vol.161「中野竹子の抵抗」について


白虎隊の悲劇は、これから始まる会津の悲劇の、ほんの序曲に過ぎなかった。。




⚫︎ 23日だけで500人以上が死亡


8月23日、会津藩若松城下に新政府軍の接近を知らせる早鐘の音が鳴り響いた。十六橋、戸ノ口と次々と要衝を突破していった敵軍が、ついに会津の要に攻め入ってきたのだ。


城下に迫る薩摩藩、土佐藩などの新政府軍。会津憎しの怨念で固めらられた彼らに、「敵を許す」という発想はなかった。女であろうと子供であろうと、城下の会津人は片っ端から殺戮されてゆく。地獄絵図が、現実のものとして広がっていった。


敵軍来襲の知らせに、城下の藩士以外の人々はそれぞれの選択を迫られる。

一、城に入って立て篭もる。

二、戦闘を避けて郊外に避難。

三、味方の邪魔にならぬよう自害。


城下では、戦いの足手まといにならないようにと自刃(じじん)した婦女子が多くいた。西郷頼母邸では、千重子の長女ら5人をはじめ、一族21人が城に入らず屋敷で自刃を選ぶ


「会津は、罪もないのに罰を受け、無念を飲んで敵に恭順した。それでもまだ足りなくて、敵は会津を滅ぼしに来た・・・・そんな非道な力には、死んでも屈しねえ。このごど、命を捨てても示すのが西郷家の役目だ」


千重子の義母の律子(りつこ、58歳)、妹の眉壽子(みすこ、26歳)、妹の由布子(ゆうこ、23歳)、長女の細布子(たいこ、16歳)、二女の瀑布子(たきこ、13歳)は、辞世の歌を残し自刃。千重子は、三女の田鶴子(たづこ、9歳)、四女の常盤子(とわこ、4歳)、五女の李子(すえこ、2歳)を刀で刺し、母と妹らは互いに刀を刺して亡くなる。


新政府軍が西郷家の屋敷に入った時、すでに部屋は凄惨な血の海であった。二十数名の遺骸の中で、女性が一人だけがかろうじて生きており、「その所に参らるゝは、敵か味方か」と尋ね、敵ならば戦おうとするしぐさをしたので、新政府軍の兵士は思わず「味方だ」と答えて細布子の介錯をしたという。そして、辞世の短冊を持ち帰った。


 なよ竹の 風にまかする 身ながらも
  たわまぬ節の ありとこそきけ


意味は「女(め)竹、細竹は、風に任せているように見え、私も今の時代に身を任せているが、竹にも折れないための節があるように、女性にも貞節があることを知っていてほしい」というものである。

この日こうして自決した女性達は200人、その無言の抵抗は壮烈を極め、城を攻める新政府軍の士気を鈍らせた。



⚫︎ 西軍による残虐非道な蛮行


「会津に処女なし」という言葉がある。会津の女性は、ことごとく長州奇兵隊を中心とした西軍のならず者に強姦された


山縣有朋が連れ込んだ奇兵隊や人足たちのならず者集団は、山縣が新発田へ去っていたこともあって全く統制がとれておらず、余計にやりたい放題を繰り返す無秩序集団となっていた。


彼らは集団で女性を強姦、つまり輪姦して、時にはなぶり殺した。家族の見ている前で娘を輪姦するということも平然と行い、家族が抵抗すると撃ち殺す。中には、8歳、10歳の女の子が陵辱されたという例が存在するという。


坂下、新鶴、高田、塩川周辺では、戦後、犯された約百人に及ぶ娘・子供のほとんどが妊娠していた。医者は可能な限り堕胎をしたが、それによって死亡した娘もいたという。


月が満ちて生まれてきた赤子は、奇兵隊の誰の子かも分からない。村人たちは赤子を寺の脇に穴を掘って埋め、小さな塚を作って小石を載せて目印にしたのである。村人は、これを「小梅塚」とか「小塚」と呼んだ。乳が張ってきた娘や子供は、自分の「小塚梅」に乳を搾り与えて涙を流していたという。


そりゃ自害を選ぶわ。。




⚫︎ 中野竹子の生涯

曹洞宗・法界寺の一角に「小竹女子之墓」と刻まれた墓ある。そこに眠るのは、中野竹子という女性。会津戦争の折、新政府軍と勇ましく戦い、散った「娘子隊(じょうしたい)」の一人である。


江戸詰勘定役会津藩士・中野平内の長女として江戸の会津藩藩邸で生まれ、江戸で育った中野竹子は、幼少より聡明で、5~6歳の頃に小倉百人一首を暗誦して一字も誤ることがなかった。容姿端麗、男勝りの女丈夫として知られた。その妹・中野優子も評判の美人で、いわゆる、会津美人であった。


また、幼少より薙刀(なぎなた)や書道を習い、のちに、薙刀では道場の師範代を、書道では祐筆(ゆうひつ・武家の秘書役、事務官僚)を務めるほどの実力を身につけるだけでなく、小竹の雅号で和歌も嗜むなど、その才は様々な面で発揮されていた。


抜きんでた才能をもつ彼女は、十七の時に薙刀の師である赤岡大助に望まれ、彼の養子に入る。しかし十九歳で彼の甥との縁談があがったとき、竹子は会津藩が不穏な状況下にある最中に婚姻を結ぶことをよしとせず、自ら養子縁組を破談、実家へと戻ってしまう。


そして慶応4(1868)年1月の「鳥羽・伏見の戦い」後、江戸城への登城禁止となった会津藩主・松平容保(かたもり)公が会津に引き上げるのに伴い、竹子含む中野一家も、江戸から、時代の奔流に呑み込まれつつある会津の地へと戻っていった。


薙刀の名手で書も得意、また妹の優子とともに美人姉妹としての評判も高かった竹子だが、会津の自宅で湯あみをする姿を覗きに来た男を、薙刀を振り回して追い払ったという逸話が残っているように、随分と男勝りな性格をしていたようだ。


これぞまさに、文武両道にして容姿端麗。薙刀を手に男衆と戦った彼女は、銃で戦に臨んだ八重と比較されることの多い人物である。


そして運命の8月23日。自刃を選んだ者や、避難をする者、そして戦う意思とともに城へと向かう者がいるなか、竹子もまた、薙刀を手にして母・こう子、妹・優子とともに若松城に急いだ。しかし、予想よりも敵軍の素早い侵攻に、城は早々に門を閉じてしまっており、入ることは叶わなかった。


その時、竹子たちは同じ道場の薙刀の稽古仲間である、依田まき子・菊子姉妹、岡村すま子の三人と出会う。 先に死んでいった家族や仲間のため、戦う意思の衰えぬ彼女たちは後世に娘子隊(あるいは婦女隊)と呼ばれる、いわば女性たちによる義勇軍を作った。 神保雪など、後から加わった婦女子も合わせると、その人数は総勢20名以上にのぼったという。


中野竹子ら娘子隊は、容保の義姉・照姫が坂下(ばんげ)駅に避難された、という情報を聞き、彼女の護衛に当たるため坂下へ向かう。しかしそれは誤報で、坂下に照姫の姿はなかった。娘子隊は法界寺で一泊し、翌日、照姫が会津若松城に居ることを知り、再度若松城へ向かう。


その途中、宿駅に駐留していた会津藩の家老・萱野権兵衛に竹子らは従軍を願い出た。初めは「婦女子まで駆り出したかと笑われては会津藩士の名折れ」と拒否されてしまうが、竹子は「戦に加えてくれなければ、この場で自決します」と決死の覚悟を見せる。


その覚悟に折れたのだろうか、ついに家老から従軍の許しを得た娘子隊は、衝鋒隊に加わり、若松城へと戻っていった。 この時、娘子隊の全員が、来るべき戦闘にむけて髪を短く切り、男装をした姿であったという。


戦闘の前夜、こう子と竹子は婦女隊で最年少の優子がこれに加わるのは無理ではないか、足手まといになるのではないかと話し合い、優子は同性すら見惚れるほどの美人だったこともあり、敵に捕まって辱めを受けるより先に殺してやろうと考えた。しかし眠っていた優子を殺そうとした矢先、同隊の依田姉妹が止めに入って、戦場で一緒に死のうということになった。




⚫︎ 涙橋の戦いと、それから


8月25日夕方、娘子軍含む一隊は、現在の福島県松岡市神指町大字黒川にかかる柳橋(涙橋)にて新政府軍と遭遇、のちに「柳橋(涙橋)の戦い」と呼ばれる戦闘になった。


はじめ新政府軍は、相手側に女性が交ざっていることに気づくと、彼女たちを生け捕りにしようとした。しかし生け捕りを恥とする、娘子軍の渾身の太刀を受け、慌てて銃を構えたという逸話が残されている。


しばらく両軍は銃撃戦を繰り広げるが、埒のあかない様子に、ついに衝鋒隊は新政府軍に斬りこんでいった。中野竹子も、何人かの兵を薙刀で斬り殺して善戦する。しかしそのとき、一発の銃弾が彼女の額を穿った―。


頭を撃たれ(胸を撃たれたという説もある)、重傷を負った竹子は、けれどまだ息があったという。そのわずかに残った意識で、竹子は自身の首を取られないように、当時まだ十六歳と年若い妹に己の介錯を頼んだ。


混乱する戦場の中、実の姉の首を落とす優子の心地は如何様のものだっただろう。妹の手により落とされた首級(母のこう子や上野吉三郎が手伝ったとも、農民が介錯をしたとの説もあり)は、法界寺にあった梅の木の根元に埋葬されたという。

竹子は出陣の際、携えた薙刀の柄に次の一句を書いた短冊を括り付けていた。


 もののふの 猛き心にくらぶれば
   数にも入らぬ 我が身ながらも


鉄砲の前では非力な薙刀でも、それまでの戦いで死んでいった会津の同志を想うと戦わずにはいられなかったのだろうか。女性とはいえ、兵たちに負けず劣らずの覚悟を決めた竹子の遺志が伝わってくるようだ。


この薙刀は坂下町の骨董店より流出し、広瀬村長の生江家が所蔵していたが、現在は法界寺に寄贈されている。柄の長さ五尺三寸、刃の長さ一尺五寸、切先が欠けている。


今でも多くの人の胸を震わすこの辞世の句は、その雄々しかった魂を象徴するかのように、彼女の遺蹟に刻まれている。


この戦闘の後、娘子隊は兵たちの看護のため、若松城に戻ることとなった。 無事入城した竹子の母・こう子は、そこで出会った八重に次のようなことを尋ねたといわれている。


「あなたはなぜ、娘子隊に入らなかったのですか」


娘が死に、その一方で、同じ年頃で、かつ薙刀を学んでいた八重が隊に加わらなかったことに思うところもあったのだろう。その疑問に、八重はこう答えたという。


「私は、鉄砲で戦う考えでおりました」


新政府軍との戦では、すでに刀ではなく、銃でないと通用しない。八重はそのことがよくわかっていたのだ。


中野竹子の命を奪ったのも、一発の銃弾であった。八重の答えを聞いたこう子は、「鉄砲に薙刀はかないません。ようやく自分の娘(竹子)が討ち死にしてから悟りました・・・これから何日籠城するか解りませんが、下の娘(次女優子)に鉄砲を教えてください」と頼んだという。




うう、、つらい。泣

八重、やり返してくれ!



⚫︎ おまけ


昭和61年、長州・萩市が「もう120年も経ったので」として議会決議をして会津若松市と友好都市関係の締結を申し入れたが、

会津は「まだ120年しか経っていない」としてこれを拒絶した。当然であろう。



参考
http://tvrocker.blog28.fc2.com/blog-entry-493.html?sp
https://shirobito.jp/article/363

https://kazusa.jpn.org/b/archives/2065

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/中野竹子

https://aizumonogatari.com/yae/material/4285.html

https://blog.goo.ne.jp/tnnt_1571/e/174c895929703fd9ad717006b66be57c

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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