「白河口の戦い」とは、戊辰戦争において、会津戦争に至る東北各地の戦いの本格的な始まりとなった戦いで、東北戊辰戦争の戦局に大きな影響を与えた。
江戸時代、白河には白河藩が置かれたが、幕末の藩主・阿部正外が幕府老中として対応した外交問題で失脚し、慶應2年(1866年)白河藩は消滅、藩領は幕府領となっていた。
その2年後の慶應4年、京都で旧幕府勢と薩摩・長州藩が激突。鳥羽伏見の戦いが起こり、1年4か月続く戊辰戦争が始まる。白河は藩主不在だったにも関わらず、交通の要衝であるために、意図せず戦争に巻き込まれていくのであった。
うむ、なんか映画の冒頭テキストみたいで良い感じな導入。ドキドキしてきた。
⚫︎ 会津藩が奥羽の関門・白河を無血占拠
新政府によって徳川慶喜に次ぐ朝敵とみなされた松平容保は、非常事態に備え、軍政の洋式化を断行していた。隊を白虎(16〜17歳)、朱雀(18〜35歳)、青龍(36〜49歳)、玄武(50歳〜)と年齢別に四隊に分けると、新式の銃砲を調達し、フランス式の調練を施した。
鳥羽伏見での戦闘では、銃を装備する者が少なく、また、老若入り混じっていたために足並みが揃わず、それも敗戦の一因になったことを反省したのだ。
奥羽越列藩同盟の結成に先立つ慶應4年(1868)4月20日、会津藩「合義隊」、旧幕府軍「純義隊」「新撰組」の約300名が奥羽鎮撫総監督府下にあった白河城を急襲した。白河は古来より奥羽の関門であり、新政府軍の侵攻を防ぐためには何としてでも押さえておかねばならない要地だったためである。
白河城の守備を任されていたのは、仙台藩、二本松藩、棚倉藩、三春藩、泉藩、湯長谷藩であったが、すでに会津と密約を交わしており、仙台藩兵は19日のうちに兵を引き上げていた。その他の諸藩にも抗戦の意思はなく、新政府側へのアピールのために一応防戦の構えだけは見せたものの、すぐさま城外へと退去。昼には白河城は会津藩の手に落ちた。(ナイスな出来レース)
白河城奪取後、会津藩はすぐさま軍隊を再編成し、白河の守りを固めた。また、奥州道中の国境に立てられていた標柱の文言を「従是北白川領」から「従是北会津領」へと変更し、白河が会津領であることを高らかに宣言した。
この時、新政府軍は宇都宮に布陣していたが、北関東各地における旧幕府軍の抵抗に苦戦。会津方面に回す兵力も不足しており、白河入りを果たしたのは4月25日のことだった。新政府軍の斥候隊が白坂口にて待ち受けていた新撰組「斎藤一」、遊撃隊「遠山伊右衛門」率いる一隊と激突。これまで数々の修羅場をかいくぐってきた新撰組の攻勢は凄まじく、斥候隊はまたたく間に蹴散らされた。(さすが新撰組!)
一方、新政府軍本体は連日の降雨でぬかるんだ道に足を取られ、進軍に手間取ってしまう。なんとか白河城南の小丸山に布陣するが、すでに会津藩は新政府軍の正面、東、西に部隊を展開させており、三方から新政府軍を攻め立てる。その攻勢の前に新政府軍は撤退を決意。宇都宮城の戦いでの死闘による疲労と弾薬不足、そして宇都宮からの無理な強行軍の疲労と土地勘の無さも重なり大損害を出して、芦野まで撤退した。こうして白河城を巡る緒戦は会津藩の勝利に終わった。
やーいやーい!
● 最新鋭の銃火器を擁した新政府軍が白河城奪還
会津藩の前に思わぬ敗戦を喫した新政府軍は、すぐさま陣容の立て直しを図る。芦野に薩摩藩3隊、焼酎藩1隊、大垣藩1隊の700名を集結させると、白河城の奪還をもくろみ進軍を開始した。
一方、白河城には白河口総監「西郷頼母(たのも)」率いる会津藩兵1000名に加え、列藩同盟から仙台藩兵1000名、棚倉藩兵、二本松藩兵らの援軍が合流。総勢およそ3000で新政府軍を迎撃する態勢を整えた。
5月1日、白河城をめぐり、再び両軍は交戦した。新政府軍は軍を右翼、中央、左翼と三隊に分け、白河城の正面と両側から侵攻する。午前6時ごろ、密かに間道を進んだ新政府軍右翼隊が、棚倉口を守備する旧幕府軍「純義隊」に奇襲を仕掛けた。さらに進撃して同盟軍の雷神山砲塁に突撃、これを占拠した。
新政府軍右翼隊と時を同じくして、新政府軍左翼隊は、白河城西の立石山砲塁の攻略に乗り出した。だが、会津藩「朱雀一番足軽隊」中隊頭「日向茂太郎」らの抵抗の前に、一時撤退を余儀なくされてしまう。日向隊は機を逃さず、これを追撃。しかし、新政府軍の伏兵に側面を突かれて日向は戦死。隊は総崩れとなり午前11時ごろ、立石山も新政府軍に制圧された。(あら?)
一方、新政府軍中央隊も白河城の正面口、稲荷山陣地に攻撃を仕掛ける。両軍による攻防戦が繰り広げられる中、雷神山、立石山両面から新政府軍右翼隊、左翼隊がそれぞれ稲荷山陣地へと侵攻。同盟軍は劣勢に立たされた。この苦境を打破すべく、副総督が本営から騎馬で稲荷山へ駆けつけ、最前線へと躍り出るも、新政府軍の銃撃の前に倒れ、戦死した。(あらあら?)
正午過ぎ、白河城は落城した。同盟軍の戦死者は700名にのぼったという。一方の新政府軍の戦死者は10〜20名であり、同盟軍の完敗であった。新式の連発銃を装備した新政府軍に対し、同盟軍の装備は旧式の火縄銃がほとんどであり、火力の差が勝敗を分けたのであった。(あらららら〜?泣)
● 新政府軍による平潟上陸作戦
その後、同盟軍は白河城奪還をもくろみ、幾度となく戦闘を仕掛けた。
5月26日、列藩同盟軍はようやく兵力の再集結を終え、約2,000の兵力をもって白河城へ総攻撃をかけた。雨中であり両軍とも小銃の着火に手間取ったが、特に列藩同盟軍では旧式の小銃が多く戦力の大きな低下を招いた。列藩同盟軍はさらに27日、28日と連続して攻撃をかけたが、新政府軍はこれを撃退した。(ぎゃふん!)
6月に入ると新政府軍は、5月6日の今市の戦いや15日の上野戦争での勝利によって、関東から旧幕府勢力を駆逐できたため、戦力に余裕が生まれ、板垣退助率いる土佐藩迅衝隊等第3銃隊及び第4銃隊や、江戸の薩摩藩兵3隊と砲一隊などの精強な部隊が白河城へ増援された。列藩同盟軍は6月12日にも白河城へ攻撃を仕掛けたが、失敗に終わった。
このころ、新政府軍は海路を用いて白河口から東の磐城地方の平潟に敵前上陸する作戦を立案する。平潟は列藩同盟の勢力圏にあり、平潟周辺を制圧するまでの補給は海路に頼る危険を伴うものだった。新政府は大軍を送りこむことで平潟一帯を確保し、海路と同時に常陸方面からも陸路での兵員、物資の補給を行う計画だった。
平潟を抑えることは陸前浜街道の確保にもつながり、白河口方面の後方遮断と、磐城平藩や中村藩に対する威圧が期待できた。また、磐城平藩と中村藩を脅かせば、隣接する仙台藩にも影響を与えることは必然であった。
16日、白河に近い平潟に新政府軍1500名が上陸。その後も続々と派兵され、7月中旬には3000の兵を擁するようになった。平潟の上陸軍に呼応して、24日に白河から板垣退助率いる新政府軍が、棚倉城攻略のため800の兵を率いて南東へ出発。棚倉城は白河と平潟の中間に位置し、平潟と白河の新政府軍が合流・提携するために確保する必要があったからである。
新政府軍の棚倉攻撃の動きを列藩同盟軍は予期していたが、むしろ白河城奪取の好機と見て白河へ兵力を集結させ、棚倉藩への増援は行われなかった。棚倉城はその日のうちに落城。阿部正外は城が敵に接収されるのを好しとせず、棚倉城を放火して逃走したが、その炎は城下の一部まで広がり、一般民家にまで被害をもたらした。
25日、列藩同盟軍は予定通り白河城へ攻撃をかけたが失敗。更に7月1日の攻撃にも失敗し、戦況は新政府へ傾いていった。8日に庄内藩は白河口救援のため大隊を派遣したが、その途上で、秋田藩および新庄藩などが列藩同盟から離反したとの報が入ったため派遣隊を戻し、同部隊を新庄藩攻撃の任にあてた。
また13日、平潟の新政府上陸軍は平城を占領。以後、軍を再び2つに分け、海岸沿い及び内陸へ進軍を開始、三春にて板垣の白河軍と合流した。列藩同盟軍の白河城への攻撃は14日が最後となった。以降、周辺地域で戦闘が続いたが、白河より北の中通り・浜通りが新政府軍の支配下となった。ここに至り、同盟軍は白河城の奪還を諦め、白河方面から兵を引き揚げることとなった。列藩同盟軍は会津藩領を経由して白河周辺から撤退し、白河口の戦いは終結した。
そして、奥羽の関門にあたる白河を失ったことで、いよいよ列藩同盟の瓦礫が始まっていく。(早いよ!)
白河から列藩同盟軍を南下させることによって、関東地域の旧幕府勢力との協同・関東地域からの新政府軍の駆逐を目指した列藩同盟の意図は、白河城を新政府が確保し続け、関東地域の騒乱が新政府によって収拾されることによって挫折。(がーん)
逆に、板垣の白河軍及び平潟から上陸した新政府軍の中通り・浜通りへの進軍によって、この地域の列藩同盟軍は雲散霧消し、新政府は仙台藩と会津藩を直接攻撃できる態勢が整った。
白河口での敗北によって列藩同盟軍は勝機を失い、東北戦争の大勢は決したと言える。
決するのはや!泣
⚫︎ 敗者たちのその後
稲荷山の山頂の見晴らしの良い場所に、白河口の戦いを指揮した会津藩家老・西郷頼母の歌碑がある。
 うらやまし 角をかくしつ 又のへつ
 心のままに 身をもかくしつ
頼母は、敵からは「朝敵の将」と見られ、会津の人からは、白河口の戦いで惨敗した「無能者」、藩論に逆らって恭順を主張した「腰抜け」、敗戦の責任を負って切腹しなかった「臆病者」などと酷評されている。
妻や娘たちが籠城戦の際にそろって自刃したこと、人望のあった「萱野権兵衛」が頼母の代わりに戦争責任者として切腹したことは、頼母の意志とは関係のないところでの出来事だったが、生き永らえた頼母に対する世間の目をより厳しいものにした。(つらかろう)
頼母は、そのの苦しい心情を「身を隠すことのできるかたつむりが羨ましい」と吐露しています。碑の脇にはご丁寧に、かたつむりの像まである。(何とも言えないブラックジョークである)
白河口の戦いに敗れた東軍の兵士たちにも、残酷な最期が待っていた。その舞台となったのが、白河市街を流れる谷津田川に架かる円明寺橋である。
この橋の上で、稲荷山で捕虜となった東軍の兵士たちは、次々に斬首され、首も胴体もこの川に投げ捨てられた。川は「血染めの川」と呼ばれたという。橋のたもとには、処刑された兵士たちの霊を祀う「南無阿弥陀仏」の石塔が地元の人たちの手によって建てられている。
また、白河口の戦いの際、白川領の入口にあたる白坂村の庄屋「大平八郎」が、新政府軍の道案内をし、新政府軍の劇的な勝利に貢献した。八郎はこの功により、1万石の庄屋に出世する。
八郎の行いを恨んだ旧会津藩士の「田辺軍次」は、遺恨を晴らすために、戊辰戦争後の1870年、移封先の斗南から1ヶ月かけて白坂村にやってきて、八郎を討ち果たし、自らも切腹して果てた。21歳であった。斗南での暮らしの悲惨さが、若い藩士を仇討ちに走らせたのであろうか。これも戊辰戦争がもたらした悲劇の1つである。(けどちょっとスッとする話)
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