vol.164「斎藤一の抵抗」について


さて、新撰組と言えば、何かと「土方歳三」ばかりが注目されがちであるが、ここで「斎藤一」の話を挟んでおきましょう。


新撰組の三番隊組長を務めた斎藤一は「溝口派一刀流」と「聖徳太子流」の剣術を修めた剣客であり、「沖田総司」や「永倉新八」らと並ぶ、新撰組屈指の腕前であったと評されている。業物(わざもの:切れ味の良い刀)として名高い日本刀を手に、京都の治安を乱す志士達を始め、新撰組内に潜入した間者から裏切り者まで、次々と始末した人物として有名である。




⚫︎ これまでの斎藤一について


斎藤一は1844年(天保15年/弘化元年)、江戸幕府の御家人であった「山口右助」の次男として、江戸に生まれた。斎藤一が最初に学んだ剣術の流派は、「溝口派一刀流」。近藤勇が営む「天然理心流」の道場「試衛館」にも出入りしていたと伝えられている。


新撰組の二番隊組長であった永倉新八の著書「浪士文久報国記事」によれば、斎藤一は、試衛館での稽古後に、今後の日本について語り合う仲間であったことが記されており、新撰組結成以前より、近藤勇らとの距離が近い人物だったことが分かる。


斎藤一にとって、最初の転機となったのは1862年(文久2年)、19歳前後のとき。些細な口論が原因で人を殺めてしまい、京都に逃亡することになる。父親の知り合いであった剣術道場主にかくまわれて事なきを得、ここで一心不乱に剣術に励んで「聖徳太子流」の剣術を修得。師範代まで務めたことからも、相当な剣の使い手だったことが窺える。


1863年(文久3年)、近藤勇らが「浪士組」に参加するために上洛すると、ほどなくして斎藤一も合流。近藤勇らが京都残留を願って「京都守護職」を務める松平容保へ提出した嘆願書には、すでに名前を連ねている。


そして、芹沢鴨・近藤勇ら13名が新選組の前身である「壬生浪士組」を結成。同日、斎藤を含めた11人が入隊し、京都守護職である会津藩主・松平容保の預かりとなる。新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢された


1864年(文久4年/元治元年)6月に起こった「池田屋事件」(池田屋騒動)では、土方歳三隊の一員として加わり、屋内に切り込んで奮戦。会津藩から金10両(現在の約100,000円)、別段金7両(現在の約70,000円)を下賜される活躍を見せた。


こうした働きもあり、新撰組内における斎藤一の地位は徐々に上がっていく。「副長助勤職」から「四番隊組長」、そして、1865年(元治2年/慶応元年)の組織改編では、「三番隊組長」に抜擢された。なお、このときの一番隊組長は沖田総司、二番隊組長は永倉新八である。斎藤一を含むこの3名は、新撰組が誇る三大剣士とも称されている。


さらに斎藤一は、新撰組内において、「撃剣師範」も務めていた。その指導は非常に厳しく、夜中に突然招集をかけ、暗闇の中で刃引きした真剣を得物(えもの)として試合をさせたり、就寝中に突然切り込んだり、実戦さながらの稽古を取り入れていた。新撰組が、周囲から恐れられる剣客集団として名を馳せた背景には、斎藤一らの妥協なき訓練も、ひと役買っていたと言える。


また、新撰組内に潜む間者を摘発する能力の高さも、斎藤一の特長である。1864年(文久4年/元治元年)に起こった「禁門の変」の際は、長州藩から潜入していた「御倉伊勢武(みくらいせたけ)」と「荒木田左馬之亮(あらきださまのすけ)」を敵と見抜いて斬殺。


また、薩摩藩に通じていた「五番隊組長」の「武田観柳斎(たけだかんりゅうさい)」も、一刀のもとに切り伏せている。


さらに1867年(慶応3年)、新撰組の「参謀」を務めた「伊東甲子太郎」が、「御陵衛士(ごりょうえじ)」と呼ばれる朝廷警護組織を創設し、新撰組から分離した際に、斎藤一は近藤勇の命令を受け、間者として御陵衛士に潜入。伊東甲子太郎に近藤勇暗殺の企てがあることを察知する。このような斎藤一の活躍により、近藤勇らによる伊東甲子太郎の粛清が決定。そしてこれが新撰組を二分することになった、新撰組と御陵衛士による抗争事件「油小路の変」のきっかけとなった。


1867年(慶応3年)12月7日、土佐藩の藩士ら16人が、紀州藩の用人「三浦休太郎」を、「天満屋」で、襲撃する事件が起こった。このとき、9人の隊士と共に三浦休太郎を守護し、土佐藩士らを撃退した斎藤一は、貴重な実戦記録を残している。斎藤一によれば、実際の切り合いの場では、「相手がこう来たら、こう払ってこう返す、こう切り込んでいくなどということは不可能」であり、「夢中になって切り合うのが実際」とのこと。この談話は、実際の切り合いを知る上で、貴重な体験談として広く知られている。




⚫︎ 戊辰戦争における斎藤一の活躍


将軍・徳川慶喜の大政奉還後、新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加する。慶応4年(1868年)1月に鳥羽・伏見の戦いに参加、3月に甲州勝沼に転戦。斎藤はいずれも最前線で戦った


近藤勇が流山で新政府軍に投降したあと、江戸に戻った土方歳三らとともに、国府台で「大鳥圭介」率いる「伝習隊」と合流の後、下妻へ向かった。土方歳三は同年4月の宇都宮城の戦いに参加、足を負傷して戦列を離れ、田島を経由して若松城下にたどり着いた。


斎藤(24歳)ら新選組は会津藩の指揮下に入り、閏4月5日には白河口の戦いに参加。宇都宮で負傷した土方歳三に代わって隊長を務めた。東軍(会津軍)は西郷頼母を大将に、白河関門の裏にある稲荷山に陣を敷き、新選組は新政府軍を迎え撃つ最前線に居た。


西軍(新政府軍)側の記録によると、25日の白河・白坂関門の攻防は3時間にも及んだという。この日の戦いでは敵を退けることに成功したものの、激戦の中で「菊池央」と「横山鍋二郎」が戦死。5月1日に行われた再戦では、会津藩軍は大敗を期して白河口から撤退。白河小峰城は新政府軍の手に落ちた。


その後会津軍および新選組は何度か白河小峰城の奪還を試みるが成功せず六月初めに猪苗代湖南の福良に転陣する。福良には松平容保の養子で新藩主の「喜徳」が出張しており、新選組と謁見して激励した。そして同じくけがの為療養中だった土方歳三も、福良で新選組と合流をした。


8月19日、新選組は大鳥圭介の伝習隊、田中源真率いる会津藩兵と共に、県境の母成峠の守備に就く。怪我で離脱していた土方歳三も戦線復帰を果たすが、新選組として復帰したのではなく、旧幕府軍・参謀として復帰している為、新選組組長は引き続き斎藤一だったと考えられる。


板垣退助・伊地知正治率いる新選府軍は、白河小峰城を落とし、会津の隣の藩、二本松藩をも落とし会津に攻め入ってくる。母成峠の布陣は萩岡に第一台場、中軍山に第二台場、峠の頂上に第三台場をおき、新選組はと伝習隊は中軍山に布陣した。東軍の兵力は合計800人だったという。


会津藩は二本松街道からの攻撃を想定していたが、新政府軍は濃霧にまぎれ混成軍の背後から攻撃を仕掛けてきた。その数、3000〜7000。新選組随一の剣豪といわれた斎藤一も最新兵器の応酬にはかなわなかった。峠に置かれた会津藩の大砲5門に対し、新政府軍の大砲は20門。激しい砲撃に会津軍は総崩れとなり、壊滅。


新選組は木下巌、千田兵衛、鈴木錬三郎、小堀誠一郎、漢一朗、加藤定吉ら6人が戦死。斎藤一も敗走する。銃が乱射される中を命からがら逃げ、なんとか猪苗代城(亀が城)まで後退した。




⚫︎ 土方歳三との別れ


猪苗代では土方歳三、斎藤一と会津藩の軍事方との間で軍議が行われた。土方は松平容保に会うために十六橋を渡り滝沢本陣へ向かった。斎藤一は鶴ヶ城へ登城し戦況を伝える。城内に控えていた兵士たちは、十六橋と滝沢峠へと出陣する。戻った斎藤一と新選組は東山の「天寧寺」へと出陣。結果的に猪苗代城(亀が城)は、土方歳三と会津新選組の別れの地となった。


滝沢本陣に入った土方歳三は容保と容保の弟・桑名藩藩主・松平定敬と謁見。容保は鶴ヶ城籠城戦に向け鶴ヶ城へ戻る。土方は同盟の庄内藩に援軍を依頼するため、容保の実の弟の桑名藩藩主・松平定敬と共に会津を離れる。しかし援軍要請は失敗。すでに新政府軍によって囲まれてしまっていた会津へ戻ることはできず、土方は箱館戦争に身を投じることとなる


亀が城(猪苗代城)を落とした新政府軍は、会津城下へと入る橋「十六橋」を渡る。会津藩は新政府軍の行軍を防ぐために十六橋を破壊しようとしたが頑丈すぎて壊すことができなかったという。


9月2日、新選組は「陣ヶ峯峠」で抗戦。陣が峯には本格的な陣を置き、斉藤一率いる新選組をはじめ、町野主水率いる朱雀四番士中隊、大鳥圭介率いる伝習隊、さらに増援として長岡藩兵が、迫りくる西軍(芸州、松代、新発田、長州)と激しい戦いを繰り広げた。


旧幕臣大鳥圭介も合流したが、大鳥圭介は会津では戦えないと判断し、榎本武揚らの脱幕府兵士たちとの合流を謀ろうとしたが、斎藤の考えは違っており、会津を去ろうとしてい大鳥圭介に対して「会津に来た今、落城しようとしているのを見て会津を捨てるのは正義ではない。私は新選組の隊名と共にここで死ぬつもりだ」と語ったと伝えられる。


松平容保から「新選組」の名を拝命した組織だったからこそ松平容保、会津と共に散るべきだと考えたのだろう。




⚫︎ 如来堂の戦い


9月4日、新選組は小田付代官所から如来堂へ向けて出発。会津藩家老の「萱野権兵衛」が布陣していた神指高久で戦闘が勃発し、如来堂の警備が薄くなるための応援だった。新選組総員が出陣したわけではなく約20名程度が出陣し、中島登や島田魁らは塩川の大鳥圭介の元に残った。


喜多方市にある小田付代官所から如来堂まで約21kmほどあり、新選組は4日に出発して同日如来堂に布陣している。当時の武士たちの健脚ぶりがうかがえるが、如来堂のすぐ西側には荒神山から会津盆地に流れ込む阿賀川が流れている。もしかしたら新選組は喜多方から川を下って城下町付近まで戻ってきたのかもしれない。


徒歩にしろ舟での移動にしろ、長距離を移動してきたばかりで疲れていたはずの新選組を新政府軍が急襲する。


九月四日高久村にて戦争相始まり、当隊より応援として一小隊繰り出す。しかるに、ほどなく如来堂の本営へ敵兵不意に押し寄せすぐさま接戦相始まり、何分味方二十余人の小勢故、ほかに防御の術なくことごとく死す『島田魁日記』


9月5日早朝の如来堂の戦いで、斉藤一ら約20名の新選組隊士は敵の攻撃を受けて壊滅状態となる。小畑三郎、荒井浜はまお、高田文次郎、清水卯吉、高橋渡らが戦死した。

如来堂の新選組は全滅と伝えられ、斎藤一もこの時戦死したと思われていたが、生き残った。


同じく如来堂の生き残りでこの後、箱館まで行った久米部正親によると「船で逃げた」とあるため、喜多方から船で来たのではないかと一層考えてしまう。13名ほどいた隊士達の内7名は脱出できた。


これにより北方は残らず敵のものとなる『島田魁日記』


島田魁によると敵に包囲されたため新選食い及び旧幕府軍約2000人は話し合いにより仙台へ行くことを決定した。島田は仙台で土方と合流、箱館まで戦い、久米部正親は水戸へ行こうとしたが天狗と書生党の争いでそれどころではなく、下総へ渡り箱館戦争に参加した。


如来堂以後、斎藤一の消息はしばらく不明だが2000人の中には入らず、おそらく落城するまで城下町周辺でゲリラ戦を繰り広げていたのではないだろうか。




⚫︎ その後の斎藤一


9月23日、会津藩降伏。鶴ヶ城に白旗が掲げられた。戦後は、一同は塩川宿に集められ明治二年一月五日から十五日にかけて身元預かり先の高田藩へと出発する。1,768名6陣に分かれての大移動だった。この名簿の中に如来堂以降足跡が途絶えていた斎藤の名が現れる。会津藩が降伏したあとも斎藤一は徹底抗戦を続けるが、松平容保の説得でようやく投降し、新政府軍の捕虜となったという。


戊辰戦争の終結後は、捕虜となった会津藩士たちと共に謹慎生活を送った。この謹慎生活中に松平容保を仲人とし、元会津藩大目付である高木小十郎の娘・時尾と結婚。時尾の実家の姓である藤田を名乗り「藤田五郎」と改名した。


1877年(明治10年)2月、警視庁の警部補に着任すると、「西南戦争」に従軍し、斬り込みの際に敵弾で負傷するも、敵の大砲二門を奪う活躍を見せて奮戦。その活躍ぶりを東京日日新聞に報道され、「勲七等青色桐葉章」の勲章、及び賞金として100円(現在の約2,000,000円)を、明治政府より下賜されている。


(なお、西南戦争には旧会津藩士である佐川官兵衛、山川浩も参加しており、佐川官兵衛は阿蘇にて戦死した)


晩年、警視庁を退職してからの斎藤一は、「東京高等師範学校附属博物館」の看守に着任。しかし、実質的な役割は剣道師範であったとされ、斎藤一こと藤田五郎が竹刀を構えると、誰ひとりとして、その竹刀に触れられなかったと伝えられている。斎藤一の剣術が、晩年まで衰えなかったことが窺える逸話である。


斎藤は部外者であったが会津藩士達と命運を共にし、その後も会津人として一生を終えた。東京で亡くなったが本人の希望で会津に埋葬された。斎藤一の墓は七日町通りの阿弥陀寺にある。阿弥陀寺は戊辰戦争の際に東軍の死者を埋葬した地である。共に戦った藩士たちと眠りにつきたかったのだろう。




以上、私にしては珍しく茶化しコメントを一切挟まずに、まとめ切ってしまいました。だってカッコ良すぎるんだもん。茶化すとこないもん。さすが「無敵の剣」っすね。



一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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