中村藩の正式名称は「相馬中村藩」らしい。藩主が一貫して相馬家だからなんだとか。で、その歴史が実に古くて、ルーツはなんと平安時代まで遡るそうな。
相馬家は平氏一門の名家であり、鎌倉時代初期の平泉遠征(1189年)後に陸奥国行方郡に移住して、7世紀前半の浮田国造領(陸奥国の宇多郡と行方郡)を支配下に収めて以来、1492年の標葉郡の領土編入を経て、戊辰戦争終結(1868年)までの約740年間に亘ってこの地を統治した。
ってんだからすごい。名門中の名門じゃないすか。このような長期間の統治を行った領主は、島津氏(鹿児島県)、相良氏(熊本県)、南部氏(青森県)など少数らしい。
なるほど前回の磐城平城攻防戦クライマックスにおいて「相馬胤眞」まで道連れに出来ないと「上坂助太夫」が玉砕を断念したのも頷ける。いまだに相馬市って名前が残るくらいのお家柄ですものね。
今回はそんな由緒正しき相馬中村藩が、戊辰磐城の戦いで辿った経緯を見てみましょう。
⚫︎ 広野の戦い(第一次)
新政府軍としての今後の戦略は、白河口の部隊と連携して北上を続けることであり、そのためには白河口への増援を派遣する必要があった。そこで平潟軍を二分して一方を従来通り中村藩および仙台藩へ、もう一方を山間の道を抜けて白河口の部隊と共に三春藩方面を攻撃することに決定した。
これにより、中村藩方面を任された四条総督の軍は二分されて一時的に兵力が半減したが、新政府は平潟方面軍の目標を仙台藩侵攻と定めており、そのための援軍を編成中だった。だが、四条は援軍の到着を待たずに現有戦力での中村藩への北進を決断する。これは白河口方面軍と互いの側面を補い合う戦略をとっているために合わせて北上する必要があったことと、ここまでの戦勝で同盟軍に対して自信を深めていたことが理由に挙げられている(ちっ調子こきやがって)。
磐城平城陥落に伴って、同盟軍は四倉を放棄。新政府軍の予測では、仙台藩、中村藩、人見の純義隊ら同盟軍は北へ遠く撤退しているものと見ていた。そのため7月22日、四条は広島藩兵と鳥取藩兵を先に四倉へ派遣する。
広島、鳥取両藩兵の任務は四倉の制圧であったが、同盟軍が遠く逃げ去って姿も見えないことから、両藩は北の久ノ浜まで前進。更に広島藩の1小隊を大きく前進させ、広野手前の末続村において哨戒に当たらせた。しかし、土地勘がなかったために成果は挙がらなかった上、夜半に入るなり中村藩2小隊の夜襲を受ける(お!いいね)。
広島藩1小隊は混乱に陥りつつ、辛うじて末続村南方3キロの久ノ浜に撤退した。襲撃の対象となった広島藩だが、これにより戦意を刺激される。広島藩は鳥取藩に共同での攻撃前進を提案。鳥取藩はこれを容れ、久ノ浜周辺に鳥取藩3小隊を残して両藩は進軍を開始し、海岸線沿いに広島藩を先頭にして縦列となって進んだ。
その途上で、同盟軍の一部が亀ヶ崎(久ノ浜から北西内陸に45km進んだ地点)にいるという情報を得て、鳥取藩は軍を分けて3隊に亀ヶ崎襲撃を命じる。果敢に三方から攻めあがる鳥取藩兵に対し、亀ヶ崎に駐屯していたのは中村藩1小隊のみであり、中村藩兵は取るものも取らず逃げ出していた。結果、鳥取藩兵は交戦することもなく放棄された亀ヶ崎を占拠する(弱いなあ中村はん)。
一方、本隊である海岸沿いを進む鳥取藩、広島藩は広野の南に流れる浅見川に到達した所で、向こう岸に陣を張る同盟軍を発見。直ちに攻撃に移っていた。その時の平潟方面軍はこれまでの経験から、同盟軍の本隊は遠く熊ノ町にまで撤退していると判断しており、向こう岸の同盟軍は少数の容易な相手と思い込んでいた(なめやがって)。
実際には、この同盟軍は仙台藩と中村藩の他に彰義隊に参加していた「春日左衛門」が陸軍隊を率いて参戦。士気を取り戻した同盟軍は、亀ヶ崎を落とした鳥取藩分隊が新たに新政府軍に加わっても動揺せず、川を利用した陣地で新政府軍の前進を阻んだ(お!いいね)。
やがて日が沈むが、新政府軍は相手の戦意を再び見誤り、夕方から明け方にいたるまでの戦闘の続行を決定した。翌日の午前8時、ようやく同盟軍は後退し始めるが、徹夜の戦闘で新政府軍は疲弊して追撃もできず、その日は広野にとどまる他はなかった(ざまーみさらせ!)。
⚫︎ 広野の戦い(第二次および第三次)
浅見川を越えて広野を確保した広島、鳥取両藩兵であるが、夜を徹して戦闘を行ったために24日中は行動できる状態ではなかった。しかし、川を背にして陣を張ることは防衛に難が生じ、後続の部隊も津藩からの援軍を迎えて編成中であるため、待たずに早々に2藩で前進することを決めていた。
その進軍準備が終わろうとしていた25日、同盟軍から銃撃が加えられた。両藩に逆襲できるだけの兵力はなく、急ぎ陣地にこもると同盟軍もそれ以上の攻撃をしかけず撤退した(どっちもヘロヘロやな)。
翌26日の早朝、再び同盟軍が襲撃をしかけてきたが、今回の攻撃は両藩兵を浅見川に追い落とそうとする猛攻であり、両藩とも陣地にこもってひたすら救援を待つしかなかった(やったれやったれ!)。
正午、長州藩2中隊と岩国藩1中隊が到着。増援2藩は到着するなり猛攻を受けていた陣地から飛び出し、同盟軍陣地を強襲する。鳥取藩、広島藩も鬨(とき)の声を上げながらそれに続くと、勝ちつつあった同盟軍は逆襲に怯み、形成を逆転されるに至って恐慌の態で一斉に逃走した(こらーすぐ逃げんな!)。
同盟軍諸兵の動揺は下北迫の自軍陣地に到達しても収まらず、なおも北へと走らせる。同盟軍の部隊長らは踏みとどまらせて新政府軍を迎え撃つようと命ずるが、長州藩の機動力を伴った追撃は藩兵をより恐慌へと駆り立てた(ビビりたおしてんな)。
そのため、義務感から踏みとどまって防戦を行おうとした仙台藩参謀「中村権十郎」が戦死し、海岸線で奮闘した「伊達藤五郎」は負傷して退却。中村藩の鬼将監こと「相馬胤眞」も重傷を負い、同日死亡した(あ〜あ結局しんじゃった泣)。
それらの相次ぐ死傷者の報に絶望を煽られた藩兵は、拠点の木戸駅を放火し、天然の要衝北繁岡にも目もくれず逃走する。夜ノ森をも通り越して中村藩領に入り、熊川に到達してようやく足を止めた(逃げ帰りすぎ)。
長州藩兵は木戸に復ってその地に宿営し、午前の交戦で負傷者の増えた鳥取藩兵と広島藩兵は広野に戻った。この戦いでの死者は新政府軍が12人、同盟軍は13人であるが、戦意を喪失した同盟軍が多くの拠点を奪われることになった。
福岡藩1中隊が合流した新政府軍は、28日から北への急進を開始し、列藩同盟軍主力が引き上げた後の道筋を次々と攻略していった。夕方には長州藩兵らが夜ノ森付近の抵抗を死傷者を出しつつ撃破。
仙台藩記は中村藩が先に打ち破られ、戦線が崩れたことを書き記しているが、同時に中村藩の新政府への寝返りを疑う藩内部の声が記録されている(う、疑うのか!)。
実際、京都から復ってきた中村藩家老の「岡部正蔵」が新政府への恭順を強く主張しており、密かに検討が重ねられていた(ホントにやってましたw)。
新政府軍は列藩同盟軍拠点となっている熊川に向かったが、町は既に同盟軍によって放たれた火が燃え広がっていた。長州藩兵は町を遠回りに追撃したものの同盟軍は見えず、夕方になったため夜ノ森付近で宿営した。
⚫︎ 浪江の戦い(第一次)
29日、仙台藩は「相馬中村藩の行動に怪しむべき点あり」と離反を疑い、前線を去って後方の中村に引き上げた。陸軍隊ら、旧幕府の部隊も引き上げ、もはや前線に立つ部隊は中村藩2小隊のみとなっていた。しかし、本拠地まで45km地点に新政府軍を迎えたことから、自領を守るという目的が芽生え、中村藩兵は戦闘意欲を取り戻していた(スイッチ入るの遅すぎませんか)。
離散していた藩兵たちも次第に集合を始めていたが、新政府軍は迅速な進軍をみせてたちまち両者は接近する。特に先頭を行く福岡藩、津藩の進軍速度が速く、後続の長州藩、鳥取藩、広島藩はやや離れて追走する形となっていた。福岡藩と津藩は順調に新山を制圧して北上を続け、高瀬川を前にしたとき、ついに中村藩の陣地を川の向こう岸に見ることになる。
その日、高瀬川は水かさが増し、流れも急であったが援護射撃を受けて何とか一本の橋梁を作り、川を越えることに成功(午後3時)する。だが、この陣地の中村藩兵は頑なに反撃の意思を崩さず、午後6時を目前にしても福岡藩、津藩は陣地を突破できず、川を背に立ち往生していた(やればできる)。
後続部隊もまだ遠くにあり、両藩は孤立する。午後6時過ぎ、西の河内村から援軍に来た中村藩5小隊が姿を表す。中村藩兵5小隊の前には、福岡藩が左側面を見せていた。5小隊による左側面の攻勢は完全に奇襲となり、福岡藩、津藩は統制を失って後退を始める。しかし退路は一本きりの橋梁であり、撤退に手間取っているうちに陣地から飛び出してきた中村藩兵の抜刀白兵戦を受け、被害を拡大させた(やればできる!)。
ようやく高瀬川を渡りきった新政府軍であるが、この戦いで中村藩死者8名、負傷人7人に対し、死者15人、負傷人50人といった大きな被害を受け、新山へ向けて退却した。後続の新政府軍は新山に全軍を集結させ、四条総督、木梨精一郎、河田景与は失敗を踏まえた新たな作戦を協議した。
⚫︎ 浪江の戦い(第二次)
雨脚の強い8月1日の早朝、長州藩と岩国藩の各1中隊は高瀬川の上流へと向けて西へ出発する。広島藩兵の2小隊には先日構築した橋梁を使っての正面からの攻撃を指示、長州藩1中隊と津藩は高瀬川の下流である東へと向かわせた。
作戦の目的は正面の広島藩が浪江の同盟軍をひきつけているうちに上流、下流それぞれの場所で渡河の手段を見つけて回り込んで浪江を包囲することだった。
かくしてまずは正面を突いた広島藩兵と中村藩兵が交戦を開始するが、強固な浪江陣地を前に広島藩は渡河地点から前に進めない。川を背に防戦しつつ、別働隊の到着を待つしかなかった。東に進んだ長州藩1中隊と津藩は下流の渡河に成功したものの、手間取って時間を費やしてしまった上、東から浪江へ攻めこもうとするが、中村藩の構築した幾世橋陣地が立ちはだかって、すぐに広島藩の援護に回れない。
これに対して、西の上流方面に進んだ長州藩と岩国藩の各1中隊は上流から大きく迂回、半弧を描いた機動は北(中村側)から浪江の背後をついた。両藩の進軍先には中村藩の砲台が築かれた高地があったが、長州、岩国両藩は驚く中村藩砲兵を撃破してこれを占拠。そのまま、時をおかず高台を駆け下りて浪江を背後から攻撃した。
長州藩の突撃は高地から中村藩の背後を突く決定的なものであり、先日の広野のように中村藩の戦意を粉砕した(メンタルもろい)。長州、岩国両藩に分断され、一斉に東西へ分かれて逃走を開始する中村藩だが、中でも東(海側)に向かった中村藩兵は悲惨だった。浪江陣地の東には、ちょうど幾世橋陣地を攻略したばかりの新政府軍(下流に派遣されていた長州藩1中隊と津藩兵)がおり、中村藩兵は統制もなく田畑の中を散らばって逃げるしかなかった。
西(山側)に逃走した藩兵は被害こそ受けなかったが、もはや軍隊としての形を成さないまでに撃ち散らされたことは同じであった。この大敗は中村藩の抗戦を完全に断念させた重大な敗北であり、中村藩の組織的な抵抗はこの戦いで終了した(終了ですって)。
⚫︎ 中村藩の降伏
1日の浪江の敗戦を受けて、仙台藩兵は中村藩の中村城から仙台藩境の駒ヶ嶺に引き上げる。米沢藩兵も自領へと帰り、陸軍隊、人見遊撃隊らもすでに仙台へと退却していた。
7月29日には新潟港が陥落して会津藩が孤立無援となり、同日には激戦の末に二本松城が落城(二本松の戦い)しており、仙台藩らは自領の防衛を優先していた。
2日、仙台参政松本要人は中村藩主「相馬誠胤」に使者を送り、仙台に逃れて再挙を図るよう誠胤と父の後見役の「相馬充胤」を説得。しかし、敗走する磐城平藩を見てきた充胤は、藩兵に対する人質であることを理解していたため、城を守って倒れることは武門の本懐であると脱出を拒否。徹底抗戦を約束する一方、中村藩は4日に新政府へ降伏の使者を出した。6日には再度仙台藩の使者が訪れ、その難詰に対しては同盟に留まることを確約しつつも、既に同日に新政府軍から正式に降伏を認められていた。
翌7日、中村藩の降伏を受けて四条総督ら新政府平潟方面軍は中村に入城。こうして、浜通りの諸藩は全て新政府軍に制圧された。以後、中村城は新政府軍の対仙台拠点となり、仙台藩が降伏するまで2ヶ月間におよんで物資、人員を徴発され続けることになる。
平潟方面軍が中村藩を占領した時点では、白河口方面軍はまだ二本松城に留まり、援軍を待っている状態であった。また、会津藩に侵攻可能な位置にまで進出したため、今後の侵攻について議論が起こっていた。
大村益次郎は「まず枝葉(各藩)を刈れば、根幹(会津)は自然と枯れる」と主張し、現地指揮官の伊地知正治と板垣退助は「根幹を抜けば枝葉を憂慮する必要はない」と主張。結局現地の二人の意見が優先されるまで若干の日数を要した。
そのため、一直線に中村城へ向かった平潟軍は、白河口方面軍に比べて大分北に来ており、既に双方の連携もとれないほどに突出していた。それでも四条総督は果敢な進軍を選び、中村城を制圧した当日の7日に中村藩兵と共に撤退中の仙台藩兵へ追撃に出た。
仙台藩からすれば先日まで徹底抗戦を唱えていた中村藩が先頭に立っての襲撃であり、仙台藩兵は狼狽した。それでも、3小隊ほどが踏みとどまって遠藤主税の元、中村藩軍を迎え撃ち逆に押し返すほどに奮戦したが、長州藩兵らの攻撃によって壊走した。これにより、仙台藩兵は完全に浜通りから姿を消した。
中村藩は城を攻められずして降伏し、即日仙台藩と交戦したために、当初は仙台藩において報復の声が上がったが、中村藩は同盟軍として戦って88名の戦死者を出し、新政府に与してから更に59名の戦死者を出したことから、敗者側に立った「会津戊辰戦史」でも「厳密に武士道の見地より論ずれば赦し難き感あるも、人情より論ずれば深く咎む可からざるに似たり」と、その立場は理解されており、同書において「初めはどちらにつくかを隠して両者に媚を売り、時勢が判明するや裏切りの毒を逞うする者、東に三春あり、西に新発田あり」と糾弾された両藩とは扱いが異なる。
てなわけで、中途半端な抵抗もむなしく、最後はペコペコ降伏。城も敵にズカズカ踏み込まれ拠点にされたあげく、コキ使われてでも生き残る道を選んだおかげで今の相馬市があるってわけですね(言いすぎ)。
まーでもしゃーない。滅亡の道を選ぶよりは正しい判断でしょう。昨日までの味方と戦うため先頭に狩り出された屈辱と苦悩は相当なものだったでしょう。
戦争はつらいやねえ。
参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/磐城の戦いhttps://sengoku-his.com/463
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