行ったんですよ会津若松。再建された鶴ヶ城にも登りましてね。いろいろ勉強したんですけどお土産で買ったこのカレンダーが一番分かりやすくてですね。これを見れば籠城戦1ヶ月の流れがサクッと分かるもんで、読書するよりググるより、もうこれで良いじゃんと。これしか勝たんと。だからここから多分にメモっちゃおと。
なので、私以外の方が偶然ここに辿り着いて以下を読もうとするならば、必ずこのカレンダー買ってからにからにしてください。買わないなら読んじゃダメ! だってここは私個人用のメモブログなんだから。読むならカレンダー ↓ ここで買ってね!
https://www.aizu-sanyo.com/dailycalendar.html
8/27 籠城5日目
要所・小田山をめぐる2つの事件
小田山とは鶴ヶ城の東南にある標高378mの小さな山。ここから城の全てを見下ろすことができた。籠城からまもなく、会津藩を驚かす2つの重大事件が起こった。1つは25日の小田山の会津藩火薬庫(塩哨蔵)が爆破したことと、もう1つはその翌日に小田山が敵に占拠されてしまったことだ。
小田山は城から近く、大砲を打ち込むには最適な場所だった。この地の利を知る地元の住民がこっそり敵を手引きしたと言われている。この山頂から薩摩一番砲隊と、肥前の大砲隊に天守閣が目標とされ、このために城内の者は籠城の間、絶えず砲撃に苦しめられることとなる。
いや〜! やめて〜!
8/28 籠城6日目
米沢藩に救援を断られ、使者むなしく帰城
籠城戦に入ってから会津藩は何度も同盟藩である米沢藩に救援を求める死者を送っていたが拒絶された。12代「上杉斉憲」が治める米沢藩はすでに奥羽越列藩同盟からの離脱を決めていたからである。正室の出身でもある土佐藩の密使から「罪を悔い改れば藩主の命は奪わない、領地の保全も考える」という条件を受け、新政府に降伏を請うていた。
そもそも米沢藩は白河戦で大敗したことで同盟を危ぶんでいた。息子の茂憲は罪滅ぼしにシバタに赴いて会津討伐の先陣を努めたいと願い出ている。米沢藩の降伏は新政府軍にとって願ってもないことだった。奥羽越列藩同盟は崩壊の兆しを見せ、この動きは仙台藩にも影響を及ぼした。
こん裏切りもんがー!!
8/29 籠城7日目
激烈、長命寺の戦い。弾薬・兵糧を確保せよ!
態勢の挽回を図るため「佐川官兵衛」率いる精鋭約1,000人の決死隊が結成された。ところが、官兵衛は出陣前夜に藩主容保から賜った酒に酔って寝坊してしまい、好機を逸す。
早暁に出撃するつもりが夜が明けてから刀や槍を振りかざして敵の陣地を襲撃。敵軍はものすごい形相と勢いにたまらず退却したが、近くに「長命寺」があり、そこに立てこもって銃撃戦になった。長命寺は激戦地となり、当時の弾痕が今も残っている。
最初は優勢だったものの、敵の援軍が駆けつけて形勢は逆転。決死隊は銃弾に倒れてしまう。死傷者は200人にも及んだ。出陣した者は軍衣に「何某、二十九日、討死」と書いていたというから出陣の覚悟が偲ばれる。
官兵衛はこの責任を痛感して二度と城へ戻らなかった。その後は一ノ堰、田島などを転戦。城への道を確保して物資を送ることに努めると決めた。ここから官兵衛率いるゲリラ隊の活動が始まる。
なんで誰も起こしてくんないだよっーー! 泣
8/30 籠城8日目
北上続ける新政府軍、南会津に侵入
日光口の玄関でもある会津領田島は、会津軍の後方基地として援助を行ってきた。それが次第に新政府軍に押され、山川大倉が城に彼岸獅子で引き揚げてしまうと、新政府軍は山王峠と八十里越から南会津に侵入してきた。山王茶屋を焼き、糸沢宿を経て田島陣屋を占拠。一時ほぼ南山の全域を占領されてしまう。
街道沿いの一般農民は、会津軍からも新政府軍からも協力を求められて疲弊した。強奪にあった村では村では農民たちも自警団を作り、地元ならではの土地の利を活かして敵軍に立ち向かった。
あわわダメだ〜、どんどん来る〜
会津の女性たち活躍
会津戦争の特徴は年寄や女子供も参戦したことである。籠城中は炊事や看護、弾薬の製造など仕事は多数。場内にいた女性たちがいなければ、降伏はもっと早かったとも言われている。入城した女性たちの大義名分は「照姫をお守りすること」。照姫は容保の義姉で、籠城という窮地でも毅然として城内の指揮をとり、負傷者の手当や食料の調達、敵弾の消火処理までテキパキ行った。そんな姿は武家の婦女子にとって憧れでカリスマ的リーダーの存在だった。みな照姫と共に殉死する覚悟でいたという。
ううう、ありがてえ、、涙
9/1 籠城9日目
北上を許すな! 大内峠の戦い
大内宿(おおうちじゅく)は、江戸と会津を結ぶ「会津西街道」の宿場町として栄えた。参勤交代や江戸への回米の運搬路として重要な役割を果たし、会津戦争の際は両軍の進退路として激戦地となった。三斗小屋から侵入した新政府軍は支流の兵と合流して会津軍が退いた大内峠を目指す。会津軍は会津盆地への入り口でもある大内峠を最終防衛戦としていたので、大内周辺の守備を固める軍を急遽後退させた。
徹底抗戦の中、青龍足軽三番隊長が討死。これに奮起して敵軍を撃退したが、別方向からの猛攻に遭い、大内峠後方の氷玉峠を超えて栃沢まで後退した。この戦いにより双方大きな被害を出し、新政府軍もこの日はいったん大内宿まで後退している。
会津軍は大内宿も焼き討ちにしようとしたが、当時の名主が懇願して免れた。宿場の形をよく残す町並みとして今は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
大内宿、観光してきました。すごく素敵なとこでした。
9/2 籠城10日目
関山の戦いで民家焼かれる。八十里超からも進攻。
翌日、新政府軍は大内宿から出陣して栃沢で攻防、氷玉峠を超えて関山村でも激しく戦い、双方とも死傷者が続出した。関山の民家は進軍を阻止するために会津藩によって全戸焼かれた。同じ日、新政府軍は越後と会津を結ぶ八十里越からも進攻して「叶津(かのうづ)村」に迫ってきた。ここには番所(警備や見張りのために番人がいたところ)が置かれており、長年、人と物の往来を見守ってきた。
1ヶ月ほど前、北越戦争で負傷した「河井継之助」が担架に載せられ長岡から八十里越えをして会津に落ち延びてきた。塩沢村の医師「矢沢宗益」の治療を受けたが回復は叶わず、自嘲をこめた句を残し、8月16日に42歳の生涯を終えた。
つぐのすけが死なないでいてくれたら、、
9/3 籠城11日目
頑丈な天守閣。めげない会津軍に敵軍は苛立つ。
飛んでくる砲弾に慣れてくると、籠城中の子供たちは砲弾をからかって「赤とんぼ」と呼んだり、士気を上げる(敵に余裕を見せる)ため、会津伝統の「唐人凧」を上げて見せたという逸話がある。(あかんべえした絵柄だそうな)
また、鐘楼の時報は城内を統一させ、城外の兵と町の人には城の無事を知らせたという。敵が時守(時の鐘を打つ者)を狙い撃っても、犠牲が出れば代わりの者が現れ、絶えることがなかった。他にも大法寺の僧が毎日、天守閣の最上階にのぼって必勝を祈り法華経を読み続けた。この行動は兵の士気を大いに高めた。
天守閣は最後まで崩れなかったので、城内の人たちはここから城下を見下ろして、敵軍の略奪行為などを眺めて手記に残していた。
効かねえなあ、その程度かよ?(ボロボロ)ww
と、こんな感じで非常に分かりやすいカレンダーなのである。ホント買って良かった。
いやしかし会津、絶対絶命ですな。佐川官兵衛なにやってんのよ〜せっかくの挽回チャンスを〜って、でもそもそもここに至る前に何度もチャンスをふいにしまくって来たからか。つくづく会津ついてねっす。もはや、どんなに争おうとも決して逃げ切ることはできないファイナルデスティネーションとしか思えない。。(そうゆうB級ハリウッド映画があるんですよ)
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