このへんからもう各地での戦いが同時多発的すぎて時系列順にするのが無理でして。ちょいと月日が行ったり来たりしますんですが、まあそこはご容赦いただくとして、いよいよ戊辰戦争の舞台は東北方面に移ってまいりますですよ。
で、ここへ来てよく耳にする「奥羽越列藩同盟」てな言葉。まあだいたい内容は察しがつきますが、詳しくは知らないもんで、ちょいと勉強してみましょう。
⚫︎ 背景
慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、新政府は仙台藩に「会津藩追討」を命じた。しかし、仙台は兵を出さなかった(従わない勇気)。
2月、相津藩主・松平容保は隠居を表明し、朝廷に対する謝罪状を提出して会津に戻る。
3月、奥羽鎮撫総督となった「九条道孝」らが京都をたって仙台に入った。
奥羽鎮撫総督府は「伊達慶邦」と、米沢藩主「上杉斉憲」に対し、容保に降伏を求めるよう命じる。容保は、謝罪状を提出したものの、仙台、米沢からの降伏勧告を受け入れなかった。そのため、新政府軍は会津がなお抗戦を諦めていないと見ていた。
会津は「南摩綱紀」を庄内藩に派遣。4月10日に庄内藩重役の「松平親懐」らと会合を持ち「会庄同盟」を結成する。なお、親懐は米沢藩が同盟に加われば仙台藩も同盟に加わると意見を述べており、この時期に「奥羽列藩同盟」構想が芽生えていたと言える 。
そのころ庄内藩は、当時「日本一の大地主」と言われ、藩を財政的に支えた商人「本間家」の莫大な献金を元に、武器商人「エドワード・スネル」からスナイドル銃といった最新式兵器を購入するなど、軍備の強化を進めており、それが会津藩を勇気づけることとなった。
会津・庄内両藩はプロイセン代理公使「マックス・フォン・ブラント」を通じて、領有する蝦夷地の根室や留萌の譲渡と引き換えに、プロイセンとの提携を模索していた。具体的には、会津・庄内両藩主がプロイセンから資金を借りる担保として「蝦夷地の土地を99年間貸与する」と申し出ており、その書簡は、ベルリンのドイツ連邦文書館・駐日公使発本国向けの外交書簡に実在する。
文書には、「スネル兄弟が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として与えるとする会津・庄内領主の全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイルの土地を得るのに、30万メキシコドルで十分だwww」などと書かれていたという(wは無いが)。
幕末期、会津藩の領地は現在のオホーツクと根室管内の一部、庄内藩は留萌と上川管内の一部などであり、書簡には「会津・庄内藩の蝦夷地の土地に軍港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」とも綴られており、海軍拠点確保に向けた意図が読み取れる。
しかし、幕末には勅許を得ずして開港の有無が、天皇に対する不遜ではないかと論議された経緯があり、土佐藩「板垣退助」、薩摩藩「伊地知正治」らはこれを阻止するため、会津を早期に攻め落とす策を「大村益次郎」に献策することになる。
⚫︎ 白石列藩会議
鎮撫使は、仙台藩に対し強硬に会津出兵を迫ったため、3月27日に会津藩境に出兵したが、この間も仙台藩・米沢藩等は会津藩と接触を保って、謝罪嘆願の内容について検討を重ねていた。4月29日、七ヶ宿・関宿本陣にて仙台・米沢・会津三藩による談判がもたれ、会津藩が謀主の首級を出し降伏することで一旦同意した。しかし、会津藩は数日後にそれを翻した内容の嘆願書を持参する。これを見て仙台藩は説得を諦めることとなる(やっぱ無理かー、だよなー、と)。
こうした中、閏4月4日、米沢藩・仙台藩4家老の名前で、奥羽諸藩に対して列藩会議召集の回状が回された。閏4月11日、奥羽14藩は仙台藩領の白石城において列藩会議を開き、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書「会津藩寛典処分嘆願書」などを奥羽鎮撫総督に提出した。しかし、これが却下されたため、閏4月19日、奥羽14藩はこれを不服として征討軍の解散を決定した(白石列藩会議とな)。
薩長にしてみれば東北に対して莫大な戦利品が欲しかったに違いない。従って東北諸藩の懇願など聞く耳を持たなかったのである。
⚫︎ 世良修蔵の暗殺
奥羽鎮撫総督府下参謀の「世良修蔵」は、4月12日に仙台を出発して白河方面に赴き、各地で会津藩への進攻を督促していた。世良は成り上がりの新政府の参謀と言う立場で、野卑で傲慢な気性を露骨に露わにしたという。農兵の出身ということもあり、武士のたしなみである儒教も、彼の中になかったのであろう。世良は藩内で略奪や、婦女暴行を働くなど某若無人な振る舞いで仙台藩士らを侮辱した。
4月19日、世良は福島に入り旅宿金沢屋に投宿。ここで、同じく下参謀であった薩摩藩士「大山格之助」に密書を書いた。内容は、鎮撫使の兵力が不足しており奥羽鎮撫の実効が上がらないため、奥羽の実情を総督府や京都に報告して増援を願うものであったが、この密書が仙台藩士らの手に渡った。姉歯らは以前から世良修蔵の動向を警戒していたが、密書の中にある『奥羽皆敵』の文面を見て激昂。
彼らは翌日、金沢屋において世良修蔵を襲撃した。世良はピストルで応戦するが不発、あえなく捕らえられ、阿武隈川の河原にて斬首された(そりゃそうなるわな)。
人材不足ということもあり、恐らく長州藩は口の利き方も分からない無学な人物を奥羽鎮撫総督参謀として仙台に送ったものと思われる。それが仙台藩を激怒させ、奥羽越列藩の決起に繋がった。そういう意味で世良修蔵は歴史を変えた人物と言えるのかも知れない。
もし、世良以外の、まともで殊勝な物言いができる人物が仙台に派遣されれば、別な結果に至った可能性は否定できない。
⚫︎ 奥羽列藩同盟の誕生
4月21日、薩摩藩士「鮫島金兵衛」が軍監として出羽国への援軍の盛岡藩兵と共に七北田宿まで来ると、仙台藩は盛岡藩の進軍を遮った。仙台藩は、盛岡藩に、鮫島は薩摩藩士なので奥羽のために宜しくない者だから捕縛して引き渡すようにと伝えたが、盛岡藩が断って物別れに終わる。
その後、仙台藩から引き続き盛岡藩兵の進軍を遅延させる旨の手紙が届いたので、鮫島金兵衛は九条総督と相談しようと出発したところを、待ち伏せていた仙台藩小人組の5人に殺害され、路傍に埋められた(事件です)。
4月22日、薩摩藩士3人が、弾薬などを羽州へ運ぶ途中に大深沢で、但木土佐の命令を受けた仙台藩士5人に待ち伏せされて、斬殺された。首は荒井が仙台まで持ち帰り、七北田刑場へ捨てたという(まあまあな事件です)。
これと並行して仙台藩・米沢藩を中心に、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書のための会議を、新政府と敵対する軍事同盟へ改変させる工作が行われる。会津赦免の嘆願の拒絶と、世良の暗殺によって、奥羽諸藩は朝廷へ直接建白を行う方針に変更することとなった(新政府はキライなので)。
そのためには、奥羽諸藩の結束を強める必要があることから、4月23日、新たに11藩を加えて「白石盟約書」が調印された。その後、仙台において白石盟約書における大国強権の項の修正や、同盟諸藩の相互協力関係を規定して、5月3日に25藩による盟約書が調印され、同時に会津・庄内両藩への寛典を要望した「太政官建白書」も作成された(団結すれば怖くない!)。
奥羽列藩同盟成立の月日については諸説あるが、仙台にて白河盟約書を加筆修正し、太政官建白書の合意がなった5月3日とするのが主流のようである。同盟のイデオローグ・理論的指導者として仙台藩の漢学者「大槻磐渓」の存在が挙げられる。そして、同じく仙台藩士「玉虫左太夫」は、藩主・伊達慶邦の命を受けて東北諸藩を回り同盟を成立させた立役者の一人として知られる。
翌4日には、新政府軍との会談に決裂した越後長岡藩が加盟、6日には新発田藩等の北越同盟加盟5藩が加入し、計31藩による「奥羽越列藩同盟」が成立した。ここに旧幕府とも新政府とも異なる軍事同盟(地方政府)が、東北地方・新潟県・北海道の「関東以北の北日本」に誕生したのである(すごい)。
しかし、新発田藩は圧力によって渋々参加したものであったため、後に寝返ることになる(うぉいっ!)。
⚫︎ 盟主・輪王寺宮
上野戦争から逃れ、6月6日に会津に入っていた寛永寺の門跡「輪王寺宮公現入道親王」を同盟の盟主に戴こうとする構想が浮上した。輪王寺宮は「会稽の恥辱を雪ぎ、速に仏敵朝敵退治せんと欲す」と述べるなど、新政府軍に対して強い反感を持っていた。同盟側は輪王寺宮に対し、軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請する。
しかし、輪王寺宮は「君側の奸」を除くことには同意し、政治面での盟主にはなるが、出家の身であるために軍事面では指導できないとした。結局、6月16日に盟主のみの就任に決着、7月12日には白石城に入り列藩会議に出席した。
この際、輪王寺宮が同盟の「天皇」として推戴されたという説が存在する。瀧川政次郎がその可能性があると指摘し、遠藤進之助、亀掛川博正らも追随している。藤井徳行はこの説をさらにすすめ、当時の日本をアメリカ公使は本国に対して「今、日本には2人の帝(ミカド)がいる。現在、北方政権のほうが優勢である」と伝えており、新聞にも同様の記事が掲載されていることや、この「朝廷」が「東武皇帝」を擁立し、元号を「大政」と改め、政府の布陣を定めた名簿が史料として残っていることなどから、「東北朝廷」の存在はほぼ確定的になったと主張。星亮一、小田部雄次などがこの説を支持している。
皇族であり、明治天皇の叔父でもある輪王寺宮の擁立は、同盟にとっては統合のシンボル的な価値を持った。いわば「仙台朝廷」の誕生である。それは、後醍醐天皇(南朝)と、足利尊氏(北朝)が戦った「南北朝時代」以来となる、日本史上の重大な出来事であった。
えええ!? うそーん、こんなん全く知らんかったんですけど!?
天皇が2人状態とな? そんなん習いましたっけ? いや絶対習ってないと思うんですけど!(習ってたらごめんなさい)
ともあれ同盟は組んだ。これなら新政府軍も怖くない。来るなら来いってんだ!
てな訳で天下分け目の「戊辰東北戦争」がスタートする。戦闘は大まかに庄内・秋田戦線、北越戦線、白河戦線、平潟戦線に分けることができる。らしい。時系列はやや前後してしまうが、いざ次回からエリアごとに見てゆかん。
参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/戊辰戦争
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/奥羽越列藩同盟
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