米沢藩3小隊(130名ほど)が加わり、米沢藩・仙台藩・中村藩兵は稲荷台に砲陣をしいて砲撃を加えた。火縄銃が主体の列藩同盟軍であるが、米沢藩兵は元込銃で武装しており、猛射によって新政府軍の前進を食い止める。新政府軍は攻めあぐねたまま日没を迎えて、湯長谷に一時退却せざるを得なかった。


やればできる!




⚫︎ 第二次磐城平攻防戦


7月1日、今度は新政府軍の海岸側の部隊が磐城平城攻略に動いた。小名浜から出撃した薩摩藩・大村藩は山側の僚軍に一報を入れることなく磐城平城へ攻め寄る。両藩はこれまでと同様に一隊を分離して搦め手として城の東に向かわせたが、今回の列藩同盟軍は六斤砲を用意した上、稲荷台に小銃を装備した藩兵を配置して待ち受けていた。また、磐城平城に入っていた古田山三郎らは相次ぐ敗戦の雪辱に燃え、戦意高揚していた(負けっぱなしでいられるかー!)。


新政府軍は散開して城に近づくが、後装銃を含むこれまでにない銃撃を受けて前に進むことができず、午後になっても戦況は変化しなかった。期待した湯長谷からの増援も当初の連絡の不備により訪れず、弾薬の欠乏から勝機なしと見て薩摩藩は後退を始める。


新政府軍は負傷者を出したが死者はなく、銃声を聞いてようやく出撃した岡山藩兵に迎えられて湯長谷にともに撤退した。一方の同盟軍は、防御側であるにも関わらず、この日の仙台藩兵の死者は30人と負傷者が20人、相馬中村藩兵の負傷者が2人と甚大な被害を出した(うう、、)。


こうして、2度に渡る新政府軍の攻撃を甚大な被害を出して辛うじて退けた列藩同盟軍であったが、戦況は日に日に悪化していた。白河口と棚倉城の失陥は周囲の藩に動揺を与え、棚倉に近い三春藩と守山藩は独自に和平の道を模索し始めている(おい)。浜通りにしても湯長谷藩は既に本拠を奪われた上、四方が同盟に加わっているため止むを得ず従っているだけと新政府へ意を伝えていた(おいー!)。


中村藩にしても北に仙台藩と接し、逆らえば即座に侵攻される地理的理由があった。不在の藩主「安藤信勇」に代わり、隠居の「安藤信正」の佐幕思想によって列藩同盟軍に協力している磐城平藩であっても、藩論は一つでなかった。信勇は5月の時点で明確に新政府に恭順を誓っており、美濃別領で召集した兵力を新政府軍に派遣していた。仙台藩は本拠を失った泉藩・湯長谷藩の藩主を仙台に保護していたが、転戦を続ける泉藩・湯長谷藩兵にとってこれはまさに人質であった(そんな状況ー?)。




⚫︎ 第三次磐城平攻防戦


新政府軍は一挙に戦局を優位に進めようと仙台への侵攻を計画し、磐城平城の占拠に本腰を入れつつあった。3日に四条隆謌を仙台追討総督とし、平潟軍はようやく軍司令を擁することになる(四条総督が実際に平潟に到着するのは7月22日)。続々と援軍も到着し、第四陣として鳥取藩6小隊300人、岡山藩80名および後方支援担当の郡山藩70名が実戦指揮官の参謀「河田景与」と共に到着すると、9日には第五陣として砲兵を含む薩摩藩469名が加わり、12日には第六陣の鳥取藩700余名が到着。平潟新政府軍の陣容はほぼ倍となった上に、仙台藩侵攻を企図する新政府はなおも援軍の編成を進めていた。


倍増した兵力を生かし、新政府軍は磐城平城包囲を目論む。13日午前5時、沼ノ内から出撃する右翼の薩摩藩3隊が東方面へ、小名浜からは薩摩藩、大村藩、鳥取藩が中央隊として渡辺清に率いられて磐城平城の南へ、湯長谷からは佐土原藩、岡山藩に鳥取藩の3小隊が加った左翼隊が磐城平城の西へ向けて進軍した。


北方面についてはあえて兵をつけず逃走経路として残しており、これは新政府軍が殲滅ではなく拠点の確保を目的としていたためである。


後方の平潟には後方支援部隊の郡山藩兵が入ったため、それまで平潟守備についていた笠間藩200名は列藩同盟軍に占拠されていた自らの飛領神谷村へと向かった。神谷村は磐城平城から東6kmに位置し、その更に北東には中村藩、仙台藩、米沢藩の増援が陣を構えていた四倉があった。このため、笠間藩兵は同盟軍増援の真正面に立つことになる。


左翼隊は兵を三分し、先日の攻防戦で苦しめられた稲荷台陣地へと攻勢を強め、中央隊、右翼隊は稲荷台が混乱している隙に磐城平城下になだれ込む。左翼隊の奮闘によりついに稲荷台の同盟軍も撤退し、新政府軍はとうとう磐城平城の三面包囲を完成させた(やばい)。


折りしも当日の空模様は雷雨となっており、火縄銃主体の仙台藩、中村藩の火力は著しく減退していた。また先日の攻防戦において元込銃での防衛力を発揮した米沢藩3小隊は11日に四倉へ引き上げていて不在で、磐城平城に残された兵力については幕臣直参を中心とする「渡辺綱之助」率いる純義隊と、磐城平藩の一大隊が記録の残っているが、いずれにせよ城外に展開して陣地を取り戻す余力は残されていなかった(やばいって)。


新政府軍の包囲を解くには、もはや四倉からの援軍による攻撃に頼るしかない状況だったが、仙台藩と中村藩は磐城平城周辺での戦闘で消耗しきっていた。特に弾薬の補給と部隊の再編成が急務であり、13日中の援軍出撃は不可能だった(やばばばば)。


一方、米沢藩兵は後装銃で武装する3小隊(1日の防衛戦で活躍した部隊)を磐城平城に駐屯させており、10日には3小隊を率いた大隊長「江口縫殿右衛門」が到着した。しかし、江口は磐城平城に入ることなく、逆に前述の通り11日には磐城平城の3小隊を四倉へと引き上げさせた。磐城平藩は江口に入城を求めるが、江口は「平城に砲声起こらば必ず救援すべし!」と言うばかりだった(まじかこいつ)。


かくして、新政府軍による磐城平城包囲が始まったが、米沢藩兵6小隊は出撃したものの、神谷村で飛領に駐屯していた笠間藩兵と遭遇するなり、戦意を失って四倉へと戻った(こらー!)。仙台藩は後にこの米沢藩の行動を、同盟離反の最初の表れとして非難しているが、この時期の米沢藩は北越戦争では激戦を繰り広げていた為に、江口が自らの判断で兵力温存に徹したためという見方もされている(江口このやろー!)。


以上の経緯から、戦況の甚だしく不利であることは篭城側の列藩同盟軍も把握しており、新政府軍も既に磐城平城の本丸外堀にまで達していた。藩主に変わって磐城平城主となっていた安藤信正は、家臣団に説得されて午後に脱出を決意し、新政府軍が故意に開けていた北へ向けて純義隊と共に河村村へ逃走する。仙台藩兵も仙台まで信正を護送する必要があることから退避する。かくして残されたのは磐城平藩兵とわずかな中村藩兵のみとなった(おいてけぼり)。


だが、後に残された磐城平藩家老「上坂助太夫」と中村藩の「相馬胤眞(将監)」は、なお戦意を失わず、城内の銃器を役目、身分を問わず配布、4小隊200名ほどを編成して装備も優れた3,000名の新政府軍と対峙する(ようやく漢らしいキャラ登場)。


新政府軍は門を破るべく砲撃を重ね、ついに山砲の一弾が内門に命中、衝撃で貫木をへし折るに至った。新政府軍は歩兵の突入によって一気の制圧をはかるが、砲兵と歩兵の連携が上手くいかず、駆けつけた守備側に米俵を積み上げられて門を封じられてしまう。攻防は休息なく続き、次第に日が落ちていく。


磐城平城はついに午後の攻勢を凌ぎきって、13日の夜を迎えようとしていた。新政府軍参謀部では夜戦を避け、翌日攻撃を再開する決定を下し、宿営地までの引き上げを各藩に通達する。しかし、薩摩藩は命令を無視東門にはりついたまま夜陰が下りても攻撃の手を休めることはなかった(薩摩しつけー!)。


磐城平城側は少数のため交代人員も立てられず、休む暇のない薩摩藩の猛攻に次第に限界が迫っていた。銃弾、兵糧はまだ余裕があったが、砲弾はすでに欠乏をきたして反撃もまばら。しかし補給しようにも薩摩藩が攻勢を止めないために外部から運びこむこともできず、継戦はもはや不可能な状況であった(もはやこれまで)。


上坂助太夫は、城を枕に戦死する覚悟を定め、後は磐城平藩のみで守るので退去するよう相馬胤眞に促す。


「では、全軍は退く準備に移れ。私は殿より城を預かる身、城を枕に討ち死にいたす」


「上坂殿の覚悟は相分かり申した。なれば、私も城に残り最後まで戦いましょう」


「そ、それは……」


相馬中村藩の名前から分かる通り、大名に連なる者である相馬将監の、自分も討ち死にいたすとの言葉にはさすがに上坂も怯んだ。この年若い、最後まで磐城平の為に戦った相馬の武者をこの様な場所で死なせる訳には行かない。上坂は自身の意地を捨てる決意をした。


「そこまで仰せとあれば、私も城を去りましょう」


「それが良い、戦はこの一戦で終わりではない」


相馬の説得により、ついに上坂も退去する方針に改めた。深夜0時、城内に火を放って守備隊は全軍引き上げを開始する。火の手をみるや、薩摩藩兵はすぐさま城内に侵入し、磐城平城は焼け落ちた。


この戦闘における新政府軍の死者は16名。一方、守備方の死者は中村藩が25名、仙台藩が7名、磐城平藩は58名を数えた。


かくして、新政府軍の平潟上陸から約一ヶ月にわたる磐城平での戦いは幕を閉じる。13日深夜の磐城平落城の報を受け、四倉の列藩同盟軍は中村藩領での体勢立て直しを期して同地を去る。こうして、浜通りは中村藩を除き、新政府軍の支配するところとなった


新政府軍としての今後の戦略は、白河口の部隊と連携して北上を続けることであり、そのためには白河口への増援を派遣する必要があった。そこで平潟軍を二分して一方を従来通り中村藩および仙台藩へ、もう一方を山間の道を抜けて白河口の部隊と共に三春藩方面を攻撃することに決定した。




がんばったのにダメでしたね。まあ兵力の差がありすぎて無理ゲーでしたからね。そもそも平潟上陸を許しちゃった時点でもう負けが確定してましたしね。

こりゃもう新政府軍とめられんすわ。。

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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