vol.168「蝦夷共和国」について


函館と五稜郭は占領したし、あとは松前藩さえ追い出してしまえば、蝦夷地は支配したも同然! 新政府軍が攻めて来る前に、やること全部やっちまいなっ!




⚫︎ 陸と海の総力戦をしかける


箱館府の要人たちが逃亡したことにより、榎本軍はほとんど抵抗を受けることなく五稜郭を接収した。しかし、彼らは勝利に安住することなく、すぐさま陸軍部隊を半島西部へと転進させる。


渡島半島の西側、現在の松前半島にあたる地域は、当時松前藩の領地であった。榎本側は事前に和睦を提案したものの、松前藩はこれを拒絶し、交渉は決裂していた。こうした経緯を受け、榎本軍はついに松前藩領へ進軍し、武力によって事態を打開しようとしたのである。(やったれやったれー)


土方歳三にとって、これは久方ぶりの本格的な戦闘であった。戦いの緊張、血の匂い──それらこそが、彼の存在を最も強く実感させるものであった。戦場は生の場所であり、同時に死の場所。命がもっとも輝く瞬間であり、その輝きが尽きるとき、彼は戦士としての最期を迎える。土方のその烈しい気迫は部下たちにも伝わり、土方隊は次々と敵を撃破。わずか数日で松前城の目前に迫った。


しかし、松前藩はなおも抗戦の構えを崩さなかった。城内には兵力を温存し、徹底した防衛体制を敷いていたのである。松前城は、かつて徳川幕府が北方防衛の要として築いた城である。その構造は周到に設計され、陸上からの攻撃には深い堀を設けて防御を固め、海上からの艦砲射撃に対しても、城の内外に砲台を設けて反撃可能な仕組みとなっていた。このため、陸と海の両軍が連携しなければ、攻略は到底かなわない堅城であった。(なかなか手強そやな)


榎本軍にとって、この戦いは陸海軍の協力体制を試す初の本格的な戦闘となった。まず、土方率いる陸軍が城近くの丘陵を占拠し、そこを砲兵陣地として整備。その位置から城外の海岸砲台を砲撃し、海上からの艦隊行動を可能にした。


陸軍の作戦成功を確認したのち、榎本軍の主力艦「回天」と「蟠龍」が沖合から接近。二隻は松前城に対して猛烈な艦砲射撃を浴びせた。城の防衛機能が大きく損なわれたところで、土方隊が背後から突入。陸と海、双方からの波状攻撃を受けた松前城はついに陥落した。敗れた松前藩兵は城を捨て、奥地へと退却していった


土方は撤退する敵を逃さなかった。その執念はまるで獲物を追う猟犬のようであり、血の匂いをたどりながら、敵の残党を徹底的に追撃していったという。(さすが鬼!)




⚫︎ 榎本武揚、外交の戦場へ


その頃、榎本武揚は松前を離れ、箱館へと戻っていた。彼には、松前藩の攻略以上に重大な使命があった。それは、新政府軍との戦いよりも厄介な「外交戦」である。


箱館には各国の領事館が置かれていたが、榎本一行を「正当な政権」とみなすか、それとも「反乱軍」と断ずるか、彼らは判断を保留していた。領事たちの報告ひとつで、榎本らの立場は国際的に決まってしまう。


榎本が目指したのは、列強諸国に対し「局外中立(Neutrality)」を守らせ、自分たちの政府を独立国家として事実上承認させることであった。海外留学で培った法学と国際感覚、そして大胆な交渉術。すべてはこの瞬間のためにあった。


榎本がまず取った行動は、象徴的かつ挑発的だった。旗艦・開陽を箱館湾に浮かべ、外国領事館に向けて威嚇の空砲を放ったのである。もし実弾であれば、領事館は一瞬で粉砕されていた。榎本は、ヨーロッパで学んだ現実主義をよく理解していた。


「外交の力とは、結局のところ武力である。」


理想や正義だけでは国際政治を動かせない。軍事力を背景にしてこそ、交渉は成立する──それが榎本の確信だった。列国の中で最も榎本にとって厄介だったのは、イギリスである。薩長政府を支持していた英国は、榎本軍を「反乱勢力」と断じ、箱館占領の正当性を認めず、フランスやロシアに対しても圧力をかけていた。


榎本はこれに真正面から反論する。

「内乱が起きた国では、諸外国は中立を守るべきである。内乱軍が領地を占拠した場合、その地は国際法上、占領軍の支配下に入る。よって、箱館および箱館港を我々が占有・封鎖するのは当然の権利である。貴国が近代国家である以上、この原則を無視することはできまい」


もし英国が反論すれば、その瞬間、開陽の砲門が再び火を噴くことになる──。榎本の理詰めの論理と軍事的圧力の前に、イギリスはついに折れた。英国が態度を軟化させたことで、列強諸国も榎本政権を「事実上の政府(De facto authority)」として認めることになった。これは、榎本武揚とその一行が、ついに独立国家としての第一歩を踏み出した瞬間である。


その日、榎本の胸には久しぶりに高揚の感情が湧き上がっていたに違いない。それは戦場での勝利とは異なる、外交という新たな戦いにおける勝利の手応えだった。(榎本やるやん汚名挽回だね!)


その頃、土方歳三は松前で敗走した敵軍を追撃し、江差の地まで追い詰めていた。榎本軍は、渡島半島の制圧をほぼ確実なものとしつつあった。


あと一歩──。

この戦いに勝利すれば、蝦夷地から新政府の影響力を完全に排除できる。そうなれば、榎本軍は蝦夷の防衛体制を整え、新政府との本格的な交渉、あるいは再戦の準備に集中できるはずだった。


しかし、その「あと一歩」が、決して踏み出せない一歩となる。(な、なんだと?)

榎本は慎重を期し、江差の戦線を支援するため、旗艦・開陽を出動させる決断を下す。開陽は、重厚な艦体を波間に揺らめかせながら、静かに江差へと向かった。


だが、その判断の先には──

榎本軍を揺るがす、最大の悲劇が待ち受けていたのである。(う、うそやろ?)




⚫︎ 蝦夷地共和国の誕生


明治元年12月15日。箱館の空に、轟音が鳴り響いた。五稜郭、弁天台場、港に停泊する軍艦「蟠龍」「回天」──それぞれの砲門から放たれた空砲が、次々と冬の空気を震わせる。その数、101発。松前藩の降伏と、蝦夷地の統一を記念する祝砲であった。港町・箱館は、この日、かつてない熱気に包まれた。人々は通りにあふれ、勝利を称える声がそこかしこから上がる。


「榎本の軍はめっぽう強いそうだ」

「松前の殿様は青森まで逃げたらしい」

「士官はみな、航海術のエリートだという」


その評判どおり、榎本軍の兵列は壮観だった。赤いラシャの軍服に身を包んだ仙台額兵隊を先頭に、三千の兵士が整然と行進する。隊列の中心には、榎本武揚の姿があった。夜になると提灯の灯りが街を彩り、箱館の夜空は歓声と笑い声に満ちた。街全体が、新しい蝦夷島政権の誕生を祝福していた。


だが、その賑わいの中で、榎本武揚だけが笑っていなかった。人々が歓喜に酔うほどに、彼の心は静まり返っていた。戦いは終わった。だが、これから始まるのは「国家を運営する」という、より厳しく、より重い戦いである。


101発の祝砲が、榎本にとっては「勝利の音」ではなく、これから背負う責任の重さを告げる「始まりの音」に聞こえていたのかもしれない。


その1か月前──。

榎本武揚は、旗艦「開陽」とともに江差沖に姿を現していた。土方歳三率いる陸軍が、松前藩の敗残兵を江差まで追い詰めつつあり、榎本はその援護に向かっていたのである。


榎本の読みでは、松前勢は江差に拠点を築き、最後の抵抗を試みるはずだった。そのため榎本海軍は、陸軍の攻撃を支援するため、艦砲射撃による援護を計画していた。また、来るべき新政府軍との決戦に備え、開陽を実戦に慣らすという意図もあった。


しかし、榎本を迎えた江差は驚くほど静まり返っていた。予想された戦闘の気配はどこにもない。実際には、土方の軍がすでに松前藩の残党をさらに奥地へ追い込み、勝利をほぼ確実なものとしていたのだ。もはや、海からの援護は不要となっていた。(さすが土方)


榎本は拍子抜けの思いで上陸し、海岸を見渡した。凪いだ海、穏やかな空気──その静けさの裏に潜む運命の影に、彼はまだ気づいていなかった。開陽には、わずか数名の機関士だけを残していた。

その夜、突如として天候が一変する。榎本が異変に気づいたときには、すでに手遅れだった。鋭い風が甲板を切り裂くように吹き荒れ、怒涛の波が海を覆いつくす。暴風は開陽を容赦なく岸へと押し流し、巨艦は木の葉のように翻弄された。そして、開陽は座礁し、動かなくなった。(え?)


箱館戦争における最大の悲劇の幕が、静かに、しかし確実に開きつつあった──。

(えええーー?)


房総半島沖での遭難に続き、榎本武揚は再び海での不運に見舞われた。彼は前回の経験から海の危険さを理解していたはずだったが、穏やかに見える海面に油断してしまった。最初の遭難は台風による自然災害だったが、今回の事故は判断の誤りによる「人災」であった。


もし榎本が蝦夷地(現在の北海道)の厳しい冬の気候をよく知っていれば、少人数を残して下船することはなかっただろう。また、現地の人々に助言を求めていれば、事故は防げたかもしれない。榎本には、理論を重んじすぎて現実への対応を誤るという弱点があった。彼は理想を追う一方で、現実を軽視する傾向を持っていたのである。(たまにいるよねそんな人)


しかし、この理想主義こそが、彼のもう一つの長所でもあった。榎本が掲げた「蝦夷共和国」の夢は、明治新政府に敗れた旧幕臣たちに希望を与えた。この構想が今日まで語り継がれるのは、不可能と思える理想に挑戦した姿が、多くの人々の心に残ったためである。


その後、懸命な救助もむなしく、開陽は数日後に沈没した。外洋での経験不足と気象判断の誤りが重なり、さらに救援に向かった神速までもが嵐に巻き込まれる「二重遭難」となった。この出来事は、当時の日本の海軍技術や気象対応力の未熟さを示す象徴的な事件として知られている。(詰めが甘いよ〜榎本さん!)

彼がいかに落ち込んだかは、言うまでもない。その彼に自信を取り戻させたのは、土方歳三であると言われている。修羅場をかいくぐってきた土方の、「戦場では何が起ころうとも、動揺したものが必ず負ける」という言葉によって、彼は総司令官の自覚を取り戻した。


松前藩は、海上からの援護なく、無事に制圧された。松前藩の捕虜は、国際法にのっとって人道的に扱われ、希望者は青森へ送還された。




⚫︎ 榎本武揚と「入れ札の政府」――蝦夷共和国という理想国家の試み


江差沖での遭難という大きな損失を経て、旧幕府軍の一行は箱館へと戻った。迎えた凱旋のパレードで、榎本武揚の顔には満面の笑みこそなかったが、そこに敗北の色はなかった。むしろ、彼の胸中には再び「新しい国をつくる」という熱意が灯っていたのである。


パレードの後、榎本の提案により「入れ札」による組閣が行われた。入れ札とは、今日でいう「選挙」のことである。この制度を政府の最高幹部選出に取り入れたのは、日本史上初めての試みだった。


実はこの発想には、坂本龍馬との共通点がある。龍馬はアメリカの政治制度を知り、「リーダーを選挙で選ぶ」という民主的な考えに深い感銘を受けていた。彼は最初の新政府構想では自ら人選を行ったものの、以後は立場や出身にとらわれず、人格と能力によって人を選ぶ政治体制を夢見ていた。もし龍馬が生きていれば、同じように入れ札による閣僚選出を実現しようとしたに違いない。


そして奇しくも、その理想を現実の形で実行したのが榎本武揚であった。龍馬が夢見た「能力本位の政治」を、榎本は北の大地で実際に制度として導入したのである。この入れ札によって選ばれた新政府は、後に「蝦夷共和国(Republic of Ezo)」と呼ばれる。その名が「共和国」とされたのは、民主的な選挙制度を採用した点に由来している。


組織の中枢は次のようであった。

とくに注目されるのは、「開陽」の艦長であった沢太郎左衛門が「開拓奉行」に任命されたことである。海軍出身の彼を、あえて開拓行政の責任者に据えたのは、榎本が国の基盤を「開発と富の創出」に置こうとしていたためである。海から陸へ──その人事には、榎本の国家構想の方向転換が明確に読み取れる。


榎本武揚のこの試みは、旧幕臣による一時的な政権という枠を超えて、日本近代政治史における象徴的な出来事といえる。「入れ札の政府」は、身分や出自ではなく、人徳と能力で人を選ぶという近代的理念に基づいていた。それはまさに、近代日本の「民主主義の萌芽」とも言える実験だった。


しかし同時に、それは理想と現実のはざまに立つ危うい試みでもあった。資源も乏しく、国際的承認も得られぬまま、蝦夷共和国は短い命で終わることになる。だがそのわずかな期間に、榎本が示した理想主義的政治の形は、後の日本が歩む近代国家建設の一つの原型となったのである


国家は、ついに誕生した。


残された課題は、ただ一つ──この国を守り抜くこと。もし開陽喪失の報が新政府軍に届けば、間違いなく総攻撃が始まるだろう。榎本はそのことを十分に理解していた。そして、迫りくる戦いを前に、静かに決意を固めるのであった。




ん〜、ダサいんだかスゴいんだかw

開陽を失ったのは痛いどころか致命傷レベルの大失態だけど、新国家樹立の偉業でまあかなり挽回した感はありますな。頼もしいんだか頼りないんだかw



参考
http://tvrocker.blog28.fc2.com/blog-entry-505.html?sp
http://tvrocker.blog28.fc2.com/blog-entry-510.html?sp

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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