相馬中村藩が降伏して強制的に寝返られさせた話ついでに、もうひとつの裏切り藩の話を挟みましょうか。舞台は新潟に戻りまして、北越戦争であの「河井継之助」を死に至らしめた新政府軍の大逆転劇の要因になった話だそうです。
ちなみに ↑ の映画はフィクションなので、以下の史実とは関係ないようです。
⚫︎ 煮え切らない態度のシバタはん(新発田藩)
読みにくいのでシバタはんで行きますね。要は、新政府に歯向かいたくないけど、立地的に欧州越列藩同盟に参加せざるを得ない、てなタイプの藩であります。
「もちろんお前も一緒に命懸けで戦うよなぁ?」
「え、まあ、、」
「そう言いながら裏でこそこそ新政府と連絡してねーよなぁ?」
「し、してないっすよ、、」
そんな調子なので、他藩からむっちゃ疑われまくりだったそうな。
同盟に加盟後、前線に1兵でも欲しい会津、米沢から強烈な出兵督促がくる。のらりくらり言い抜けることはできず、出兵の約束をさせられてしまう。ところが領民が道をふさぎ、橋を落とし、川にも柵をして「官軍とは戦わないでくれ」と懇願される。
6月3日、米沢藩主「上杉斉憲」が自ら1000人余の兵を率い米沢を出発、6日に越後下関(関川村)に到着。これに先立ち5日、斉憲の使者として、軍監「大滝新蔵」がシバタへ急行。直正に下関に来てもらい軍議を開きたいと申し入れてきた。1000人余の米沢兵のいるところへ出て来いということは、人質となれということである(信用ゼロである)。
6月7日、直正、溝口内匠、少数の藩士が城を出た。しばらく進むと、竹槍を持った領民たちが道を塞いでいた。城下の町民や、領内各地から集まった農民だった。村役人たちが群衆を指揮している。さらに群衆の中には、変装したシバタ藩士も混じっていた。直正の籠は清水谷の別邸に入り、9日まで滞在し、帰城した。
シバタはんは、諸藩への申し開きのために領民を扇動した首謀者を捕えて見せねばならなかった。首謀者として「折笠泰助」「阿部求之丞」を縄にかけ、下関へ護送していった。米沢の取調べは峻烈だった。しかし、2人はシバタへ送り返されてくる。真犯人が小物ではないことを見抜いていたからか。藩では彼らを投獄したが、西軍が上陸すると釈放している。
領民蜂起の裏には多くの藩士がいたようである。「溝口伊織」は5月頃、家臣「田宮余一」を酒癖を理由に追放した。田宮は姿を消したが、実は伊織の密命を受けていたという。6月7日の領民蜂起のとき、あちこち飛び回って、なにか指揮している田宮の姿があった。溝口内匠の家臣「小川作兵衛」も田宮の同志で、二人は領民の間に地下運動を組織していたといわれる。
6月9日、シバタの郊外に米沢ら同盟諸藩の軍隊が続々集結し、シバタ城は包囲される。出兵させるか、藩主一族は城を立ち退くか、夜12時までにどちらかに応じなければ、総攻撃に移る、と最後通告を突きつけられた(もはや信用マイナス値w)。
約束の12時を過ぎても、シバタはんからの返答はない。大滝新蔵は腹心の桜孫左衛門を呼び「自分は単身シバタ城に乗り込むから一刻過ぎても戻ってこなかったら総攻撃に移るように」と伝える。大滝が城へ向かおうとしたとき、馬が駆けて来て、溝口内匠らが来て、直ちに出兵する、領民扇動の首謀者 2名(前出の折笠、阿部)を引き渡すと回答した。そして何事もなかったように10日の朝を迎えた。
東軍として出兵
6月11日、物頭佐藤八右衛門、溝口四郎左衛門以下200名余、砲4門を率いて、見附の第一線に向かった。沼垂にいた堀主計隊からも200名余と砲2門が半左衛門の指揮下に入り、見附へ向かった。半左衛門の部隊には米沢藩兵が監視のために付いていた(まだ信用ゼロw)。
19日、シバタはんの初陣となる。先鋒を命ぜられ、米沢の2小隊が「督戦隊」としてその後ろについた。さらに、5、6人の米沢藩士が直接シバタ勢に入り込んで監視した。シバタはんは佐藤八右衛門が負傷したほか、戦死4、戦傷5の犠牲を出したが、米沢藩より「御初陣の御勝利、ひっきょう御世話行き届くの故と、全く感心候」と評価され、「この末は、諸藩の疑念も散じ候はもちろん、及ばずながら幣藩にていずれの義へも、万端引き受け申し候」とされた(良かった褒められた)。
新政府、西軍へ弁明
その一方、シバタ藩士「寺田」「相馬」は長岡にいる新政府軍「山縣有朋」「黒田了介」の両参謀と会い、シバタはんの立場を弁明。指示を仰いだ。新政府は「シバタの行動は微力な藩としてはやむをえないものと太政官も了承した。官軍に敵対しても、時を得て勤王の実効を表せば、お家のことは案じなくても良い」と回答。シバタはこれから始まる新政府軍の上陸作戦に協力する密約をしたという(おいおいそれは卑怯だぞシバタはん)。
⚫︎ 裏切りの新潟戦線
25日朝、沼垂の隊長「堀主計」も急報で官軍の太夫浜上陸を知った。彼は農夫に変装した「吉田斧太夫」を「庄屋九左衛門」とともに、西軍のいる松ヶ崎へ渡河させた。話はすぐに通じて、斧太夫は軍議に参加。シバタはんの立場を説明し、一同が了承。西軍からは敵の兵力、配置、道筋などの質問があった。
斧太夫は「敵の防備は手薄で速やかに進撃すべき」と進言した。船の準備のため渡河は翌26日、シバタ兵は官軍には空砲を撃つこと、シバタ兵は溝口家の五段菱紋を標識とし、官軍はこれには安心して前進してよい、といったことが取り決められた(引くわ〜)。
堀主計は、新潟の東軍の軍議にも密偵を派遣して情報を収集した。会津藩士「大沢新助」が津島屋へ斥候へ行き、シバタが裏切ったことを知り新潟へ帰ると、その密偵はいなくなっていた。その夜、仙台藩士がシバタはんの間者2人を斬り、1人は逃がしたと大沢は記述している。
西軍が阿賀野川を渡河すると、米沢兵はシバタ兵と西軍に挟み撃ちされる危険を感じて、信濃川対岸の新潟町まで退却。信濃川を挟んでの打ち合いが26日夜から27,28日と続いた。
撃ち合いの間に西軍は、最初の渡河の地点を上流4,5キロの所に定め、シバタ勢が渡河用の船30隻を集めた。29日未明、シバタ勢は長州藩士を案内し、対岸の隠密偵察をした。2人の偵察によれば対岸の東軍は意外に手薄であることが分かり、午前4時、渡河を始めた。
シバタ兵は数名が案内役をした以外は、沼垂での援護射撃を命ぜられた。シバタはんの内応によって、新政府軍の海上部隊は佐渡から急襲。奥羽越列藩同盟は、壊滅的打撃を受けて敗退する。ここから増援経路を確保した新政府軍の巻き返しが始まり「長岡城の二番崩れ」や「河井継之助の死」を招くこととなる。
また、シバタはんは阿賀野川河口や沼垂地域を領地としていたので、新潟から船運で物資、兵器・弾薬を輸送していた会津藩にとって、シバタの帰趨が生死にかかわっていた。シバタが新政府軍に寝返ったたことによって、会津の落城が早まったともいわれている。この時のしこりが残り、会津の人の間では、「シバタの人間に背中を向けるな、いつ後ろから殴られるかわからない」と、今もって言われることがあるという。
シバタの人々もそうした誹りを受け続けてきたせいか、どこか排他的で他の市区町村に対して非協力的だとする声もある。
シバタはんは会津、庄内藩が降伏する9月下旬までのおよそ2か月間にわたって、戦場では常に先鋒を命じられ、藩士、農兵、力夫を合わせ63人にも及ぶ戦死者を出した。
新政府軍兵士たちの間におけるシバタはんに対する見方は厳しかった。「大恩を忘れて、会津藩に使われていたのに、今度はこれを裏切り会津征伐に向かうとは片腹いたい。シバタの腰抜け侍め!」と前線で戦う兵士の間では、密に嫌悪されていた。シバタ兵はこれらの偏見を払拭するためにも、率先して戦いに臨まなければならなかった。
第二次大戦においては、やはり裏切り者のイメージがあったため、シバタ連隊は取り分け過酷な戦地へ送られた。
裏切りの代償は大きいですな。。
過去のことで子孫まで今だにいじめられるのは気の毒だが、たしかにこれは消したくても消せないレベルの黒歴史ですね。武士の時代にこれやっちゃうと、家名にも地名にまでも傷を残してしまうもんなのか、と考えさせられるものがありますね。
かと言って、死ぬの分かってて戦うのもヤダしね。。
参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/新発田藩https://www.touken-world.jp/edo-domain100/shibata/http://park2.wakwak.com/~fivesprings/books/niigata/sibatajyou2.html#akasaka
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