無知なあっしでも、さすがに「白虎隊」は知ってまさ。早とちり集団自決でしょ。え? 落城を誤認した部分は創作だって? そ、そうなの?
⚫︎ 「什の掟」ならぬことはならぬものです
会津藩では、同じ町に住む6歳から9歳までの藩士の子供たちで10人前後で集まりをつくって「什 (じゅう)」と呼び、そのうちの年長者が一人什長(座長)となる。
毎日順番に、什の仲間のいずれかの家に集まり、什長が次のような「お話」を一つひとつみんなに申し聞かせ、すべてのお話が終わると、昨日から今日にかけて「お話」に背いた者がいなかったかどうかの反省会を行うのだ。
一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
什により、違うところもあったが(「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」はすべての什にあったわけではないらしいが)、終わりの「ならぬことはならぬものです」は、どの什も共通であった。
そして、「お話」に背いた者がいれば、什長はその者を部屋の真ん中に呼び出し、事実の有無を「審問」する。事実に間違いがなければ、年長者の間でどのような制裁を加えるかを相談し、子供らしい次のような制裁を加えた。
一、無念(むねん)一番軽い処罰。みんなに向かって「無念でありました。」と言って、お辞儀をしてお詫びをする。「無念」ということは、「私は会津武士の子供としてあるまじきことをし、名誉を汚したことは申し訳がない、まことに残念であります。」という意味。
二、竹篦(しっぺい)いわゆる「シッペ」である。制裁の重さに応じて、手のひらに加えるか又は手の甲に加えるか、何回加えるかを決めた。仲が良い相手だからと力を抜くものがいれば、什長は厳しく目を光らせ、すぐにやり直しを命じた。
三、絶交(ぜっこう)一番重い処罰。これを「派切る(はぎる)」と言い、いわゆる「仲間はずれ」である。めったに加えられる罰ではないが、一度「絶交」を言い渡された場合には、その父か兄が付き添い「お話」の集まりに来て、什長に深くお詫びをし、什の仲間から許されなければ、再び什の一員に入ることができなかった。
四、その他火鉢に手をかざす「手あぶり」や雪の中に突き倒して雪をかける「雪埋め」というような制裁もあった。子供にとって仲間たちから受ける審問は辛いものだが、「お話」も「制裁」もすべて大人たちに言われてつくったものではなく、子供たちが制約や強制を受けずに自分たち自身でつくり、「会津武士の子はこうあるべきだ。」ということを互いに約束し、励み合ったという。
現在の福島県会津若松市に位置する「会津藩校日新館」。白虎隊に所属していた隊士は10歳からここで厳しい教育を受けた。日新館では剣術、砲術、水泳や中国古典、さらには天文学などさまざまな学問を学んだ隊士たち。これに加え、厳しい心得を叩き込まれてきた。自刃の仕方もここで教わったという。
⚫︎ いざ戦地へ
会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めなかった。重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来は城下町防衛の任に当たるべく組織された白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍した。
若年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入された。
白虎隊が出陣したのは慶應4年(1868)8月20日。隊士たちが自刃する3日前のことであった。新政府軍の猛攻は凄まじく、長岡城(新潟県長岡市)、二本松城(福島県二本松市)、福島城(福島県福島市)を次々に攻め落としていった。
また奥羽越列藩同盟の中心であったはずの仙台藩が援護を拒否。周りの藩からの援助も失い、窮地に立たされた会津藩は兵を総動員することに。一刻も早く現場に行きたかった白虎隊士は念願叶ってか、戦闘の舞台となる「戸ノ口原」に向かった。
8月22日午後4時ごろ。日向内記隊長の指揮で白虎隊は戸ノ口原に到着。この頃、城下への侵攻を防ぐために壊すつもりだった戸ノ口原近くの十六橋を既に新政府軍は渡り、戸ノ口原で戦いが始まっていた。雨が降る中、彼らは徹夜で陣地を築き、野営した。夜10時ごろ、日向隊長が他の隊に用があると出かけたまま戻ってこず、隊士たちは緊張感に包まれた。
23日午前5時ごろ、夜が明けても日向隊長が戻って来なかったため、篠田儀三郎(当時17歳)は仲間に号令して前進した。そのうち銃声が近くに聞こえた。しかし、戸ノ口原には身を隠すような障壁が無い。篠田隊は溝に隠れた。新政府軍は、前日に布陣していた会津藩の別隊を打ち破り、銃を撃ちながら街道を進んで来ていた。
このとき新政府軍が持っていた銃は、飛距離800~1200メートル。それに対し、篠田隊が持っていた銃の飛距離は200~300メートルしかなかった。というのも、白虎隊が持ってきた銃は、城に残っていた性能の良くないものだったからだ。そのため、新政府軍が100メートルほどに近づいてくるまで待ってから、篠田の「撃て」という号令で隊士たちは銃を撃った。銃身が熱くなり、手に持つことが出来なくなるほど発射したという。
白虎隊士の「飯沼貞吉」が画家に当時の戦争の様子を描かせた絵がある。左側にいるのが白虎隊で、右側は新政府軍。銃弾を受けた兵士が倒れている様子や、指揮を執る篠田の姿も描かれている。
戸ノ口原の戦いでは、白虎隊士も死んだ。伊東悌次郎(当時17)、池上新太郎(同16)、津田捨蔵(同16)の3人だ。津田の兄も近くで亡くなっている。
初めは慌てた様子の新政府軍であったが、のちに武器の性能差で圧倒。新政府軍の猛攻に及ばず、会津藩は退却の命令を出した。死んだ3人の遺体は置いていくほかなく、霧雨の中、城を目指して篠田隊は来た道を逃げたが、そこには死体があちこちにあったという。地獄の光景だったろう。死体を見ながら、自分達もいつかこうなると考えたりしたのだろうか。
その後、新政府軍を振り切り、鶴ヶ城を目指すことに。その道中、多くの兵士と遭遇。敵か味方かわからなかったので合言葉を求めると発砲された。鶴ケ城までわずか約3キロ。新政府軍は城下深くまで入り込んでいたのだった。なんとか逃げ、彼らが次に目指したのが南に位置する飯盛山。そして彼らは自らの死地へ導かれていくこととなる。
⚫︎ 飯盛山での自決
銃撃戦の最中、隊士の永瀬雄治(当時16)が腰の辺りを撃たれてしまう。周辺は遊び場で、どんな場所かを知っていた白虎隊士たちは用水路の方へ逃げた。永瀬の傷があったことから山頂を目指すのは諦め、用水路から洞門をくぐって、飯盛山の中腹へ進むことにした。
午前10時。白虎隊士が自刃するまで、残り1時間。冷たい水と暗闇に耐え、洞門を出た隊士たちは厳島神社の前で一度休憩した。すると、大砲や鉄砲の音が聞こえた。鶴ケ城が心配だった彼らは、城下が見える所まで行こうと水路に沿って山を登っていった。
白虎隊が自決をした理由は、城が燃えていると勘違いしてしまったからだと思っている人も多い。しかし、実際のところは城下町が燃えており、城はまだ落ちていないことがはっきりと見えていた。
今後どうするのか、少年たちは話し合った。野村駒四郎(当時17)は「敵と戦おう」と提案。井深茂太郎(同16)は「蒲生氏郷(安土桃山時代の武将)が築いた名城だから落ちることはない。城に戻って戦おう」と話す。議論は1時間も続いた。
この議論を終わらせたのは、小隊長の篠田だった。「誤って敵に捕まって屈辱を受けるようなことがあれば、主君や祖先に対して申し訳ない。この場は潔く自刃して、武士の本分を明らかにするべきだ」と提案。彼らは捕まったら殺されると思っていたという。この案に全員が納得した。
8月23日午前11時ごろ。
少年たちは自らに刃を突き刺し、自決した。
計17名が自刃した白虎隊。その中でただ一人、飯沼貞吉(のちに貞雄と改名)が奇跡的に息を吹き返した。最初に彼を発見、救出したのは、地元の渡部佐平の嫁ムメのようである。その後、微禄の会津藩士・印出新蔵の妻ハツに引き渡され、医者を求めて塩川に辿り着き、近江屋という醸造業を営む深田文内宅に匿われた。翌朝町医者の三本住庵(みつもとじゅあん)が手当てしたが、夕刻には長岡藩の軍医阿部宗達、吉見雲台(吉見乾海の父)が治療し一命をとり止めた。
その後、新政府軍に捕らわれ、見込みがあるとして長州藩士の「楢崎頼三」に引き取られる。頼三は彼を長門国へ連れて帰り、庄屋、高見家に預けて庇護したが、会津方にも長州方にも養育していることが知られると不都合が生じるため、飯沼の母に生存のみを知らせ、自らの家族や知人以外には存在を秘匿した。
貞吉を預かった長州の高見家と楢崎頼三の遺族が貞吉の身の上話を密かに子孫に語り継いでいることが2000年以降に判明した。高見家の娘フサが孫子に語り継いだ話によると、楢崎頼三を囲む宴の際、村人の一人が貞吉に「生きていてよかったの」と言ったところ、貞吉が土間に飛び降りて自決しようとしたため、楢崎が貞吉を別室に呼び、「今、日本には外国船が押し寄せており、会津・長州と言っている場合ではない。日本人は団結して国を強くしなくてはならず、その担い手は若者だ。国の役に立てるよう勉強せよ」と諭し、以降貞吉は一心不乱に勉学に励んだという。
その後、飯沼貞吉は日本の電信事業に多大なる貢献を果たし、1931年に77歳で逝去。飯沼貞吉が生存したことで白虎隊の悲劇は後世まで広まっていくこととなった。
そうでしたか。城が燃えたと勘違いして絶望の末の自決ではなかったのですね、それは失礼しました。敵に殺される恥をさらすくらいなら自決して武士の誇りを保とうと、そうゆう高潔な決意だったわけですね。なんてサムライスピリッツ。
つまり、悲劇は悲劇でも、早とちり系の哀れなる悲劇ではなかったと。それなら良かった。いや良くもないか。
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