新年あけましておめでとうございます。
昨年末でようやく「戊辰東北戦争」が終わりましたね。日本最大にして最後の内乱だというのに、こんなにも知らないことばかりだったのかと自分の無知さに驚愕した1年でした。これが果たして自分のせいなのか、それとも意図的な日本の歴史教育の結果なのか、ちょっとモヤモヤしますが、ともあれ、これにて江戸時代も終了ってことで、年の瀬ピッタリで区切りがついて良かった良かった。
、、、でも、まだ終わってないんですよね。。元号は明治に変わりましたが、やはり函館戦争まで完結させねば、本当の江戸時代終焉とは言えないわけで。しかたがないので、もうちょっと追っかけてみますかね。
⚫︎ 出遅れた榎本艦隊
明治へと改元された9月22日、会津藩は降伏した。降伏の調印を担当したのは、板垣でも伊地知でもなく、西郷隆盛の側近「中村半次郎」である。このことは、会津戦争が新政府内での西郷の政治的駆け引きの一環であったことを象徴している。(腹立つ)
その後、会津の人々は青森県の下北半島へと移住を命じられた。荒涼たる地であり、厳しい寒さに覆われた流刑の地でもあった。彼らは幾多の苦難と屈辱に耐えながらも、「会津魂」を胸に秘め、逞しく生き抜いていくことになる。(、、うう悔しい)
会津平定とほぼ同じ頃、義を重んじ会津・庄内と志を同じくして戦った南部盛岡藩もついに降伏した。こうして新政府は東北一帯を掌中に収め、日本のほぼすべての地を制圧するに至った。戊辰戦争は、ここに終結したかのように見えた。
だが、旧幕府軍の志は未だ消えてはいなかった。
時をさかのぼることおよそ一か月前──8月26日。「榎本武揚」率いる艦隊が江戸湾を出航し、仙台港へと姿を現したのである。途中、彼らは激しい暴風雨に襲われ、老朽艦であった「美賀保」と「咸臨」は消息を絶った。品川を堂々と出航した八隻の黒き艦影は、大自然の試練を経て、傷だらけの六隻となって北の海にたどり着いたのだった。
榎本武揚は仙台城へ登城し、列藩同盟の今後を議する円卓会議に臨んだ。席上、榎本らは徹底抗戦を主張し、その姿勢を崩さなかった。また、会津周辺で転戦を続けてきた土方歳三も、抗戦の意思を固めていた。
一方、仙台藩内では意見が真っ二つに割れ、主戦派と恭順派の激しい議論が続いた。最終的に、藩主は藩の存続を第一に考え、戦いを放棄する決断を下す。こうして仙台藩は戦線を離脱し、各地の藩兵を撤収させたのである。(仙台の裏切りもの!)
各地で戦い続けていた兵たちは、会津鶴ヶ城が包囲されたと聞くや、もはや帰る地を失った。行き場のない彼らが次に目指したのは、榎本のいる仙台だった。
仙台城の周りには、戦いを諦めきれぬ男たちが集まり、黒い渦のように息づいていた。仙台藩の誇る額兵隊。大鳥圭介の伝習隊。土方歳三が率いる旧新選組の残党。そして、会津にも戻れず、彷徨う敗残兵たち──。
彼らは、会津の無念を噛みしめ、薩長への憎悪を燃やし、仙台や米沢の離反を恨んだ。そして、出航の時を逃した榎本への怒りも、静かに、確実に膨らみつつあった。そう、会津戦争では、いくつもの「もし」があった。
もし、白河が緒戦で破られていなかったら(それな)。もし、列藩同盟が防戦に徹するのでなく、江戸侵攻の積極策を取っていたら(それもそうよ)。もし、仙台・米沢が最後まで会津と共に戦っていたら(ほんとそれ)。もし、榎本があと1ヶ月早く仙台に着き、新潟と平潟に軍艦を回航させていたら(それだよ!)。
最後に残された「もし」が、最も現実味を帯びていた。それだけに、人々の落胆も深かった。非難の矛先はすべて榎本武揚に向けられたが、榎本は沈黙せず、彼らに夢を語り続けた。根気強く、何度も、丁寧に──。
「薩長の専横によって世は乱れ、我らは居場所を失った。恩ある徳川家も、誇り高く戦った会津藩も、いまはもうない。我らは亡国の民だ。だが、帰る家を失ったのなら、新たに築けばよい。私は蝦夷に夢を見る。未踏の地に、我らと家族が平和に暮らせる理想の国を──築こうではないか!」
亡国の民。理想の国家。未踏の大地──。榎本の言葉は、荒んだ心に静かに火を灯した。己の未来のために、妻や子の明日のために。
敗戦に打ちひしがれ、すべてを失ったはずの人々が、その言葉にわずかな希望を見つけ始めていた。艦を修理し、物資を積み込みながら、榎本の夢に賭けようとする者たちが次々と集まる。だが、そのすべてを乗せることはできない。
榎本は、およそ3000名──船の限界に達する人数を選び、新天地への航海を託した。
選ばれた主な顔ぶれは、前桑名藩主で京都所司代だった松平定敬、前松山藩主で幕府老中だった板倉勝静、歩兵奉行・大鳥圭介に加え、旧幕府のフランス軍事顧問団、土方歳三ら新撰組などの残党、渋沢成一郎ら将棋隊などの残党、会津藩筆頭家老の西郷頼母、奥羽越列藩同盟の主戦派など。
明治元年十月十二日。
榎本艦隊、再び海へ。満身創痍だったかつての艦隊は、今、希望の名を掲げて仙台を発つ。その行き先は、誰も知らぬ北の荒野。榎本たちにとって、それは異国へ旅立つにも等しい、新たな国づくりの船出だった。
旗艦「開陽」 …蒸気船、オランダ製
軍艦「回天」 …蒸気船、イギリス製
軍艦「蟠龍」 …蒸気船、イギリス製
輸送艦「神速」 …蒸気船、アメリカ製
輸送艦「長鯨」 …帆船、イギリス製
輸送艦「太江」 …蒸気船、アメリカ製 ※仙台での補充艦
輸送艦「鳳凰」 …帆船、国産 ※仙台での補充艦
⚫︎ いざ、新天地へ
10月20日──出航から8日後。蝦夷の地はすでに初冬の気配に包まれていた。身を切るような寒風が吹き荒れ、江戸はもちろん、奥羽の厳冬をも凌ぐ冷気が榎本艦隊を迎えた。
彼らが最初の上陸地点に選んだのは、鷲ノ木(わしのき)。箱館の反対側に位置するこの地を選定したのには理由があった。
それは、松前藩の存在である。
かつて奥羽越列藩同盟の一員であった松前藩は、内部抗争の末に同盟を離脱し、榎本らにとっては敵か味方か定かでない不安定な存在となっていた。そのため、榎本は彼らを刺激せぬよう、松前藩の支配圏を避けて鷲ノ木に上陸し、箱館を目指す戦略を取ったのである。(なるほど)
当時、箱館を統治していたのは「箱館府」と呼ばれる明治新政府の地方機関であった。しかし、その兵力はごくわずかであり、榎本は攻略は容易であると見ていた。ただし、松前藩が新政府側と手を結ぶ事態だけは避けねばならない。箱館への上陸が遅れれば、それだけ新政府軍に準備の時間を与える──。(それはアカン)
榎本は短期決戦を決意していた。蝦夷地を掌中に収めるまでは、一瞬たりとも手を緩めない。彼は箱館府に向けて布告を発した。
「蝦夷地の統治は、旧幕臣である我々に任せていただきたい。もしこの願いが受け入れられぬなら、戦闘も辞さぬ」
それは、実質的な宣戦布告であった。同時に、大鳥圭介・土方歳三を中心とした陸軍を編成し、箱館へ進軍させる。戦闘は小規模な衝突のみで、瞬く間に決着がついた。奥羽で激戦をくぐり抜けてきた榎本軍に対し、戦闘経験の乏しい箱館府の防衛隊は抵抗らしい抵抗もできず、壊滅。箱館府の要人たちは青森へと逃亡し、榎本軍は箱館市街をほとんど無傷で制圧した。(よっしゃ)
榎本の胸中には、壮大な理想があった。
「まずは、この最初の冬を無事に乗り越えることだ。年が明ければ、明治政府との交渉に入らねばならぬ。戦いは避け、時間を稼ぐ。その間に、地元の人々と関係を築き、蝦夷の地に根を下ろすのだ。やがては、数十年、いや数百年続く、徳川の世にも劣らぬ平和な国家を築きたい」
榎本の目は、現実を見据えながらも未来を夢見ていた。そのための拠点をどこに置くか──。それこそが、彼らにとって最も重要な課題であった。防衛に優れ、箱館にも近く、そして新たな国家の象徴となりうる場所──。榎本はすでに存在する「五稜郭」に目をつけた。
五角形の端正な形を描くその要塞は、近未来的な印象すら与える美しい構造をしている。五つの角に配された砲台は、どの方向から敵が攻めても応戦できるよう設計されており、死角がほとんど存在しない。内部には天守閣のような高い建物がなく、全体が低く平らな構造のため、敵艦が函館湾奥まで侵入しても発見されにくく、艦砲射撃の標的となりにくかった。
それは、日本の伝統的な城郭の常識を覆す、唯一の洋式要塞。
設計者は「武田斐三郎」──榎本や大鳥とも旧知の人物である。
「会津を見捨て、奥羽諸藩を犠牲にしたと陰で言う者が多いのは承知している。だが私は新政府と戦って国を滅ぼすことが目的ではない。本当の目的は、追われた旧幕臣たちとともにこの蝦夷の地に理想の新国家を建てることだ」
榎本は、五稜郭にその第一歩を刻んだのだ。
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