vol.159「会津戦争のはじまり」について


さあ、東北もかなり新政府軍に支配されちゃいまして奥羽越列藩同盟も大ピンチ。そして、ついに会津に対する直接攻撃が始まってしまう。わけですね。しかし、言うても会津は強敵中の強敵。どうやって攻める?



⚫︎ 枝葉を刈るか、根本を刈るか


7月29日の二本松の戦いで二本松城が陥落した。これにより、新政府軍は会津を東から攻撃出来る状態となった


次の段階として、新政府軍は江戸に居る大総督府の参謀・大村益次郎は「枝葉(会津藩を除く奥羽越列藩同盟諸藩)を刈って、根元(会津藩)を枯らす」と、周囲の敵対勢力を徐々に陥落させていく長期戦を指示したが、戦地の板垣退助伊地知正治らは、これに反対し「根元を刈って、枝葉を枯らす」と、一気呵成に敵本陣を攻める短期決戦を提案。


会津藩が国境へ兵を出して藩内を手薄にしている今が有利である上に、雪の降る時期になると新政府軍が不利になるため、その前に会津を制圧したいというのが主な理由であった。


(この時、会津、庄内両藩は蝦夷地をプロイセンに売却して資金を得ようしていた。板垣らが会津を攻め落した為に、ビスマルクから返書が阻止されて蝦夷地売却の話が反故となったが、長期戦となっておれば、日本の国境線は大いに変わっていたと言われる)


結局、板垣と伊地知の意見が通り、新政府軍は会津へ向かうことになった。しかし、会津の周りには山々が囲み、外からの侵攻を阻む天然の要塞として立ちはだかっており、おのずと、攻略ルートも限られてくる。


当時、江戸から会津に到達する道は、大きく分けて3ルートあった。

1.二本松街道ルート

白河から奥州街道をさらに下り、本宮から西に折れ二本松街道に入り、中山峠や母成峠を抜け、猪苗代湖を左手に見ながら会津に至るルート。


2.白河街道ルート

白河から北々西の勢至堂峠を抜け、猪苗代湖の南岸から西岸へ抜けるルート。距離的には最短で、会津に至るメインルートである。


3.会津西街道ルート

白河を通らず、宇都宮から日光へ入り、北へと進んでゆき会津に南から入るルート。通称「南山通り」と言われていた。


旧幕府軍のエリート集団「伝習隊」を率いる大鳥圭介らが守る南山通りは、苦戦が予想されることから早々に却下され、残り2ルートで意見が割れる。最短の白河街道ルートを主張する板垣に対し、伊地知は、最短ルートは敵側も予測するので却下とし、二本松藩や仙台藩などの邪魔な勢力を排除しつつ、母成峠を通って会津に至る二本松街道ルートを主張した。結果的には、より発言力の強い伊地知の案が通り、ここに「会津戦争」が行われることとなった。


会津藩は新政府軍が中山峠に殺到すると予測しており、新政府軍はその裏をかく形となった。この頃、日本列島に、台風が接近していた。雨の戦争。北越の戦線を雨で覆い尽くした気候は、会津にも、さらなる雨をもたらそうとしていた。間断なく降り注ぐ雨のため視界不良となった光景は、会津の戦争の行方を暗示しているかのようであった。




⚫︎ 母成峠の戦い


標高972メートルの母成峠には、会津藩が「天与の要塞」として、砲台を築いていたが、その分、奢りがあった。まさかこの難所から攻めてくることはないとタカをくくり、主力は他の主要街道を守らせ、ここ母成峠にはわずか200の兵員しか配置されていなかった。


8月21日、新政府軍2,200は本隊と右翼隊に分かれ、濃霧の中で母成峠を目指した。日光から大鳥圭介の伝習隊がかけつけ、周囲の同盟軍をかき集めたものの、わずか800。いかんせん手持ちの兵力が少なすぎた。


戦いは午前9時頃に砲撃戦で始まった。横幅500メートルの母成峠では、戦術もクソもない。圧倒的な兵力差で追い詰められた旧幕府軍は、頂上に残った第三台場で大砲5門を以て反撃するも、新政府軍は第二台場から大砲20余門で母成峠を攻撃した。濃霧の中、間道から現れた新政府軍に背後を襲われた旧幕府軍は大混乱に陥った。


敗色が濃くなるにおよび、大鳥の叱咤も空しく、会津藩兵等は伝習隊を置き去りにして逃走した。やがて峠は新政府軍が制圧し、午後4時過ぎにはほぼ勝敗は決した。殿となった伝習隊は大打撃を受け、大鳥の総員退却命令も伝達されないまま潰走したという。


この戦いでの土方歳三の所在は不明だが、中地口に居る兵300から400を率いる内藤介右衛門と砲兵隊長の小原宇右衛門へ猪苗代に対する警告を発している。しかし内藤らは手遅れと判断し、若松に戻ることを優先した。


その結果、母成峠を突破した新政府軍は猪苗代城へ向けて進撃し、猪苗代城代・高橋権大夫は城と土津神社に火を放って若松へ撤退した。敗走する伝習隊は諸所に火を放ち、新政府軍の進撃を遅滞させることを試みるも、22日に猪苗代に到着した新政府軍はそのまま若松へ向けて進撃を続け、台風による豪雨の中を川村純義の薩摩隊は猛進し、22日夕には十六橋に到達した。



⚫︎ 十六橋攻防戦


どしゃ降りの中、怒涛のように押し寄せる薩長軍。次の難所は、十六橋。猪苗代湖から日橋川の付け根の、急流な川にかかる橋である。二本松街道ルートの要所であり、この橋が崩されるようなことがあれば、侵攻軍は猪苗代湖を大きく迂回しなければ、鶴ヶ城にたどり着くことはできない。


当初、会津は母成峠か中山峠が破られた際、この橋を破壊する手はずとなっていた。しかし、敵の侵攻はその予測を上回るものであった。滝のような大雨をもろともせず、濁流のように侵攻する新政府軍によって、十六橋はまたたくまに敵の手に落ち、とうとう鶴ヶ城が敵方の射程圏内に入ってしまう。


もはや、敵の侵入をさえぎる天然の盾は何もない。現実味を帯びてきた、鶴ヶ城での攻防戦。松平容保は、予備部隊「白虎隊」の投入を決断する。飯盛山が、その少年兵の純血を吸うのは、そう遠くない日となった。


新政府軍は橋を占領し突破すると、夜には戸の口原に進出した。会津藩は佐川が戸ノ口・強清水・大野ヶ原に陣地を築いて防戦し(戸ノ口原の戦い)、前藩主・松平容保も自ら白虎隊(士中二番隊)などの予備兵力をかき集めて滝沢村まで出陣したが、容保は戸ノ口原の戦いで新政府軍が会津軍を破って滝沢峠に迫ったとの報告を受けると若松城へ帰城した。


新政府軍は23日朝には江戸街道を進撃し、午前10時ごろに若松城下へ突入した。東軍の戦死者は88名。西軍は25名であった。




⚫︎ 会津藩の不運


会津武士。その基質は無骨で愚直、どこまでも真っ直ぐであること。武士の鏡、武士の中の武士として、全国のもののふたちの畏敬の対象となっていたことは事実である。しかし、この会津戦争ほど、会津武士の気質が裏目に出た戦いはないだろう。


本来、戦略というのは臨機応変であるもので、たとえば当初の計画が会津全体をを国境線で防衛する「水際作戦」だったとしても、白河口が破られた段階で、戦略を見直すべきではなかったのではないか。


大鳥・土方ら主要部隊を敵が必ず通る十六橋に集結させ、敵勢力を会津の懐深くに引き入れて油断させたところで、地の利を活かして一気に殲滅するなど、大胆な戦略の変更が必要であった。


しかし、会津の律儀で融通の利かない性格は、作戦がすでに破錠しているのにも関わらず作戦の見直しを行わせず、新政府軍が十六橋に達しようとしている時でさえ、主力部隊ははるか遠くの国境線を守っている始末であった。


それともうひとつ。「武士は国を守るため戦うもの、農民は田を耕し武士を養うもの」という古い体質を引きずったままで、付近の領民を戦略に組み込もうとしなかった。


地の利を知り尽くした領民と一体になってゲリラ戦法を行えば、会津を侵攻する新政府軍はいつ・どこで・どのような攻撃があるか分からず、視界すべてが敵に囲まれているという精神的ダメージをかなり与えることができたはずである。


結果的に、領民は薩長新政府によって金品食料などで買収され、あるいは脅され、会津侵攻を手引きした一面もある。


会津盆地が天然の要害と言われているのは、そのバリエーションの多さにあった。どの街道を通って行くにせよ、それぞれ違った難所がいくつもある。攻め手は、慣れない土地の中、周囲どこから攻められるか分からない恐怖に駆られながら、五里霧中の中、攻めることになるのだ。


逆に守り手は、各部隊を有効に機能させ、領民一体となったゲリラ戦法を駆使して、相手を陥れてゆけばよい。鉄壁の防御体制を作ることも、ある意味可能であった。会津武士の美徳が逆に災いとなり、天然要塞はいとも簡単に攻略されてしまったのである。


そして…次々と離反する奥羽諸藩。崩壊する列藩同盟。北越戦線で新発田藩(シバタはん)が裏切り、米沢藩が戦線を離脱したのと同じ現象が、ここ奥羽戦線でも起こっていた。三春藩の裏切り。相馬藩の降伏。そして、盟主である仙台藩も、自国の防衛のため会津から兵を引いた。


この頃、負け続けの仙台兵に、もはや戦意は残されていなかった。ここでも、兵器の違いが勝敗を決定づけている。火縄銃の仙台藩に対して、薩長軍は、レバー操作だけで連発発射のできるスペンサー七連発銃や銃身にライフリングが付いているミニエー銃を装備。雨が続いたこの時期では、火縄銃は棒切れに等しく、仙台藩は一方的に打ち負かされるのみ。無残な現実の前に、仙台藩は撤兵、やがて薩長に膝を屈することになるのである。


一度動き出したドミノゲームは、もう止まらない。会津軍は籠城を余儀なくされ、他の戦線でも形勢不利となっていった。会津藩の降伏は1か月後のことだが、会津藩の劣勢が確実になったことで、仙台藩・米沢藩・庄内藩ら奥羽越列藩同盟の主力諸藩が自領内での戦いを前に相次いで降伏し、奥羽での戦争自体が早期終息に向かった。


母成峠の戦いが、会津戦争ひいては戊辰戦争全体の趨勢を決したと言える。




なんで臨機応変にやらなかったかね〜泣


一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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