ピロリン ピロリン
ん? なんか臨時ニュース来たぞ?
《 会津若松・鶴ケ城 総攻撃開始 》
新政府軍は、3週間に渡り抵抗を続けている会津鶴ヶ城に対し、薩摩の伊地知正治、桐野利秋、土佐の板垣退助らが指揮する新政府軍は、きょう午前6時、ついに鶴ヶ城へ総攻撃を開始しました。
7ヵ所の砲台から、50門の大砲が城内へ集中砲撃を実施。このうち、薩摩・肥前・大村・松代の藩兵は、強力なアームストロング砲で城に砲撃を加えました。鶴ヶ城の中は、砲弾の煙で夜のように暗く、砲撃の音で話もできないほどだったということです。会津側によりますと、天守閣は破壊され、城内のあちこちで火が上がり、数え切れないほどの死傷者が出ています。
な、なんてこった、、、
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9/14 籠城22日目
3日間にわたる熾烈な総攻撃開始
雪に不慣れな出身者が多い新政府軍は、冬がくる前にどうにか決着をつけたかった。今で言えば11月上旬、冬は間近に迫っていた。極寒では自分たちが不利になることは明らかだったからだ。
この日、朝8時を期に全軍に総攻撃の令を出し、外郭16の門、その他に小田山や近郊から一斉に砲撃を開始した。これまで以上の砲弾が鶴ヶ城に撃ち込まれ、照姫の部屋にも直撃。部屋で警護にあたっていた山川大蔵の妻「とせ」が、焼玉押さえ(着弾した大砲を濡れた布団や着物で包んで冷やし爆発を抑える方法)に奮闘していたが、不幸にも破裂弾に吹き飛ばされて犠牲になった。山川の妹「咲子」も首に傷を負った。
ぎゃーー!! 鬼ーー!
9/15 籠城23日目
遅すぎた榎本艦隊。恭順派に押され仙台藩は降伏
「奥羽は破れる、榎本の行動は暴発だ」と榎本艦隊の出帆を止めたのは勝海舟だった。榎本も当時は危機感が薄く、逆らうこともなく約2ヶ月も品川の海にとどまっており、8月末にようやく仙台湾に姿を現した。榎本艦隊の来航に一時は勢いづいた仙台藩の主戦派だが、すでにこの間に制海権は奪われていて、榎本艦隊の無力さが露呈すると、藩内でも恭順派が日に日に強くなっていった。
会津から援軍を要請に来た大鳥圭介らが会津絶望を伝えたことも大きく、ついには恭順派に押されて仙台藩は15日に降伏を伝えた。会津藩も8日には使者を米沢藩の本陣に向かわせて降伏の打診をさせていた。その後15日に使者を再び米沢に向かわせ、正式に斡旋を依頼。翌日、新政府軍は米沢藩を通し、投降を勧告した。
なにチンタラやてんだ榎本ーー!
9/16 籠城24日目
驚くほど大砲に精通した八重の説明
新政府軍の攻撃が始まった時、容保は新政府軍が撃ち込んでくる西洋式大砲の説明を求めたことがあった。これに答えたのが山本八重だった。
八重は焼玉押さえで冷やした不発弾を抱えて容保の前に現れると、不発弾を分解して中から鉄片を取り出した。「弾が罰発すると、この鉄片が四方に飛び散り、周りに被害を与えるのです」不発弾とはいえ砲弾の分解は危険を伴うもの。大砲の仕組みに詳しくなければ出来ることではなかった。理路整然な説明にその場にいた者たちはみな舌を巻かれたという。
また、八重は襷がけで城内の砲台をまわり、大砲の照尺(狙いを定める装置)の遠近や、火薬の増減など丁寧に世話していた。豊岡社からの攻撃の際も、八重は夫「川崎庄之助」を助けて大砲を放ち、小田山の新政府軍に命中させ「さすがは砲術師範の家の女」と感心させたという。
さすが八重ちゃん!
9/17 籠城25日目
一ノ堰の戦いで八重の父、山本権八ら戦死
一ノ堰付近の新政府軍は城内への補給路を完全に絶とうと激しい戦闘を始める。15日の戦いでは会津軍が勝利したものの、隊長などの指揮官を多数失ってしまった。17日になり、新政府軍は再び兵力を整えて一ノ堰に向かった。激戦を重ねたが、ついに会津軍は補給路を死守できず、大川を渡り本郷村に敗走してしまう。
山本八重の父「権八」は、玄武隊(50歳以上の藩士で構成する部隊)の一員として出陣し、この戦で戦死している。この一ノ堰の敗戦で、城は完全に包囲された。
ああ〜! 八重パパが〜〜!泣
9/18 籠城26日目
高田村、約200戸消失。連絡路を絶たれる
新政府軍は、最後の会津藩拠点攻防の決着をつけようと、重要補給地の高田村に進攻する。この報告に、佐川官兵衛の隊は大内から高田に移ってきた。
18日は夜も明けないうちから猛攻撃が始まった。官兵衛は司令部を伊佐須美神社に置き、応戦した。しかし、兵力武器ともに敵軍に圧倒され問題にならない。散々に撃ちまくられて敗走した。佐川隊は永井野から山中に入り、市野峠を守りながら大内へ落ちた。会津藩は高田を奪われ、城と外部をつなぐ最後の連絡路を絶たれた。民家も多数焼かれた。
高田の総攻撃は午前中で終わり、これで会津平野の城外での戦闘は全て終了した。高田占領後、新政府軍は若松城下になだれ込んだ。
、、もうダメぽ (古い)
9/19 籠城27日目
米沢藩を介し、土佐藩に停戦を申し出る
15日に「仁和寺宮義昭(にんなじのみやよしあき)親王」が錦旗(朝廷の軍の旗)を奉じて会津坂下町に進軍したことは、会津藩に大きな動揺を生じさせた。立場を立て直す大義名分を失ったからだ。もはやこれまでと降伏を決断した松平容保は、米沢藩陣営に「手代木直右衛門(てしろぎすぐえもん)」「秋月悌二郎(あきつきていじろう)」の2人を派遣して停戦を申し出た。
米沢藩もなんとか会津を助けたいと薩長軍内部で停戦交渉を進めていて、土佐藩参謀の板垣退助が中に入り、会津藩の降伏手続きが進められた。降伏後、会津の人間は全員殺されるかもしれないと覚悟した会津藩は、何としてでも会津人の血を後世に残すべく、藩校日新館で最も優秀だった「山川健次郎(山川大蔵の弟)」と「小川亮」の2人を選び、逃がすことにした。
2人は秋月悌二郎と親交のあった長州藩士「奥平謙輔」に書生として預けられた。会津憎しとする長州に未来のある少年の命をつないだのだ。
いつか仇を討ってくれろ、、、
9/20 籠城28日目
板垣退助が6つの降伏条件を掲示する
新政府軍の板垣退助が会津藩使者の2人に示した降伏条件は以下の6つ。
1 22日辰の刻(現在の朝7時〜9時ごろ)を期して、大手門外に「降伏」と大書した白旗を掲げる。
2 松平容保・喜徳父子は政府軍の軍門に来て降伏を請う。
3 家臣の男子は猪苗代に移って謹慎する。
4 14歳以下60歳以上の男子ならびに女子はどこに居住してもよい。
5 城中の傷病者は青木村に退いて引きこもる。
6 銃器・弾薬は取りまとめて、開城の日に官軍に引き渡す。
うん、でも9/15に降伏打診した時点でなぜすぐ動いてくれんかった?
9/21 籠城29日目
容保、重臣を集め恭順の是非をはかる
容保は条件を受け入れ全軍に降伏を命じた。しかしながら城の者たちは受け入れられない。新政府軍の非道ぶりをあげて徹底抗戦を叫んだが、同盟崩壊とこれまでの兵士や領内の犠牲、城下は半分以上が焼け野原で、城内の食料も塩以外はほとんどなくなっていた。
ついには賊軍の烙印を捺されたのが決定的だった。沈痛の中の決断、不服を唱える者を愉し、ようやく諸将の同意を得た。城内の女性たちは降伏用の白旗を縫うことになった。白い布は負傷者の包帯がわりにほとんど使ってしまったので、端切れのような布を寄せ集めて縫い合わせた。みな悔し涙でなかなか作業が進まなかった。
降伏開城の前夜、山本八重は雑物庫の白壁にかんざしで和歌を刻む。
明日の夜は 何国の誰か 眺むらん
慣れし御城に 残す月影
翌日、北追手門に降参の白旗が掲げられた。
9/22 籠城30日目
無念の降伏、開城。会津戦争終わる
容保は降伏式に臨み、新政府軍の軍監「中村半次郎」に降伏謝罪文を提出した。会津藩士たちはこの無念を忘れまいと降伏式で使われた緋毛氈を小さく刻み、懐中に忍ばせた。後に「泣血氈(きゅうけつせん)」と呼ばれ、これを胸に会津の名誉回復を誓うのだった。
降伏調印後、容保・喜徳父子は妙国寺に送られ謹慎。藩士らは猪苗代、塩川に送られた。会津藩は廃藩となった。新政府側は容保父子助命の代わりに戦争の首謀者を差し出すよう要求。家老の3人が不在(田中土佐、神保内蔵助はすでに自刃、西郷頼母は函館で戦っていた)のため、四番家老の「萱野権兵衛」が会津藩の責任を一身に背負って自刃した。
この戦争で亡くなった会津藩士は約3000人、自刃した婦女子は233人に上るといわれる。
そして、この悔しさによく似たやつを、第二次世界大戦後に日本人全員が味わうんだよ、、
ひとまず、会津戦争の集結までの流れはこうだったらしい。非常に分かりやすいカレンダーのおかげで、難しい本を読まずに済んで助かりました。ホント買ってよかった。あ、もしこのブログを読んでいる私以外の人がいたならば、カレンダー絶対買ってくださいね! 冒頭のリンク先からも注文できますけど、どうせなら鶴ヶ城に登って中の売店で買ってください。そして会津若松市にお金をたくさん落としてくるように!
てことで、今年はここまで。良いお年を〜(自分に対して言ってる)
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